第二十二話 桜花
22-1 咲きかも散ると
遠のく馬の足音を誰か聞きつけたであろうか。否、きっと聞こえてはいない。夕景の仕草はあくまでしとやか、主人たる紫蘭の手綱さばきもまた巧みであった。
あまり勝手なことをしてはならないことはよく知っている。だが、人々は酔い騒ぎはじめていたから、ほんのしばらく席を外したところでとやかく言うものもあるまい。森のなかに勝手に馬を入れることについては後から文句も出るかもしれないが。
森は薄暗く、鳥の声さえも間遠であった。木の根を避けつつ夕景は同じ歩調を保って進み、紫蘭はその背の上で愛馬の清らかな
友がいないとどうも酒が美味くない。美味くないのはこういう堅苦しい場にはつきものであるから我慢もできようけれど、今日は旅疲れのせいか酔い方がはやく、頭ばかりはのぼせるのであったが反対に心の方は沈んできて、なんとも憂鬱な気分に飲まれてくるのであった。
……久しぶりに父上皇と対面した。数年ぶりにお会いした上皇は記憶より少し老けたようにはみえたが相変わらず壮健で、そして紫蘭にとっては近づきがたかった。隣の席に座っても何を話してよいのやらわからず、最初は上皇の尋ねられることに言葉少なに答えてはみたが、次第に父も愛想を尽かしたものか若い巫女をからかう方に興を催されはじめた。
一方で、舞台越しにみてみれば、兄帝が非の打ちどころのないみやびなお姿で月修院さまと話し込んでおり、父もまた若い女をからかうその端で、濃い灰色の眉の下よりその様子をうかがってひそかに満足げな笑みを浮かべていらっしゃるご様子である。それを盗み見る度に紫蘭はなぜだか胸のなかを冷たい針で突き刺されたような気になったが、紫蘭は痛みそのものよりもそんな痛みに怯んでいる自分に腹が立って仕方がなかった。
目の前の光景は耐えがたく、隣の席の右大臣も、酒が進む度に無口になってきて話もはずまない。人々の声はいよいよかしましく、酔態は見苦しかった。酔いのために弱った紫蘭の心と理性には、その場に座り続けていることは苦行に等しかった。自分の弱さを認めることは自尊心を傷つけもするが、救いもする――経験よりそれを知っていた紫蘭は、懸命にもその場を去った。
(そもそも、こんな行事自体が無駄なのだ)
紫蘭は自分の傷口から目を背けるために憤って胸中つぶやいた。
(月の女神だの、死後の世界だの、天つ乙女だの……死んだあとのことならば死んだあとに考えればいいだろう。時間ならいくらでもあるのだから。だが、命には限りがある。僕にはやらねばならないことがありすぎる。そう、そして僕のせねばならないことの第一に、こんな愚にもつかない儀式を、信仰を撤廃することがあるのだ)
それまで
女の霊威の時代は終わったのだ。祭りは絶えた。今や男の時代、男のなす
優雅な物腰、秀麗なる容貌、その下に氷の刃のような理智と青い炎のような野心とをひそませているはずなのだ、自分は。頼みにするのは己が才能と理性だけ。感情など、信仰など、顧みる価値もない。なぜなら、神の代はとうに終わったのだから。
かつて天つ乙女は暁の空を見上げて歔欷したと云う。他の神々が世界を見捨てはるか遠いところへと、神々のみが行き着くところへと旅立ったのに対し、天つ乙女はひとりこの世界に留まった。一体なぜ?古代人の空想はゆたかで骨太であるけれども細やかな情理を描かない。暁の星々がこの世界を去る神々の残影であるという、その想像はいかにも美しく物寂しいけれども……神々はこの世界を去った。天つ乙女を祀る儀式は日に日に形式化し、信仰は形骸化しつつある。信仰を失うことは神にとって死に等しい。
天つ乙女、桜乙女、稲城乙女、四神、京姫――神話とはわずらわしいばかりの単なる名前と系譜の羅列である。思い出されるのは、先ほどの儀式のことである。天満月媛に捧げるべく京姫の披露する舞を、紫蘭は乾ききった心地で眺めていた。
……それを知っているというのに、この一抹の寂しさはなんだろう。ほくそ笑みたいはずなのになぜだか失望している、そんな自分が紫蘭にはもどかしかった。かねてより考えていた計画はやはり正しかったのだ。自分の慧眼に自惚れてもよいはずなのに、自分はやはり人より聡いのだと安心してもよいはずなのに。
(僕は本心では四神の力を信じたかったとでもいうのか。自分の理性や能力よりも、その先にある華々しい未来よりも?天つ乙女の瞳がこの僕に向けられる日が、はたしてあるとでも……?)
「……ばかばかしい」
青年のつぶやきを聞いていたのは、愛馬のみであった。
ふと、紫蘭はなにか頬に触れるものがあって顔を上げ、唖然とした。暗い森のなかに満開の花を咲かせた桜の樹々が群れつどう一画がみえる。光差し、花満ちる世界が遠からぬ場所にひろがっている。酔いのみせる幻かと疑って、紫蘭は目をしばたいた。幻は掻き消えなかった。花弁は風に乗って紫蘭の方まで靡ききて、夕景の薄灰色の肌に白い
夕景は惹かれるように桜の森へと突き進んでいった。あまりのことにかすかな不安を覚えた紫蘭は夕景を留めようとも考えたが、その時うるわしい歌声が聞こえてきて紫蘭をはっとさせた。
「神々は
澄んだ美しい声であった。高くのびやかな若い女の声だ。誰かがこの森のなかにいるのだ。
「
月修院の巫女かもしれない。でも、この声にはどこかで聞き覚えがあるような。
「残されしこの身は一人、君を恋ふ……」
歌がやんだ。夕景もまたその場で足を止めた。だが、紫蘭は気がつかない。まるでこの桜の国を統べる女王のごとく、どの樹々よりもあざやかに、凛々しく、気品高くそびえ立つ大樹に見惚れてしまって、その刹那、歌のことも、森のことも、宴のことも、頭からかき消されてしまったのだ。
桜の大樹は、紫蘭と夕景の頭上にゆうゆうと枝を伸ばし、花の色を薄紅色の天蓋のごとくひろげていた。それは恵み深き女王の庇護であり恩寵のようであった。梢を小鳥がゆするたび、あるいはゆすらずとも、花弁は雪のようにひらひらと舞い降りてくる。それでいて花は一向に失われる気配はないが、枝先がまばらになったところにだけ、陽光がまともに差し込んで、夥しい金色の光の線を描き出す。花は舞い降りる拍子にその光のなかをくぐってくる。まるで戯れのように。
もしその時夕景がかすかに身じろぎをしなければ、また、視界の端でなにかひらめくものがなければ、紫蘭は夜が夕闇の色の包みのなかに花を包みこんでしまうまで立ち尽くしていたかもしれなかった。紫蘭は何に気を取られたのかもほとんど意識できないままに木蔭を見遣り、そして少女を見出した。
ああ、もしあの時彼女に出会わなければ……!
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