22-2 紫蘭と京姫

 樺色の髪がさらさらと風にゆれていた。唇と頬は色づき、ゆるやかな弧を描く眉のあいだは言い知れぬ興味のためにひらかれて白く輝き、瞳はあどけなかった。桜色の外衣にはまだところどころに草がはりついていて、その胸もとの紅の紐はほどけていた。歌と舞とは姫の身体を昂らせ、呼吸をはずませ、薄く開いた唇からかすかにのぞく椎の実のような小さな歯並みをつやめかせていた。


 かくのごとく、紫蘭に見出されたときの京姫は子供らしい無邪気さと、桜の花に包まれてひときわ勝る可憐さ、そしてあてなる人ならではの香気をただよわせていた。だが、姫はそれらを少しも意識していなかった。小さなお手をあたたかい桜の幹にあて、その指先あたりから顔をのぞかせながら、ただ馬上の人の美貌に驚いていた。


 紫蘭もまた突如あらわれた少女のうるわしさに見入っていた。紫色の瞳をその髪から裳裾よりのぞく素足の指先までゆっくりと落とした時、紫蘭は話には名高い仙女のたぐいが目の前にあらわれたのかと疑った。この時、自らの蒙昧さを嘲笑い叱りつける紫蘭の理智は働かなかった。再び目線をあげてその小さなつむりを飾る桜を模った宝冠に気づいたとき、紫蘭の理智はようやく動き出して、胸のなかにさざ波を立てた。


「京姫さま……?」


 たずねる声がかすれていた。長いこと言葉を発していなかったかのように。


「あなたは……」


 京姫は馬上の人を見定めようとでもするように、手は変わらず桜の幹についたまま、右腕を胸で乗り越えるようにしてわずかに前のめりになった。そのところへ、夕景が顔を突き出したので、京姫は「きゃっ!」と声を上げて身をのけぞらし、勢いで仰向けに倒れた。紫蘭はあまりのことに一瞬呆気にとられたが、すぐにはっとして馬から飛び降りた。


「ひ、姫さま!」


 「いたたたた……」と後頭部をさする姫君を、紫蘭は両肩を支えて抱き起こした。優美な衣裳にくるまれた華奢な肩の感触は、紫蘭が初めて触れる女の肉体であった。紫蘭の指先はそのやわさと軽さに怯んだが、初めて異性の肉体に触れたものが皆通る道だということも知らぬその若者は、その動揺すらをも恥じて急いで言った。


「お、お怪我はありませんか?」

「あ、ありがとうございます。ええっと。そうだ!あなたは……」


 蹄の音がひとつ低く響いて、京姫の言葉を途切れさせた。夕景が京姫にほとんど覆いかぶさらんばかりになって、姫の眼前に再びその顔を突き出していた。馬の鼻息は姫の前髪をあおり、鼻先をくすぐるようで、京姫はこそばゆそうに片目をつぶってみせた。「おい、夕景!」と紫蘭は止めに入ろうとしたが、それよりも早く京姫の手が夕景の頬のあたりに伸びた。


「もう、こらっ!あなたが驚かせるからひっくり返っちゃったじゃないの!」


 夕景はいななきなのだか荒い鼻息なのだかわからぬ音を立てて、目をぱちくりさせた。「もうっ!」と姫君が怒るのも無理はなく、一見すると京姫をからかっているようにもみえる。確かにからかってはいるのだろう。だが……主人は驚愕と困惑の入りまじった顔でこの光景を眺めていた。夕景が初対面の人間に体を触らせている。


 夕景が後ずさりをして顔を遠のけると、京姫は紫蘭の助けを借りつつも起き上がった。姫のお手は知らない体温を以って紫蘭の掌を圧した。紫蘭はむずかゆいような気分になった。この手を放り出したいような、ずっと握っていたいような。そんな紫蘭の葛藤なぞつゆ知らず、京姫は紫蘭の掌を離れたばかりの手で長い髪や衣裳にはりついた草を取り除けはじめた。最後に裳を払い終わると、京姫は桜の根元で草を食みはじめた馬をみて嬉しそうに微笑み、さらに紫蘭の方を見上げてにこりと笑った。その前髪にまだ草が残っていた。


「すてきな馬だね」


 紫蘭は言葉を返しそびれた。


「初めまして!ねぇ、あなたは紫蘭の君でしょう?」

「……私をご存知なのですか?」

「もちろん!京中の評判ですもの。それに主上も紫蘭さんことをお話しされるから。とても優秀な弟宮なんだって、そうおっしゃってました」

「主上が……?」


 紫蘭は京姫の笑顔から顔を背けつつ、眉をひそめた。兄帝の褒め言葉が嬉しくないわけではない。帝のことは尊敬している。温和な性格も、その聡明さも、自分に対する気配りの行き届いたその態度も。だが、すなおにとれないでいる自分がいる。というよりは、すなおにとりたくない自分がいる。なぜなら……


