22-3 雨障み


 夕景が急に足を止めたのに京姫は桜色の上衣を掲げたその影でけげんな顔をしていたが、言葉なくとも愛馬の意図するところを汲んだその主人は姫を抱き下ろした。そのまま抱きかかえられた姫はどうされるものかときょとんとして見守っていたが、紫蘭はすばやく樹々の間を走り、とある大木の木蔭にたどり着くと姫の体をうろのなかへとやや乱暴にも思われる強引さで押し込んだ。姫の頭よりずり落ちた上衣をその両肩のあたりで抑えてかけなおしてあげながら、紫蘭は澄明に言った。


「しばらく雨やみを待ちましょう。このまま進んでも雨に濡れて風邪を召されるだけです」

「で、でも、あなたは?」


 京姫の声は、触れられそうなほどの手近な闇にくぐもって聞こえた。仄暗く狭い木のうろの中は、じめついてはいるけれど温かい。しかし、紫蘭はその内には入ろうとしないで、椨の葉のつやめきが照らし出すその微光の下、身を屈めて疲れたような笑みを浮かべている。


「私は大丈夫です。これしきの雨ならばなんともありません」


 京姫が反論できないでいるうちに、紫蘭は言いのけて洞のそばを離れた。引きとめようと差し出した姫の手は空を掻き、雨粒が爪に宿ってきらきらと光り、震え、くずれて指の根元に流れた。


 雨はなかなかに降りやまなかった。もしかしたら永遠に降りやまないのかもしれないと、姫は思った。そうしたら、どうしよう。もう二度とみんなのところへと帰れなかったら……?一生をこの小さな穴のなかで過ごさなければいけないのだとしたら。それに藤尾のことも心配だ。うまく月修院に戻っているだろうか。せめてよい雨宿りの場所を見つけているとよいけれど。京姫は膝を抱えて腰をおろしながらも、目をつぶって藤尾の気配を探ろうと試みた。そうしていれば少しは不安が紛れそうな気がしたのだ。それから空腹も――月修院で出された昼餐は、やはり育ち盛りの身にはあまりに品がよすぎたのである。早くみんなのところへ帰りたい。芳野と左大臣に叱られたい。ああそうだ、芳野の具合はよくなったのかな。最近なんだか顔色が悪いのが気になってはいたのだけど。


(だめだ、藤尾さんのことに集中しないと)


 そうは思っても、藤尾のことに意識を寄せようとするほどに藤尾の絵姿はぼやけて遠のいていく。きれいに切り揃えられていた髪のことは覚えている。でもどんな色であったっけ?どんな瞳をしていたっけ?どんな表情を浮かべていたっけ……?思い出そうとしても、揺れる藤の花房がその顔を隠してしまう。藤棚の向こうにただぼんやりとその影だけが透けている。その腕にかけている花筐はながたみから花ばかりはこぼれ落ちるけれども。


 ……嗅ぎ慣れぬ香りに包まれている。姫の衣裳に焚き染められたこうではない。京姫はいつも甘い香りを好むのだが、儀式の時は芳野がもったいぶって大人びた(姫に言わせれば古臭い)香を使わされるので、姫はそれが嫌だった。それでも今日は香の係りである朱雀を味方につけることに成功して、芳野が渋い顔をする前でいつもの香を焚いてもらったのだ。そのお気に入りの香とはまるで違う。


 ああ、そうだ。これは紫蘭さんの移り香だ。きっと馬に乗っていた時に移ったんだ。だって、あんなに傍にいたのだから。そうだ、私、主上以外の殿方に初めて触れて……また胸がひとつ高鳴る。肩にかけられた衣を胸の上で掻き合わせる。薄目を開けてみると、かの人は馬の傍らに立って、ただ京姫を守っている大木の重なる枝と葉の下とで、気休めのような雨宿りに甘んじていた。その人の薄紫の衣を纏った腰の辺りが、姫からは見えるばかりである。なにか小さな声で時々口ずさんでいるのは、馬に語りかける言葉であろうか。さっきはこれしきの雨など大丈夫だとは言っていたけれど、やはり外では寒かろう。かの人の髪もやはり雨に濡れていたのだから。


