22-4 見えて散り行く

 長いこと沈黙が続いた。紫蘭は寡黙さを美徳とみなしていたから気まずいとも思わずに、却って安らぐような心地になって、雨が小降りにならないものかと見守っていた。夕景はどこまで行ったのだろう。賢い馬だからいずれは戻ってくるだろうが、知らない森のなかで道に迷わないかが少し心配である。紫蘭は時おり居ずまいをなおしては濡れた衣服を肌から引き剥がして、不快さとかすかな不安を紛らわせようとしていた。


 ところで、京姫は黙って何をしているのだろう。紫蘭が盗み見ると、京姫は両膝を抱えて、重ねた手の上に左頬を預けてじっと目をつぶっていた。その姿は木の洞の巣の中で、羽の下に顔をうずめて眠っている雛鳥を思わせた。眠っているのだろうか。暢気なものだ。


 紫蘭に見られているのを感じたのか、京姫は視線だけをこちらに向けてから微笑みつつ形のよいおとがいをずらして手の甲の上に置いた。またすぐに目を瞑って、姫君は歌でも口ずさむように言った。


「雨の音を聴いていたの。雨が葉っぱを打つ音と、雷が遠のいていく音、しずくが滴る音……濡れた土や木のにおいってすてきだね。それにこのなか、とっても暖かい。なんだか木に守られてるみたいで安心する……ありがとう、紫蘭さん」

「なぜわたくしに礼を?」

「だって、紫蘭さんが連れてきてくれたから……私ね、外の世界に出たらやりたいと思っていたことがたくさんあったんです。でも、こんな風に雨宿りをすることは思いつかなかったな。きっと、世界にはまだまだ私の知らないことがたくさんあるんですよね。いいものも、悪いものも。楽しいことも、悲しいことも……」


 その通りだ、と紫蘭は胸中でこそつぶやきはしたが黙っていた。確かに憐れな姫君ではある。その異様な出生譚のために生まれてこの方内裏を離れたことがないというのだから。


(しかし、彼女は幸せだ。鳥籠のなかの鳥は大空を知らないが、飢え死にすることはない。鷹に追われる苦しみも、巣に帰りつけぬまま夜に襲われるときの恐怖も、知ることはない。人々に愛され、甘やかされ、守られて一生を終える……)


 もっとも――紫蘭はわずかに目を細めた――巣から転げ落ちるようなことがあれば話は別だが。


 姫は語り続ける。


「私はもっといろいろなことを知りたい。京姫として知らなきゃいけないことがたくさんあるのに。神話とか、歴史とか、書物で学べることだけじゃなくって。私ね、今日初めて京には食べるものも住むところもない子供たちがいるんだって知ったの。変ですよね?京からはるか離れた月修院で、そんなこと知るなんて……でも、外に出られるのは今日だけなんだ。帰ったら、あと七年後まで桜陵殿に閉じ込められっぱなし……」 

「……姫さまは、自由になりたいとお思いですか?」


 言葉の意味を取りかねて、京姫は怪訝な顔をしてみせる。


「じゆう?」

「えぇ。つまり、自由に外に出られるようになりたいとお思いですか?」


 途端に、京姫はきらきらと瞳を輝かせた。


「もちろん!」

「京姫としての地位を捨てることになっても?」


 紫蘭は低い声で尋ねたが、京姫は笑って首を振った。


「そんなこと絶対にないもの!だって、京姫は『しゅーしんせい』なんだって、左大臣が言ってたから。私が死なないと、次の京姫は現れないんですって。京姫も外に出られるようにしてくれればいいのに。でも、だめなんですって。京や主上を悪しき者から守るためには、どうしても京姫は内裏にいなければならないから……そう、だから仕方ないのかな。みんなのためだから……」


 姫君の瞳から輝きが失せた。紫蘭はその後もしばらく京姫の表情を観察していたが、叱られた子供のような表情には、神の無慈悲に対する悲しみこそ見出せても、怒りや反抗心の類が存在をほのめかすことはついになかった。それきり神懸かりの少女に対する紫蘭の興味は尽きた。相手に対する興味が尽きたあとに残るのは紫蘭の場合、大抵は軽蔑であった。この場合も例に漏れなかった。まったく愚かな娘だ。先ほど自分で「食べるものも住むところもない子供たち」のことを口にしたではないか。結局閉じこもっていたところで何者をも守れていないことに、何者をも救えていないことに気づいていないのだ。


(やはりただの子供ではないか……!)