 紫蘭は物思いを忘れた。あまりの心やすさにうかつに近づいてしまったが、大変なことを失念していた。このお方は帝の奥方なのである。少なくとも、形式上の。もし二人きりでいるところを逢瀬とでも見咎められたらどうなるだろう。帝への反逆とも見られかねない。紫蘭は慎重に京姫との距離をとり、草を食む馬の方へとさがっていった。


「……ところで、姫さまはおひとりですか?」

「そうですけど……って、えっ?あっ、あぁーっ!!」


 姫の叫ぶ声の大きなこと。紫蘭は思わずその場に立ち止まって耳をふさがねばならぬほどだった。


「そうだ、藤尾さん!藤尾さんのこと探さないと!」

「藤尾?」

「月修院の巫女さんなんです!藤尾さんに潭月寮のお庭のなかを案内してもらってるうちに、つい森のなかに迷い込んじゃって、気づいたらはぐれてて。それで私、藤尾さんを探そうと思って歩いていたらここに来ちゃったの……!」


 せっかく開いたはずの距離は一瞬で縮められた。京姫が紫蘭の元へ駆け寄ってきて、その両手首に縋ったために。紫蘭は驚いたが、もう心は不用意にときめかなかった。それは、姫君の前髪にはりついた一片の草のため。ほとんど見知らぬも同然の殿方に触れて憚らぬ無邪気さのため。女性としてはあまりにも未完成であるため。兄君に甘える妹のように、京姫は涙目になっていた。


「紫蘭さん、帰り道わかりますか?」

「えぇ、まあ、わかると思いますが……」

「お願いします!一緒に連れて帰ってください。それから藤尾さんのことも探さないと……!もうっ、ここにいると思ったのに。藤尾さーん!ふーじーおーさーん!!だめだ、もう一回探してみないと」


 京姫が指をかかげて花びらをなくしたことに気づいたのと、紫蘭が額を打つ雨滴に気づいたのが同時であった。紫蘭が空を見上げてみると、無数に差しこまれていた金色の光の筋は消え、桜は花曇りの色を透かして重たくものうげであった。冷たく湿った風が吹きつけると夕景も草むらからさっと顔を上げて、不安そうに鳴いた。


「姫さま、雨が降ってまいりました。急いで帰りましょう」


 京姫はなにか悲しそうに自分の右手をじっと見つめていた。紫蘭の言葉に反応して瞳をもたげはしたが、その言っているところは理解していないようであった。「えっ?」とつぶやく姫の声は遠雷にかき消された。


「……大雨になるやもしれません。さあ、馬の上に」


 紫蘭の手を借り、夕景の配慮を得て馬の上に乗った京姫は、生まれてはじめて体感する高さに少しおののいた。白虎も青龍も平然と乗りこなしているけれど、馬に乗るというのはなかなか難しそうだ……!紫蘭は白虎と青龍側のひとであった。軽やかに馬の背に飛び乗ると、「失礼します」と断ってから姫の後ろより手を回して、手綱をとった。紫蘭の胸がほんの一瞬背に触れて、京姫は鼓動がひとつ大きく高鳴るのを感じた。だが、それがなぜなのかはまだわからない。


「では、参りましょう」

「えっ、あっ……」


 葦毛の馬は駆け出した。夕景は小柄な馬ではあったが、二人の人間の重さを苦とせずにやすやすと道なき道を進んだ。桜の森を抜け、椨の森に入ると薄闇が姫の視界を覆ったが、馬は少しも蹄を降ろすべき場所をあやまたなかった。樹々は陽の光を容易に通さぬのに、雨粒にはそのなめらかな葉の上を伝い滴ることを許していた。たちまち森の中は雨靄に包まれ、姫は冷たい雫をうなじに浴びて身震いした。すると、紫蘭がささやきかけた。


「姫さま、上着を」


 姫は最初その意味を理解しかねたが、やがて上衣を被れという意味であるとわかり、馬車のそれとも異なる揺れのなかで袖を抜き、頭の上にかけた。それから思い出して、


「あなたも……!」

「私は結構です」


 紫蘭の口調は断固としていた。このような冷たい取りつく島もないような話し方をされたことがいまだかつてない姫君は呆然として、ついにそれ以上勧める術を忘れた。

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