 京姫はそっと洞の入り口へとにじり寄ってかの人の袖を取った。


「ねぇ」


 紫蘭の君は驚いたように振り返り、それから濡れた額を拭って洞に合わせて背を屈めた。


「どうかされましたか?」


 声音と表情が優しかったのは、京姫に対する態度というよりは、馬に話しかけていたその名残りかもしれなかった。優しい人なのだ、と京姫は思った。お顔は主上とは似ていないけれど、でもこういうところはさすがに主上の弟宮である。


「あなたも入りなよ……そんなところじゃ、寒いじゃない」

「いえ、そんな畏れ多いことは……」

「どうしておそれおおいの?」

「あなたは帝の奥方ですから。先ほどお手を触れました、それだけでも大罪になりかねませぬ」

「大丈夫。もう一人ぐらいならくっつかなくても座れるもの!この中、案外広いんです。と言っても、夕景はちょっと無理かもしれないけど……」


 姫君の幼い言いぐさに、紫蘭は何か感情を押し殺すようにして目を細めつつ慇懃に固辞した。


「では、やはりわたくしも遠慮いたしませぬと。馬だけを雨ざらしにしておくのは殺生ですから……」


 夕景が一声いなないた。京姫が「あっ」と声を立てたので、紫蘭は急いで愛馬の方を顧みたがそこにはすでに美しい牝馬の姿はなかった。駆けてゆくその蹄の音だけが遠鳴りとなって低く地を震わせていた。


「ゆ、夕景!戻ってこい!」


 愛馬に置き去りにされるなどということは今までになかったので、紫蘭はすっかり狼狽してしまった。思わずその後を追おうとするほどには――馬の足には人間では到底敵わぬことも忘れていたのである。くすくすと鈴のように笑いを転がす音が、背後より紫蘭を引きとめた。それと、紫蘭の袖をとる優しい手つきとが。


「ほら、夕景も気を遣ってくれたみたい。ねぇ、このままじゃ本当に風邪引いちゃう……大丈夫。もし誰かが紫蘭さんのことを疑っても、絶対に私が守ってあげるから」


 その言葉を決して信じたわけではなかった。ただ、愛馬に対してすまなかっただけだ。それに思いがけず強い力で腕を引かれてしまったから、そうせざるを得なかっただけである。ついでに引っ張られた勢いで木の洞の入り口に頭をぶつけてなんだかくらくらしていたし……そうだ。絶対そのせいである。



「ご、ごめんなさい、紫蘭さん!」

「い、いえ、何ともありませんから……」


 先ほどから京姫は謝りどうしであったが、相手の身分のことがなくとも紫蘭はとても怒る気にはなれなかっただろう。京姫はあまりにも幼すぎた。紫蘭が想像していたよりもずっと純真で、無垢で、いとけない。今年で十四になったとは聞いていたが、とおやそこらの童女とも大した変わりはなさそうである。こんな少女に「女」を感じていた自分が情けなくなるほどだ。容貌だけは人並以上には優れているのだが……


 紫蘭は両の掌をあわせて頭を下げ続けている姫君を品定めするように見据えつつ、内心呆れかえっていた。まったく、神というものもいかにもそれにふさわしいれものを選んだものだ。きれいで、空っぽで、まるでお人形のような。いや、紫蘭の知っている人形はこんなにうるさくはないし、人の腕を引っ張った拍子に怪我をさせたりはしないが。


「い、痛くない?」

「えぇ、大丈夫です。ご心配なく」

「本当に?」

「えぇ」


 京姫は紫蘭が泣きわめかないのが不満だとでも言いたげに唇をすぼめつつしばし視線を紫蘭の額のあたりにさまよわせていたが、ふと何かに気がついたように身を乗り出して紫蘭の肩のあたりに手を伸ばした。


