20-6 「あたしがあたしだから」

 つまずきかけて姿勢を整えなおした玄武は、内心我が運命と任務に呪詛を浴びせかけ、冷酷な朱雀を恨みつつ、仕方はなしに歩み始めた。足音で気取られないように慎重に、けれどももう一頭の怪物が家のなかを漁り終わるころには間に合うように歩を進める。


 闇に慣れてきたためか、月明かりがなくとも怪物の姿は捉えられた。まだ先刻と同じ姿勢でうずくまっている。その尾の先が地を打って、ぱた、ぱたと鳴っている。先ほどの怪物のしわがれ声は不気味であった。獣の鳴き声というよりは人の笑い声によく似ていた。それも愉快な笑い声ではない。あれは哄笑であった。


 鹿子西小路を南北に渡る最初の通りを横切ったあたりで、玄武は足を止めた。怪物はまだこちらに気づかない。周囲に物音はない。もう一頭の怪物が忍び込んでいった家のなかからもことりとも音がせぬ。玄武は不安になった。まさか家の者どもは寝入っている間に殺戮されたのではなかろうか。今まで命を奪われたものはないとは聞いているが……ああ、そうだ。そのために急がなければならないのだ。四神の役目は京の人々を守ること。そのためにこんな格好をして武器を与えられて、夜の京をさまよっている。しかし、やはり自分にはふさわしくない。姫様はああは仰ったけれども。


「大丈夫。玄武は玄武だよ。だから会えたんだよ、ちゃんと」


(それじゃあおかしいですよ、姫様……)


 矢をつがえる。手が震える。夜風のせいではない。怪物への恐怖のせいでもない。本当に怖いのは……


(あたしがあたしだから、いけないんです。あたしがあたしだから、いつも上手くいかないんだ。あたしは「お気の毒」な六の君。せっかく誰かが好きになってくれてもどうやって気持ちを返せばいいのかわからない)


 京姫、青龍、白虎、朱雀。彼女たちは自分のことを好きになってくれたように思われる。そうであると信じたい。しかし、もし今失敗したら仲間たちは何と思うだろう。その時はその時だと青龍は笑っていた。見離されはしないのかもしれない。でも……ああ、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。


 本当に怖いのは……


(ねぇ、お願い……!誰も好きになってくれなくてもいい。でも、せめて、あたしに、あたし自身にだけは、あたしが誰かの好意に値する人間だってことを教えてよ……!)


 本当に怖いのは、自分が何もできない人間だということを、自分自身に証明してしまうこと。


(せめて兄上の好意にだけは。雪乃の好意にだけは。値する人間だって教えて、お願い……!)



 それは永遠とも思われた一瞬であった。怪物の顔がこちらを向いたとき、風が黒い矢羽を掠めていく音がまだ耳のなかに渦を巻いて響いていた。小さな鉄球を二つ嵌めこんだかのような瞳のない眼球に睨まれて、玄武は思考と呼吸とを同時に失った。気づかれたのだ。


 慌てて射た矢は獲物の足元にも届かずに地に刺さった。剥きだしになった歯並が光り、獣はまた低く哄笑の音を立てた――し、し、し、と。怪物がゆるりと立ち上がる。獅子のようにもあるいはましらのようにも見えるその顔を玄武の正面にもたげて、怪物は気味の悪い笑みを浮かべてこちらへと駆けてくる。蒼白になった玄武は逃げ出したいところを辛うじて踏みとどまって、矢筒をまさぐった。駄目だ、うまく矢を掴めない……!矢を構える暇も狙いを定めて射る猶予さえない。怪物はいよいよ間近に迫ってくる。子牛ほどの大きさを持った魔性のものだ。その吐く息すらももう嗅ぎ分けられそうで……


『助けて……!』


 飛びかかる魔物の巨大な前足に鉤爪が閃いた。並んだ三角形の歯の向こうには赤々とした口腔の色が滾っていた。それらの色がまさに玄武の痩身を引き裂かんとするとき、突然、玄武と魔物との間に炎の壁が立ちはだかって魔物の爪をいた。魔物は苦悶の声をあげて飛びのき、着地に失敗して地面を転がった。


「玄武、今よ……!」


 背後から叫ぶ朱雀はもう声を憚らなかった。玄武の矢は魔物の後ろ脚、太腿のあたりを狙って飛んだが、あともう少しというところで太い尾に弾き返された。すばやく姿勢をなおした魔物は朱雀の加勢に自らの不利を悟ったのか、玄武に襲い掛かろうとはせずに背を向けて走り去らんとし、相方が探っている家まで至って屋根に飛び上がった。その鳴き声に応じて、窓からもう一頭が顔を突き出し、小路を見渡した。何か丸く重たそうな布包みのようなものを咥えている……玄武ははっとした。


「まさか……!」


 玄武は恐怖を忘れて走り出した。駆け寄る玄武の姿を認めてか二頭目が屋根の上へと跳んだその時、玄武の予想が的中していたことが判明した。布包みのなかから漏れ聞こえるのは赤子の泣き声であった。


『みんな、手伝って!!ごめん、もうあたし一人じゃ無理!あたしの訓練だとかそんな悠長なこと言ってられないんだ。怪物がまた赤ん坊を攫おうとしてる。早く助けないと……!』