 紫蘭はなぜだか失望している自分も、腹立たしい気持ちでいる自分も徹底的に無視することに決めた。四神の無体を目撃してしまったあの時と同じ感情が紫蘭のうちに燻っていたが、それは恥ずべき感情であった。



 紫蘭が不機嫌に黙り込んでも、京姫は一向にかまわぬようすで、雨が葉っぱを打つ音や、雷が遠のいていく音や、しずくが滴る音に聴き入っていた。もはや遠雷の音は途絶え、雨の音も弱まりつつあった。あたりが明るくなってきたようにも思う。もう少ししたらやむのかもしれない。


「……ところで」


 京姫がふと口を開いた。紫蘭は目線だけで応えることにした。


「紫蘭さんはどうして一人で森にいたの?」


 京姫の問いかけは冴えはじめていた紫蘭の心をまごつかせた。姫はただ好奇心だけをもって、まっすぐにこちらを見つめていた。単純な問いだが、紫蘭には恐ろしく答えにくい問いである。煩雑ともいえるこの心の動きまでいちいち説明せねばならないのに、この少女には絶対に伝わりそうにないし、第一伝えたくもないからだ。紫蘭の当惑を何とみたのか、姫はぱっと手を叩いて付け足した。


「そうだ、一人じゃなかった!夕景も一緒だったね」

「えっ。あっ……」

「それで、なんで森のなかに?確かまだ宴の時間でしたよね?」

「いえ、その……よ、酔いをさまそうと思いまして……」

「酔ってるときにお馬に乗っても平気なんですか?」

「あまり平気ではありませんが、私はそこまで酔っていたわけありませんから……それに、夕景は賢い馬なので」

「ふーん……そういえば、夕景ってきれいな名前ですね。紫蘭さんが付けたんですか?」

「まあ……」

「すごい!どうして夕景って名前にしたの?」


 この娘、黙るということを知らないのだろうか。今後七年先まで聞けないというのなら、おとなしく森と雨の音に聴き入っていてくれればいいものを。紫蘭はきりきりとしながらも礼儀正しく受け答える。


「あの馬は元々三条家の馬でした。めずらしい双子の馬で、姉妹で飼われていたのですが、それを牡丹の大后さまが主上とわたくしとに一頭ずつくださったのです。主上には姉の馬を、わたくしには妹の馬をといった具合に。主上はご自分の馬に夕凪ゆうなぎという名をつけられました。ですから私も同じ『夕』の字がつく夕景と……」



「せっかく姉妹なのだもの。揃いの名前をつけてやらないと」


 美しい仔馬を前にひとしきり感心したあとで、そう主上は言って笑われたのだっけ。すでに即位したとはいえまだ少年であったはずの帝は、弟君である紫蘭の目にはすでに大人びてみえた。


「馬の双子というのはなかなかめずらしいのですよ。さて、どんな名前がふさわしいでしょうか。ねぇ、紫蘭、もう少しこの子たちが大きくなって私たちを乗せてくれるようになったら、いつか駆けくらべをしましょうね……」



(いまだに約束ははたされていない。主上はとうに忘れてしまわれただろう。あの夕凪は一体どうしているんだろうか)


 紫蘭のなかでは、いとおしそうに目を細めてご自分の馬を撫でていらっしゃった少年期の帝と、宴の場でゆるりとくつろがれていた帝の姿とが重なっていて、どちらがいずれとも見定めがたい。


(こんな風に思われるのは、僕にとっての主上があの頃からずっと変わらないからだ。そうだ……主上は僕にとってずっと前から手の届かないお人なのだ。主上は僕の欲するものを全て持っていらっしゃる。その聡明さ、ゆるがなさ、お優しさ。人目を惹くような華やかな御方ではないが、たおやかで、みやびで、なよやかで、それでいてしなやかな強さをお持ちなのだ。主上は誰からも愛され尊敬される方だ。まさに帝になられるために生まれてきたかのようだ。いや、事実そうなのだ!だから、主上は大后さまの元に生まれたのだ……大后さまに愛され、三条家の力に庇護され、そして、そうだ、それから……!)


