第二十三話 蛍火

23-1 「月修院さまからお手紙です」

 雨の月になった。降りどおしの雨は京姫を屋根の下に留めつづけたが、じっと戸外の音に聴き入っているうちに、姫君の心はいつしか遠い森の方へと旅立っていった。


 魂は肉体を離れて自由に歩き回れるのだと知り、姫は驚いた。それは皮肉にも、肉体の自由を得たことによって初めて姫のなかに培われた力であった。それまでの姫は、せいぜい物語のなかか、石の壁の向こうというあまりにも漠然とした世界を、自分で彩りつつ歩いていくしかなかった。それは楽しく、気楽な作業ではあったが、すでに彩色され、形作られた確固たる世界をさまようときの厳かさには敵わない。実在する世界であるからこそ、そして一度その地を踏みしめたからこそ、姫の憧れは募った。



 あの日、晴れわたる空とともに夕景は帰ってきた。雨に濡れた馬の体は日差しのなかで雪をまぶされたようにきらきらと輝いていた。気高き牝馬は、再会を喜ぶ主人と京姫とをそんな暇はないとばかり急かし、雨に濡れた鞍の上に二人を乗せようとじりじりしていた。紫蘭は馬をやさしくなだめて鞍を拭い、その上に我が身を乗せ、ついで姫を乗せた。紫蘭はそっけなかった。姫の涙を拭ってくれたときのやさしさはみられなかった。それでも京姫はそのやさしさが紫蘭の胸の奥にひそんでしまっただけだと信じていたから、姫の手をとるときの掌の硬さも、道中紫蘭がずっと黙りこくっていたことも、気にならなかった。


 夕景はもしかしたら正しい帰り道をひとり探してきてくれたのかもしれない。慣れた道を通うように進み、やがて二人は月修院へ、ひとびとが大騒ぎして走り回るなかへと辿り着いたのであった。


 紫蘭は月修院がみえてくると、姫を鞍に留めたまま自分はすばやく馬を降りた。仮にも帝の奥方を連れてくるにあたって、口うるさい誰かに見咎められるのを恐れたのかもしれない。京姫にもその程度のことはわかったから、紫蘭のためを思って悠然とすましていることにした。馬の揺れにはまだ慣れなかったけれど。


 京姫を出迎えて、人々はまた一層騒ぎ、姫の無事を喜び合い、お互いを労わり、そして紫蘭に感謝した。ただし、芳野と左大臣にはこっぴどく叱られた。芳野はすでに回復していて逃げ惑う姫を捕まえるべく容赦はしなかったし、とうに酔いのさめた左大臣も同様であった。京姫は「ごめんなさいってば!」を連呼しながら四神の間をすりぬけ、やがて月当に案内されてやってきた帝のお姿に気がつくと、叱られていることも忘れてその胸に飛び込んだ。


「主上!」

「姫、心配したのですよ」


 帝は京姫を抱きしめて、いかにも大事そうにその頭を撫でられた。そのご様子には芳野と左大臣をもためらわせるほどのゆたかな愛があふれていた。京姫はこの上ない安堵に包まれた。


「無事でなによりでした。一体どこに行っていたのですか?」

「お庭をみようと思ったのです。すぐに戻るつもりでいたのですよ、本当です!でも寮のなかで迷ってしまって……あっ、そうだ!藤尾さん!」

「藤尾?」


 月当がまず反応した。


「藤尾がどうかいたしまして?」


 帝の腕のなかで顔を上げて京姫はやや迷ったが、正直に話すことにした。


「寮で迷っているときに藤尾さんに出会ったんですの。そこでお庭はどこかと訊いたら手を引いて教えてくれたのです。そのまま森のなかへ。でも、いつのまにかはぐれてしまっていて……あの、藤尾さんはちゃんと帰ってますか?」


 京姫の質問を受けて月当は巫女たちを見渡したが、巫女たちは顔を見合わせたのちに首を振った。誰も姿をみていないのだ。至急藤尾をさがすための一団が組まれ、巫女も男僧たちも慌ただしく方々に駆け出した。


「それで、藤尾とやらとはぐれたあとであなたはどうしたのですか?」

「森のなかをさまよっていたところ、たまたま紫蘭の君と出会いました。それで、ここまで連れて帰ってもらったのです」


 帝の目が京姫の頭越しに紫蘭に向けられたのを京姫は感じた。京姫はそっと目を上げて、帝のお顔を、続いて夕景の隣で騒ぎのなかひとり冷然としている紫蘭を見た。月修院の土地は森にかけてなだらかな起伏をなしているから、紫蘭と馬とは畏れ多くも帝と京姫とを見下ろす形になっていた。二人の間には京姫ひとりが立っているだけであった。