「紫蘭さん、しずくが……」


 よけるのも手を払いのけるのも無礼であろうかと逡巡している間に、まるで作り物のような小さな指が紫蘭のつややかな髪の上でなにかを捉えたのを紫蘭は感じた。だがそれは雫ではないはずだ。小さく透き通ってはいても、硬く、実体を持っている。京姫は大きく見開かれた瞳の間近にそれを寄せて、二三度まばたきをした。


「あれ?髪飾り?」

「えぇ、髪留めの飾りの水晶です」


 なぜそんなことをする気になったのだかは紫蘭自身にもわからなかったが、紫蘭はぬばたまの黒髪を結っている髪留めをほどいて、姫に手渡した。髪留めをほどこうとする紫蘭の指先が水晶の珠をつまんでいた姫の指先にわずかに触れた。紫蘭はまるで砂糖菓子に触れたかのように思った。女の指のやわらかさは拭いたくなるほどしっとりと紫蘭の人差し指に残った。


 京姫は渡された髪飾りを、雨の淡い影が、靄がかった乳白色の光のなかに埃のようにゆれているあたりにかかげていた。紫色の紐の両端に水晶の珠を垂らした髪飾り――水晶の珠は姫の爪に弾かれて光のなかで小さく震えた。


「とってもきれい……!」

「母の形見です」

「えっ、あっ……ごめんなさい」


 慌てて髪飾りを返そうとする京姫に、紫蘭はその必要はないという意味でどこか皮肉に笑った。そんな紫蘭を京姫は髪飾りを宙に浮かせたまま、なぜだかぼんやりと見つめている。


「別に構いません。母といっても私はまるで覚えていないのです。母は私を産んで間もなく身罷りましたから」

「……それなら私と同じです。私も母のこと覚えていないんです。元々は月修院の巫女だったとか、どういう風にして私が生まれたのかとか、そういうことは乳母や女房も話してくれるんですけど。でも、どんなひとだったのかはみんな知らなくって。私も今までちゃんと考えたこともなかったし。実の母親のことなのに……」


 京姫は髪飾りを膝の上で握りしめて紫蘭から目を逸らした。まるで自分の母親の形見に縋っているようだった。思いがけず、紫蘭はこの幼い姫君の抱えるさびしさと出くわしたのである。


 ……だが、それは所詮ままごとにすぎないのだ。さびしさの波が人生を侵し得ないかぎりは。紫蘭と京姫は少しも「同じ」ではない。


「私のお母さまも何か遺してくださればよかったのに。そうしたら、お母さまのことをもっと身近に思えたかもしれないもの。こんなきれいなものでなくても、お母さまが生きていたころのことを感じられるなにかが私も欲しかったな……」

「もしよろしければ、その髪飾り、差し上げましょうか」


 優越と反目が成したわざに紫蘭は自分自身でも驚いた。しかし、後悔は目を丸くしている京姫が言葉を発せられるようになっているのを待っているあいだにも、ついに訪れなかった。


「だ、だめですよ!だってこれは……!」

「よいのです。取り立てて思い入れがあるわけでもありませんから。それに私は母に対して特別懐かしいとも思っていないのです。姫さまとはちがって。私はもう大人ですし、男ですから」

「でも、だめですよ!これは紫蘭さんのお母さまのもので、私のお母さまのものではないんですから。私が持っていても意味がないもの……ほらっ、はい!お返しします!見せてくれてありがとうございました。た、大切にしてくださいね……!」


 まるで急に恐ろしくなったとでもいうように京姫が髪飾りを突きかえすので、紫蘭は肩をすくめて受け取った。ほどかれた紫蘭の黒髪がみるみるうちに夜の川のようにひろがって、その毛先が袖や胸のあたりにはらはらとこぼれかかっているのは、言いようもなく艶やかで心乱されるさまであったが、秀でた鼻をうつむけた紫蘭は惜しむでもなく無造作な手つきで髪をまとめると、いつもと同じうなじの後ろのあたりで器用に結った。水晶の珠が雨に濡れた髪の上に二つ並んで、京姫はようやくどこかほっとしたような顔つきになった。


「ほら、やっぱり紫蘭さんによく似合ってる!」


 そう言い切ったあとの京姫の笑顔には屈託がなかった。

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