第二十一話 月宮

21-1 「姫さま、まもなく到着いたします」

 ああ、まただ。


 また誰かが泣いている……だから、これは夢のなか。


 暗闇のなかで誰かのすすり泣きだけが聞こえる。小さいころから、時々こういう夢をみる。誰にも話したことはない。芳野にさえも、青龍にも、主上にも。でも、この夢から覚めたときはいつも胸が苦しくなる。また今日も泣いている人を助けられなかった。


 何度同じ夢をみても一緒。何度夢のなかでめぐり会っても、私はその人を助けられない。手を伸ばそうとしたし、声をかけようともした。でも暗闇にとけてしまって、伸ばしたはずの手はみえなくて。はりあげたはずの声もすすり泣きにまぎれて聞こえなくて。


 「ごめんなさい」ってつぶやいた。届くはずがないって知っていたけれど。


 悲しかった。私は京姫なのに、京を、この玉藻の国を守るのが私の仕事なのに、夢のなかで泣いているその人だけはどうしても助けてあげられない。


 ねぇ、お願い。泣きやんで。あなたが泣いていると私も悲しくなるの。

 

 もう起きなければいけないから、お願い。お願いだから、泣きやんでよ。


 ねぇ、ねぇ、お願い。


  …………ごめんなさい、今日も助けてあげられなくて。



 ねぇ



 あなたは一体誰なの?






「姫さま、まもなく到着いたします。ご準備なされませ」


 芳野に耳元でささやかれて、京姫は小さな手で眠そうに目をこすりながら、乳母の肩に預けていた頭をもたげた。「あらまあ」と芳野がつぶやいたのは、せっかく今日のために整えたお髪がうたた寝のために乱れてしまっていたからである。櫛をとった芳野は樺色の長い髪を幾度か梳いたあと、曲がってしまった宝冠の位置をなおしたり、薄桃色の口紅を指で塗りなおしてさしあげたりして、最後に姫の肩に手を置いて遠のけながらその姿を左見右見とみこうみした。そうされている間、京姫は夢の切なさを引きずったままぼんやりとしていたが、やがて芳野の所作のいちいちが先ほどから非常にやりにくそうにみえる理由が不規則に訪れる揺動のためであるということに気がつくと、ぱっと瞳を輝かせて半ば腰を浮かせかけた。姫君の表情がいちどきに華やいだのにこれこそ一番のお化粧だと密かに感心しながらも、芳野は窓から顔突き出そうとしている姫君を制するのを忘れなかった。


「着いたの?ねぇ、もう北山はみえる?!」

「慌てなさらなくても、お車をお降りになった後にゆっくりと御覧になれますよ」

「でも今すぐ見たいんだもの!」

「なりませぬ!主上に恥をかかされるおつもりですか」


 帝のことを持ち出されると聞き分けが多少よくなることを知っている芳野はぴしゃりと言ったが、今日この日の姫君はすっかり舞い上がっている姫君はなかなか諦めようとしなかった。最終的には、車は北山に向かっているのだから車の側面に取りつけられている窓からは覗けるはずがないと諭されて、京姫はがっかりと腰をおろした。それでも窓にちらつく外界の様子には興味をそそられるようで、窓から差し込む木漏れ日に手をかざしてみたり、頬に風を感じて気持ちよさそうに目を細めたりしているさまは、いかにも無邪気でかわいらしかった。まったく、これが五つか六つの娘であれば芳野とて微笑ましくみていられるのだが。


 苦い顔をしている芳野の胸中などまるで知らず、京姫は喜びと興奮とで胸をいっぱいにして、車輪がわだちを作る軽やかな音に心地よく聴き入っていた。花の月の十二日、今日は月宮参りの日だ。七年に一度、帝と京姫とが北山の麓にある月修院を訪れて死後の世界を司る月の女神を奉る日――京姫にとっては生まれて初めて桜陵殿の外に、京の外へと出られる日――この日をどれほど心待ちにしていたことか。それこそ、何日も、何か月も、何年も前からずっと。


 月修院は姫にとってもゆかりのない土地ではなかった。先代の京姫、藤枝ふじがえ御方おんかたも、京姫の生母にあたる女性ひともまた月修院の巫女であったからである。藤枝の御方が亡くなったまさのその夜、京姫は生まれた。月修院の巫女であったその母親、天つ乙女に見出されておのずから子を身ごもり、冷たい雨の降る夜のこと、自ら京へと赴いて内裏に至りつきこう言った――次の京姫となる乙女が我が腹のなかにいると。


 人々は女を狂女とみて冷たくあしらったが、ちょうど同じころ、長いこと瞼を閉ざされていた藤枝の御方が目を覚まされて、今まさに南門の前に子を身ごもった女が訪ねてきているはずだから、その女をここまで連れてくるようにと申し渡した。戸惑いながらも女房たちが従うと、確かに言われた通りに女がひとり立っている。その容姿はきわめて麗美うるわしく、降りしきる雨に身をすくめる様子もなく、物腰は高貴な方のように悠然としていた。女房たちがその女を連れて桜陵殿に戻ってみると、まさに御臨終かと思われていた藤枝の御方が再び目を覚まされて、周りの者の制止をきかずに女の濡れた手を握りしめながら、「この方の御腹みはらにこそ、次の京姫となる乙女がいます」と周囲の者どもにのたまった。女ははらはらと涙を流しながら「その通りでございます」と言った。その直後に藤枝の御方は儚くなり、女の方は俄かに産気づいて玉のような姫君を産んだ。そして、女もまたそれきり亡くなったのであった。


