23-3 手の届かない人
手の届かない人。お傍にいることはできない人。それでもいい。それでも、あの人が…………
雨はやみ、夕日は深い傷口のように雲の切れ間より顔をのぞかせ京を赤く染めたがそれもわずかな間であった。その日、
(こんなところに、あの人は住んでいらっしゃる……)
青桐舎に仕える女房たちは青龍を歓迎した。殊に喜んだのは栃野であった。青龍は幼いころ――それこそ青龍に選ばれる以前から母とともに青桐舎に出入りしていたこともあって、この嫗には大変かわいがってもらえたのであった。栃野は芳野の病気の様子をうかがったり、自分も近頃左膝が痛んでかなわぬことを語ったりし、老い先短いこの身にでもはや何に執着しようとも思わない、あらかたのことは諦めがつくとはいえ、ただお一人東宮のことだけは心配でならないと涙がちにこぼしたりもした。青龍は辛抱強く嫗の話に付き合い、聴き入り、励ました。自分も同じ心配を抱えていることは懸命に押し隠して。
すっかりあたりが暗くなったころ、ようやく嫗に解放されて、青龍はひとり庭先へと出た。東宮はまだお帰りではないのだろうか。お顔をみたところでどうということでもないのだけど……この切ない思いがいよいよ切なくなるだけで。でも、もしこのままお会いせずに帰ってしまったら、もっと切なくなるのではなかろうか。
(バカなあたし。こんな想いはそもそも許されないのに、自分勝手な想いを満たそうとしてる。あの方はあたしにかかずりあっている暇なんてない。あの人は帝になられる方。あたしなんかの手が届くお相手ではない)
ちょうど青龍の足が池を縁どる平たい石を踏んだ時、その足元に何か小さな丸いものがころころと転がってきて爪先に触れて止まった。灯りは遠く、池の水さえただの深い影となりかすかな波の音でその所在を知らせるのみとあっては、拾い上げるより他にその正体を確かめるすべはなかった。それは鞠であった。
「そんなところでふらふらしてると、池に落ちるぞ」
青龍ははっとして声のした方を仰ぎ見た。今度は
「桐蔭宮さま……」
「久しぶりだな、青龍」
青龍は人知れず鞠を抱きしめた。懐かしさと、完璧には懐かしさと混ざりあわない感情とが、刹那に手を震わせ、右手と左手から発せられた震えは鹿の皮で繕われた鞠の曲面をそれぞれ滑り、腰皮のあたりでぶつかって弾けた。青い火花が散りそうなほどに。
「えぇ、ご無沙汰しておりました……勝手にお庭に出て申し訳ありません」
「しおらしくするな、なんかむずむずするから。昔は人の横面張り倒してたくせに」
「そ、それは小さいときの話でしょうっ……!」
たちまち青龍の声音は高くなる。赤らめた顔は闇夜に紛れて東宮には定かではなかったはずだが、東宮はからからと快活な声で笑った。昔と変わらない無垢な少年のような笑い方であった。
「まあとにかく上がれって。本当に池に落ちるぞ」
池に落ちたのはどっちの方よ、と青龍は内心呟いた。まだ子供のころ、鞠を追いかけてまさにこの池に落ちた東宮を、青龍が助けたことがあった。東宮は全身びしょ濡れになって泣きわめき、二歳年下の青龍に叱られ慰められながら、青龍の肩を借りて辛うじて池から這い上がったのである。小さいころの東宮は虚弱でひよわな少年で、ちょっとした喧嘩でも青龍によく泣かされて、母宮の桐花の女御を呆れさせたものであった――「まったくあなたときたら、花や雨にでも泣かされていらっしゃるではないの。少しは青龍を見習ったらいかがです?」
今、先を行く東宮は青龍よりずっと背が高い。離れて歩いていても
「芳野の具合はどうなんだ?病気で休養中だって聞いたけど」
東宮が腰をおろしつつ脇息を引き寄せると、青龍は庇の間に正座してその膝の上に鞠を抱えた。
「えぇ、元気とは言い切れませんけど、でも伏せっているというわけでもありません。一日中なにかと動きまわっています。もちろん家の中でですけれど」
「まったく、芳野らしいな」
そこに栃野がもてなし用の菓子を持ってきたので青龍は遠慮したが、栃野は下げようとはしなかった。見かねた東宮が言った。
「まあ、食べろよ。青龍さまに来ていただいてなにももてなさないって訳にはいかないだろ。それとも青龍さまは酒の方がお好みか?」
「……お酌をしろという意味でしたらしますけれど」
「まさか」と東宮はまた笑う。
「お前の酌は宴のときに散々受けてるからな。今日は雨のおかげで飲まずに済んでせいせいしたぜ。あの酒は薄くて美味くないからな」
「そ、それはあたしのせいじゃありません……!」