「…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」


 紫蘭が京姫の方を見遣ったとき、その翡翠色の瞳はうつろであったが、紫蘭の瞳とぶつかると共にそのなかで爆ぜるものがあった。京姫はたちまち羞恥のあまり蒼白になって顔を背け、一方、紫蘭は殴られたような衝撃と困惑にしばし思考を失った。開いたまま閉ざせぬ口のなかが乾いてゆくのを感じる。だが、なぜこれほど衝撃を受けているのかがわからない。今のは一体なんなのだ?今の声は誰のものなのだ?少女の口から漏れ出た言葉は少女の声ではなかった。では、今の言葉は、一体誰の……?


「ごめんなさい……」


 今にも消え入りそうな声で京姫はつぶやいた。泣いているのだろうか。どことなく声の調子がおかしい気がする。だが、姫君は紫蘭から必死に顔を背け、やわらかな樺色の髪で頬のあたりを覆い隠してしまっているから、紫蘭には確かめようがない。紫蘭は困惑して尋ねた。


「どうして謝られるのです?」

「だって、私、今紫蘭さんの心を……」


 京姫の言葉はいよいよ聞き取りにくい。そんな話し方もできるんだな、と呟いている自分がいた。その言葉の意味はさっぱりわからなかったが。


「……ごめんなさい。私、人の心がわかっちゃうんです……人の心の声が勝手に聞こえるの、生まれつき。最近はやっと聞こえなくなってきたんです。なのに……」


 人の心がわかる?先ほどの言葉が僕の心の言葉だと?姫はなんと言ったっけ――もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……


 さざめく心の水面が凪ぐのを、苦いものを飲みこむときのように、痛いものを堪える時のように、静かに待って、紫蘭の口の端に微笑みをひらめかせる。それは冷笑であったが、真珠のように澄んだ涙の粒を光らせる京姫のゆがんだ視界には正しい形には映らなかったはずだ。紫蘭はそのことを知っていた。


「紫蘭さん……?」

「心配ありません、姫さま。今のは私の心ではありませんから」

「えっ?でも……」


 その時紫蘭を突き動かしたものははたして何であっただろうか。紫蘭はただ、自らの理性からも感情からも離れた場所から、京姫の頬に触れている自分を――頬のやわらかさや涙の熱さや、白い皮膚の脆そうで破れないなめらかな感触そのものではなく、姫君の頬に手をあてて親指で涙を拭ってやっている自分自身を感じていただけである。触れられたところから京姫の頬はぱっと赤らんだ。その刹那にだけ、紫蘭は、こわばりと名づけてはいかにも情緒のない、姫の身体のなかに起こった一種のたかぶりのようなものを、小さな雷を掌に浴びるように感じ取った。そしてまた、遠巻きに自分を眺めている紫蘭に戻った。


「姫さまはだいぶお疲れのようですね」


 なんて甘い、優しい声だろう。これではまるで偽善である。


「慣れない旅でお疲れなのでしょう……今起こったことは気にしないで、忘れてください。疲れて混乱されているだけですよ。大丈夫、もうすぐ月修院に戻れますから。みんなのもとに」

「紫蘭さん……」


 京姫はまたひとつ涙をこぼしたあとで、そっと紫蘭の手に触れた。指先はかすかに震えている。伏した目を飾る長い睫毛もまた。


「ありがとうございます。紫蘭さんは、とってもお優しいんですね。やっぱり主上に似ています……」


 微笑を返しながら京姫の頬から手を離した紫蘭は、急に自らの一連の行動が許しがたくなり、偽りの感情を洗い流すべく雲の切れ間より差しこみ始めた日の光の方に顔をかかげたが、なぜ自分がかくも傷ついているのかはわからなかった。



 どこかから、蹄の音がする。

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