 その時より、七年もの間、京姫は生まれた場所であるその桜陵殿の一室を離れたことはなかった。庭の景色さえ間遠な部屋だった。一度そこから離れてからは、その部屋に立ち入るのはなんとなく気が引けた。なんだか、また閉じ込められてしまうような気がして。懐かしい思い出もたくさんあるとはいえ……芳野が乳を与えてくれたのも、青龍と初めて出会ったのも、共にお人形遊びをしたのも、そこであったのだし。


 七つになって即位してからも姫の暮らしはやはり内裏のなかに限られていた。自分が守らねばならないのだという玉藻の国の全貌どころか、京のことさえも姫は知らなかった。それは何たる矛盾であろう。姫にしてみれば、それはどんなに歯がゆいことであろう。


 とはいえ、外の世界に出てみたい、外の世界をみてみたいとの思いは、必ずしも京姫としての責務から芽生えたものではなかった。その面影さえ覚えていない母への思慕もあまり手伝ってはいなかった。ただ純粋なる好奇心と憧れこそが、姫を絶えず揺さぶりつづけるものの正体であった。よく物語には聞くけれど、川の流れるさまってどんな様子なのだろう。日と月はどこへ沈んで消えていくの?京にはどれだけの人が暮しているの?どんな服を着て、どんな顔をして、どんなことをして生きているのだろう。草原を思うがままに駆けてみたい。きれいな色の鳥をどこまでも追いかけてみたい。馬にも乗ってみたいし、桜陵殿のお庭にはない花も摘んでみたいし、そうだ、それから……!


 いや、贅沢は言わない。だって、今日はずっと夢にみてきたことが叶うのだもの。もうすぐ車の扉が開かれる。そうしたら芳野に手を取られる間もなく、私は外に飛び出そう。だって、生まれてはじめて外の世界の土を踏むのだもの。


 車の速度がゆるまっていく。帝と京姫の到着を知らせるかねの音が二度三度と響き、びんが低くうなりをあげる。しかし、京姫の喜びはその荘重な音にも押し潰されるはずがなかった。胸の高鳴り、小鳥の歌う声、馬のひずめが地を蹴る音、これこそが今ひと時、京姫にとって、この世の音楽の全てであった。


 車が停まった。ちょうどその時、袖で咳を隠していた芳野は京姫をついに留めそこねた。馬車の扉が開かれ、屋形の床を四角く区切られた真昼の陽射しが照らし出すと、京姫は立ち上がり、ひらりと軽やかに草の上に降り立った。



 ああ!見上げた空はどこまでも続いている。屋根にも樹々にも石垣にも遮られることなく。白い薄雲が春の風にそよいでいる。はるか遠くより渡ってきた風が袖を膨らませる。その清涼さたるや、固く閉じた襟元の内にまで吹き込むようだ。京姫は思わず胸いっぱいに息を吸った。小鳥が二羽戯れさえずりあいながら飛んでいく。真上から日差しが照るからその腹の部分のやわらかな羽毛さえ翳りを帯びて色を失ってはいたけれども、鳥影を目で追いかけてもついに行きあたる先はない。鳥たちの影は遠のき、形をなくし、ついには空の色に溶け入ってしまう。その下には丘が連なっており、なだらかなその丘陵こそが今この場より望める地平線であった。鳥たちはその彼方へと向かったのだ。


「姫」


 優しいなじみある声が京姫の意識を地平線の彼方より引き戻した。はっと正面を振り仰いだ京姫の翡翠色の瞳は、降り注ぐ春の陽光にも似た、帝の穏やかな微笑みに触れられて歓喜にきらめいた。


「主上!」

「貴女はさっそくおてんばぶりをご披露なさいましたね。いえ、お元気なのはよいことです。でも、わたくしの手も借りてほしかったな」


 京姫はにっこりと笑って、差し出された手を京姫は遅まきながらに取った。無邪気で幼い姫君は少しもためらうそぶりを見せなかった。自らと帝とのことを妹背であるとは知っていても、一対の女と男であるとはまるで意識していないのだ。お若く美しい二人が睦まじく手を取りあったさまに、遠巻きに眺めていた群衆よりは感動のどよめきが沸き上がった。姫は初めてそのとき、自分たちを取り巻く大勢の人々を認めた。


 帝に従って馬を進めてきた京の人々から少し離れて、見慣れぬ格好をした一団が立っているのは出迎えにきた月修院の者どもであろう。男は頭を剃り上げての鳩羽色はとばいろ直綴じきとつに薄墨色の袈裟を着込み、女はいずれも髪を腰の辺りまで長く垂れ、月を表す銀の小さな冠を頭にいただいて、青藤色の衣を纏っていた。京姫がそちらに物珍しげな目線を向けると老いも若きも入りまじった集団は皆揃って深々と頭を下げた。京姫は一瞬あっけにとられ、それから急いで返礼した。


 並び立つお二人のそばに四神がやってきた。青龍と白虎とは刀剣を佩き顔をさらして、玄武と朱雀とは被衣で顔を覆い隠して、お二人に向かって相変わらぬ恭順の意を示した。帝は優しい笑みでそれに応えられ、ふと視線を遠方に投じて、


「姫、月修院さまがいらっしゃいましたよ」


 とおっしゃった。

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