「なんだ。お前が俺のだけ特別まずく注いでるのかと思ったら」
「そんなことしませんったら!もうっ、次からは本当にそうしますよ?」
「なら次からは他の四神のところにもらいにいくかな。味をくらべてみないと」
青龍はふと気がついた。宴においてどの四神の元に酒をもらいに行くかは各人の自由である。季節の始まりの節会のときは、その季節を司る四神の元に赴く者がもっとも多いとはいえ。今の物言いから察するに東宮はいつも青龍にところにきているのらしい。東宮ほどの身分ともなれば自ら直々にというわけには無論いかず、人を遣わせているのだろうから青龍もそれと知らなかったけれど。
それは昔なじみであるからだろうか。東宮御所を青龍が守護しているための慣習であろうか。それとも、なにか、もっと……
青龍は咄嗟に感情を押し殺した。
「ど、どうぞご勝手に……!」
「なんだ、拗ねてるのか?」
「拗ねてないです!」
「安心しろ、これからもお前のまずい酒で我慢してやるから」
「別に無理に飲まなくっても結構ですっ!」
「……まあまあ青龍さま、この菓子とてどうせこの栃野めが見立てた菓子ですからちっともおいしゅうございませんが、ひとつ召し上がってくだされ」
栃野になだめられ、青龍は
「ところで青龍、お前に縁談の話があるって聞いたんだが……」
噎せた青龍の背を栃野が案外強い力で叩いてくれた。なんでご存知なんだろう……?まだ青龍自身も京姫にしか相談していないというのに。
「ど、どこからそれを?」
「まあ風の噂ってやつだ。それなら本当なんだな?」
東宮はいつのまにやらこちらに横顔を向けている。声はいつもよりやや低い。どうして頑なにこちらを見られようとしないんだろう。
「まあ、嘘ではありませんけど……」
「相手は誰なんだ?」
続けざまに東宮が問う。
「知りません。そもそも母が勝手に動いてるだけですから。あたしは縁談なんて到底受ける気ありませんし……」
「でも、お前は芦部家の跡取りだろ?」
「同時に青龍でもあります。あたしはまだ人の妻にはなれません……姫さまをお守りしないと」
必ずしも本当のことを言っていないことに対して良心が痛むのにも青龍は耐えた。姫に対する忠誠は本心からである。だが、青龍にはもう一人守りたい方が、守るべき方がいる。その方は青龍の言葉を聞いてどこかほっとしたように、それでもなお不安そうな面持ちで、ちらりとこちらを見た。その眼差しを受けても青龍は動じぬふりをし続けるしかない。心と体とがどれほど応えたがっていたとしても、
好き、好き、好き――胸のなかで叫ぶ声がする。好きなの。貴方のことが好きです。貴方のすべてが好き。このまま帰りたくないぐらい。お側にいて一緒に夜を明かしたい。幼い時みたいに、一晩中ふざけあって笑い合いたいのです、貴方と。
いえ、それはとても簡単なのです。貴方は東宮で、あたしは貴方にお仕えする身分。貴方があたしに触れたところで誰も咎めはしないでしょう。あたしは多少咎められるかもしれないけれど、世間の人がかまうはずありません。だって、あたしはどうあがいたって貴方の妻にはなれない。お后にはなれないのだから。あたしは貴方の……そうですね、ただのお遊び相手です。貴方がどれだけあたしを愛してくださったとしても。
だからこそ、あたしはお傍にいたくないのです。だからこそ、あたしは人の妻になりたくないのです。あなたを遠くから見守るために。でも、何かがあったときはすぐさま貴方の元に駆けつけられるように。あたしは貴方のお后にはなれないけれど、刀は握れますから。あたしにはあたしにしかできないことがある。だから、胸が張り裂けるほど辛いけれど、さびしいけれど、遠くから見ているだけで。それだけで……
青龍を見守る横顔がふっと微笑んだ。
「……悠長なこと言ってると、すぐに婆さんになって貰い手がなくなるぞ」
「なっ?!よ、余計なお世話ですっ!」
まったく、どうしていつもこうなのだろう。色気もなにもあったものではない。怒って両手を振り上げる青龍を栃野が抑え、東宮はそんな光景を眺めつついかにも楽しそうに声を立てて笑っている。まったく平和な光景ではあるが。でも……いや、やはりこれでよいのだ。
手の届かない人。お傍にいることはできない人。それでもいい。それでも、あの人が、正しくその人が継ぐべき地位に就くことができるのであれば……あたしはただ、遠くから見守っているだけで、もうそれで……
「
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