 この腹違いの兄弟の目線があったとき、不思議な変化が二人の表情の上に訪れた。それはほんの一瞬のことであったので、多くの者は見逃してしまったかもしれない。帝は目を細められた。何か突き上げてくるものを押し殺すかのように。紫蘭は瞳を揺らした。まるで帝の視線に傷つけられたとでもいうように。


 敬意を示して、紫蘭は目を逸らしこうべを垂れた。けなげにも馬も主人と同じ姿勢をとったのに気がつかれると、帝は嬉しそうに微笑まれた。


「その馬は夕景ですね、紫蘭?」

「……覚えていらっしゃいましたか」

「もちろんです。私の夕凪も連れてくればよかった。あの馬もよい馬に育ちました。それにしても、紫蘭、貴方には感謝してもしきれませんね。姫を助けてくれてありがとう。心より礼を言います」


 帝に促され、京姫も改めて礼を言ったが、紫蘭は臣下として当たり前のことをなしただけだと謙遜した。堅苦しい紫蘭の態度を先ほど頬に触れたときの態度をくらべて、姫は可笑しく思った。でも、からかうのはやめておこう。あれは二人だけの秘密だ――紫蘭も言っていた通り、帝以外の殿方が京姫に手を触れることはそれだけで大罪にあたるのだから。


 帝の手が京姫の髪を一房手に握られたので、姫は振り返った。


「髪が濡れていますね、姫。雨に降られたのでしょう。乾かさないとお風邪をひきますよ」

「でしたら、お湯をお使いなされまし。すぐ支度をさせますから……」


 そう言いながら月当が芳野の方にちらりと目配せしたのを京姫は目撃した。芳野があっと声ならぬ声をあげたのは、その目配せの意味を察したということらしかったが、その後、姫の身体を洗うまでの芳野の不安そうな表情や落ち着かない態度が一体何を示していたのかは、京姫にはわからなかった。それらはやがて左大臣にまで感染していった。


「姫さま、ご無事でいらっしゃいましたか」


 月修院さまがいらっしゃったので、一同は後ずさって頭を下げた。銀の月の飾りを胸にひらめかせて現れた月修院さまは、姫のことを心から心配されていたらしい。常にけっしてくずされることのない悠然とした足取りを保ちつつも、その灰色の瞳には喜びがあふれていた。


「お騒がせして申し訳ありませんでした」

「よいのです。姫さまが無事で帰ってこられたのであればこれほど嬉しいことはございません。一体どちらにいらっしゃったのですか?」

「あの、潭月寮のお庭から、森の方に……」


 詳しい説明は月当が代わってくれたので、姫は黙ってうなずいていればよかった。月当の説明は要領を得て明快であった。明快すぎると京姫が残念に思うほどに……しかし、姫はもっとも大切な部分を皆に伏せていたのだから仕方がない。それよりまもなく巫女たちと芳野に連れられて、京姫は潭月寮で湯殿を使わせてもらい、新しい着物まで貸してもらえた。なぜか芳野は湯殿のなかまでついてきて(小さいころはともかくとして、今ではお湯の世話は芳野の仕事ではない)手ずから京姫の体を洗い清めた。姫はなんだか芳野が姫の体を検めているような気がしてならなかった。風邪を引いたところで別に見かけが変わるわけでもないのに。


 湯から上がるころ、狼狽しているようにもみえた芳野はすっかり落ち着いて、湯気のために顔を上気させながら夥しい叱責の言葉を京姫に浴びせかけた。四神に四方を囲まれて今度こそ逃げ場はなかったので、京姫はおとなしく聞かざるを得なかった。同じことを二度も三度も繰り返したあとで、芳野は放心したようにその場に膝を突いて、正座する姫の肩に縋りついた。


「芳野……?」

「無事で……無事でよかった」

「……ごめんなさい」


 京姫は芳野を抱きかえす。ふと気づいたのは芳野が痩せたこと。それにこんなに小さくて軽かったかしら。だって私のことを抱き上げていたじゃない。ついこのあいだまで……



 ……まるでその時抜けた力が戻ってこなかったかのようだった。帰京してから半月ほどして、芳野は里下がりを申し出た。急なことに京姫はびっくりしたが、芳野は大した病気ではない。ただ歳のせいもあって月宮参りの旅疲れがどうも抜けないので休養したいのだと言った。そう長いことではない、ひと月ほどしたらまた戻ってくるとも。だが、あれからひと月はとっくに過ぎてしまっている――


「姫さま、月修院さまからお手紙です」

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