21-2 「ようこそ月修院へ」

 まるで風に薙がれた草のように一同の目がそろって注がれた先を姫も見遣った。姫はそのとき初めて、汚れひとつない純白の壁の翼のように伸ばして紺色の屋根瓦を被った山門が、すらりと品よくそびえているのに気が付いた。そして、姫が見つめるそばから門が開き、そのうちから紫紺色しこんいろの僧衣を身にまとった男性が姿をあらわした。


 月修院さまがどんなに優れた僧侶であり、またいかほどの人格者であるかという話をこれまで散々に語り聞かされていたはずではあったけれど、生まれてはじめて外の世界へ出た興奮ですっかり忘れ去っていた京姫の目にも、その風格は明らかであった。姫にとっての驚きは、勝手に老翁のように想像していた月修院さまがまだ若々しいことである。第十七代月修院宗主、俗名を二条楷にじょうのかいと仰る方は九つの時に月修院に入り、以後三十余年間を門内において過ごされてきた。すなわち、まだ四十をようよう踏み越えたばかりの御歳なのであって、本来であればきっとお髪も黒々と生えていらっしゃるのだろう、それを青々と剃り上げたお姿はいかにもすがすがしく清らかである。背丈は高く、動作にはゆったりとした落ち着きがあり、威厳を感じさせる一方で、歩み寄ってくるその表情は穏やかで、姫に緊張を強いるものは何もなかった。三日月を象った銀の飾りを首から提げていらっしゃる。


 京姫が大きな翡翠の目を瞠って見守るうちに、月修院さまは帝と京姫の前で静かに膝を折り、身を低くして頭を垂れ、両手を額の前で結んだ。帝が同じ姿勢をとってすぐに返礼なさったのをみて、姫も慌てて従った。


「主上、京姫さま、お待ち申し上げておりました」


 低く静かな声である。殿方というものにあまり接する機会のない京姫にはなじみのない響きだ。こういう大人の男性の声を聞くのは決して不快ではない。でも、なんだか胸がぞわりとするような……応えられる帝の声はまだ軽くさわやかである。


「月修院さま、お会いできて光栄です」

天満月媛命あめのみちつきひめのみことの導きあって、皆さまが無事に御到着なさったことを心より嬉しく思います。主上、姫さま、御身おんみは天つ乙女に仕える身。命輝ける美しき世界を司る方々。しかし、どうぞ今日この日だけは我らが月の女神に捧げてくださりますように。天つ乙女の言葉ひとつに傷つき、み顔を隠しなさったその恥じらいを讃え、慰めてくださりますように。さすれば慎ましき乙女も憩える死者のために心を砕かれ、月光はこの玉藻の国をあまねく照らし出し、百姓おおみたからの上に降り注がれることでしょう。すでに来たる者にも、これより至り来る者にも」


 そこで月修院さまと帝とは顔を上げられたが、京姫は白虎にそっとつつかれてようやく遅れて姿勢を戻した。結んだ小さな手を取り除けると、月修院さまと視線がぶつかって、京姫は慌てて目を逸らした。普段は見知った者ばかりに囲まれているせいか誰に対してもまるで物怖じしないというのに、今日ばかりはさすがに緊張しているらしいようすの京姫に、帝はかすかに笑みを浮かべられた。月修院さまもまたすぐに姫のはにかみを見取ったらしい。小柄な姫にあわせてまた少し背を屈めて、やわらかなお声で、


「姫さま、ようこそ月修院へ。ここは俗界を離れた者たちの住まい。京のようなきらびやかなところではございませんが、それでも少しは姫さまにも珍しがっていただけるものがあると思います。さあ、ご案内いたしましょう」


 温厚ながらに理智の勝った月修院さまの灰色の瞳が、恥ずかしげに微笑みを返した京姫を映し出す。不快な感触ではないはずであったが、やはり姫はぞくりとした。でも、月修院さまはお優しい方だ……気難しい方でなくてよかった。


 帝に手をとられ、京から参じた一行の先頭に立って月修院の門をくぐられた。門の先にはひとすじの道がつと続いており、その先に、北山とその麓にひろがる森とを背景に本堂がそびえ立っている。門から入って左手には男僧たちの住まいが、右手には巫女たちの住まいが道を隔てて配置されており、帝と姫とはまず男僧たちの住まいの方に案内された。


 月修院さまは普段僧侶たちがどのような暮らしを送っているかを、姫君が興味を持てるように面白みを添えながらも説明し、時には僧侶たちに命じてその信仰生活の一部を再現させたりもした。多くの僧侶たちが集い、天満月媛命のご神体である鏡に祈祷を捧げるさまを、京姫は少し物怖じしながらもそれでも帝の腕に縋りながら熱心に見物していた。


「我々は毎日朝夕の二度必ずこのように祈りを捧げます。我々の生活は祈りに始まり、祈りに終わるのです。天満月媛さまがみ顔を隠しなさる新月の夜には日の入りから日の出まで眠らずに祈りを行う決まりです。新月の日は食事をとることも避けております」

「しょ、食事なしでっ?!」


 中庭に面した廊下を渡る途中で月修院さまがそう説明すると京姫はつい叫んだ。京姫の声に驚いたのか、池の岩場で日光浴をしていた蛙が池の面へと飛び込み、花の蜜をついばんでいたメジロのつがいが飛び立っていった。軽い笑いが一行の間に伝わって、長い廊下を春風のように駆け抜けていく。


「姫さまには考えられぬかもしれませんね。私たちは死者の世界に安寧をもたらすべく生活しておりますから、食に執着を持ってはいけないという決まりを持っております。毎日二度の食事もごく質素なものです」

「で、でも、それでお腹が空きませんの?」


 京姫は赤くなって尋ねた。


「そうですね。もう慣れてしまいましたから……でも最初のころはとても苦労をしました。私は食べ盛りの子供のときに月修院に入ったものですから、お腹が空いて眠れなくて、ようやく寝入ったと思ったらすぐに起こされて。お祈りの最中に居眠りをして叱られたこともありました」


 月修院さまは笑いながらそう語った。京姫がつい思い出すのは七年前の神饗祭の夜のことである。あの夜は眠ってはならないと言われながらも、結局は帝のお優しさに甘えてつい眠ってしまったが、神に仕えるということは本来苦しく大変なことなのである。月の女神にお仕えする人々がこんなに頑張っているというのだから、天つ乙女に仕える私ももっと頑張らなければならないのではないかしら。そうした疑問がふと芽差してくる。


 しかし、それはそれとして食事の話をしたらお腹が空いてきたのだけど……


 その時、鐘の音が低く境内を震わせた。月修院さまは細めた目を庭の外、紺色の屋根瓦が日を宿してきらめいているあたりに向けた。


「……そろそろ昼餉ひるげの時刻ですね。女たちに食事を用意させております。粗末なものですが召し上がってください。恥ずかしながら、皆さまに揃って並んでいただける場所がございませんので、姫さまをはじめ女人の方々には女たちのところでお食事をとっていただきます。恐れながら主上には立ち入りをご遠慮いただきますが、姫さまはどうぞそのまま見物なさってください」

「主上も入れないところを見られるんですの?」


 京姫の声には嬉しさと興奮とがにじみ出ていた。


「えぇ、潭月寮たんげつりょうは男子禁制の場所なのです。主上といえども出入りを許す訳には参りますまい」

「おや、それは残念だ。姫、あなたは楽しんでいらっしゃいね。そしてどんな様子だったか後でこっそり教えてください」


 瞳を輝かせる姫に、帝は快活におっしゃった。


「先代さまや姫さまのお母上が過ごされた場所です。きっと姫さまにもお懐かしい場所だろうと思われます。ごゆるりとご覧くださいませ。では、主上はわたくしと一緒に。そろそろ院もご到着されるでしょう。姫さまには別の案内の者をつけさせます。四神の皆さまもそちらに」


 男僧たちの住まいである清月寮せいげつりょうの外で、若い巫女がひとり立って京姫を待ち受けていた。銀の冠を被っていることや青藤色の衣を纏っていることは他の巫女たちと変わらないが、ごく淡く玉虫色の光沢を帯びたうすものを冠の下から髪を覆い隠すように靡かせた女性で、月修院さまの説明によると潭月寮の巫女たちを統べる月当げっとうという役割を負っているのだという。京姫と四神たちの前で、月当の女はしとやかに頭を下げた。


「これからはこの者が皆さまを案内いたします。ではよろしく頼みましたよ」


 「はい」と女は慎ましやかに返事をして、京姫に微笑みかけた。その笑みの形に沿って、羅と同じ玉虫色の光が美しい女の唇を輝かせる。傍らで帝が身じろぎをされたことに、京姫は気づかないでいた。

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