『……了解!』


 すぐに応じたのは青龍の声であった。頼もしい声に力づけられて、玄武は足を止め、屋根の上の魔物を狙って矢を構えた。二頭の獣は何やら人ならぬ者の言葉で語りあっている様子だ。その談合も手短に、魔物たちは共に瞳のない灰色の目で玄武を見下ろすと、一頭は家の裏手の方へと飛び降り、もう一頭は赤子の包みを咥えたまま、鹿子小路を越えて向かいの家へと飛び移らんとした。灰色の雲の立ち込める夜空を背景に、魔物の影絵が、まるで闇をそこに象嵌したかのように浮かび上がるのを玄武は見た。その喉元をめがけて、玄武は矢を放った。


 邪悪な巨躯が地に堕ちるよりも早く、赤子の包みが魔物の口元を離れた。弓矢をその場に放り出して、玄武は無我夢中で走った。このままでは魔物同様に赤ん坊までもが墜落して死んでしまう。何としても受け止めたいが、いくら走っても赤ん坊の着地までには到底間に合いそうにない。


 その時だった。玄武が首に巻いていた紫色の領巾がひとりでに解けて意志を持ったひとつの生き物のようにするすると玄武の前を進み、たちまちのうちに白い大蛇へと姿を変えてとぐろの上に赤ん坊を抱きとめたのは。大蛇は玄武が追い付くのを賢そうな黒い目でじっと見つめながら待っていたが、玄武が蛇に促されるままに赤ん坊を抱き上げ、不思議そうにその目を見返した瞬間、ぱっと元の紫の領巾へと戻ってしまった。領巾はまたひとりでに玄武の首へと巻かれたが、玄武がそこに触れても今目の前で起きた奇跡の痕跡らしきものはなにひとつ留められていなかった。


「今の、なに……?」

「玄武、赤ん坊は無事か?!」


 頭上から白虎の尋ねる声がする。今度は本物の声である。仰いでみると、怪物が飛び移ろうとしていた屋根の上から白い外套と金色の波打つ髪をはためかせて、白虎が玄武の目の前へと飛び降りてくるところであった。玄武は思わず後ずさって白虎のために場所を空けた。白虎の足先が地表に触れた瞬間、銀色の閃光が走ったのは、赤ん坊を奪い返すべく襲いきた怪物の首を剣が刎ねたためであった。玄武は思わず目を逸らしたが、ちょうど目を逸らした先に怪物の頭部が転がった。矢は喉元に突き刺さったままだった。それでも自分の矢は敵を射殺すには至らなかったのだ。


『青龍、一匹がそちらに逃げたようだけどどうかしら?』

『ちょうど今倒したとこっ!そっちは?』

『こちらも済んだわ』


 そうか、青龍がもう一頭を倒したのか……安堵に多少の落胆が伴ったのは玄武自身にとっても意外だった。もうとっくに期待など捨て去ったものだと信じていたのに。やはり自分は何もできなかった。戦いの場にあって何の役にも立たなかった。敵には気づかれ、矢はことごとく外れ、赤ん坊を危うく殺しかけた。そして失敗の後始末は全て仲間任せだ。


 玄武は知らず知らずのうちに胸もとに抱えた包みを強く抱きしめていた。その力に驚いた赤ん坊の泣き声が玄武の意識を引き戻す。玄武は慌ててほとんど襤褸切れといっても差し支えの無いような布を取り払って、小さな顔を覗きこんだ。


 途端に泣き声はひときわ大きくなった。近隣住民のみならず、京の人全てを目覚めさせてしまいそうなほどの声であった。赤ん坊なんてものに接した経験のない玄武はただおろおろするばかりであったが、見かねた白虎が受け取ってあやしてやると泣き声は次第に落ち着いてきた。粗末な家の生まれだけあって、布一枚にくるまれている他はほとんど裸同然で薄汚れた顔をしていたが、栄養の方は十分に行き渡っているらしく手足や頬などはむちむちと肥えている。睫毛を涙に濡らしたまま見知らぬ女性たち見上げる表情には、幼い心にもすでに警戒心なるたいそれたものが芽生えていることを示していたが、幸い体の方はどこにも怪我はないようだった。玄武はほっとした。あの子のおかげだ。あの蛇のおかげ――でも、ほんとにあの子はなんだったのだろう。あまりにも必死だったので幻でもみたのだろうか。あの子、どこか懐かしいような気がした……


「よくやったわ、玄武」


 いつの間にやら背後に歩み寄っていた朱雀が言った。相変わらず微笑んではいないが、そのかぎろいの瞳は白虎が抱いている赤ん坊への興味も映さずに、玄武だけをひたと見据えている。玄武はたじろぎ、うつむいた。


「……なにも。あたし、結局朱雀に言われた通りのこと、できなかった。怪物を倒したのは白虎と青龍だし」

「そうね、弓の腕はあまり褒められないけれど、あの子がさらわれた時に咄嗟に助けを求めた貴女の判断は正しかったわ。戦場では武力より正しい判断が必要なの。貴女にはそれが備わっている。己を過信せず、正しく状況を見定める力が。貴女はその力を示したのよ。それにあの子を救ったのは貴女なのだから、誇りに思っていいわ」

「でも、あの時もあたし、あの子のこと危うく殺しかねなかった……白い蛇が助けてくれたけど。ねぇ……あれは一体なに?」

「あれ?木守こまもりがもう出てきたの?」


 合流を果たした青龍が白虎から赤ん坊を譲り受けて、ちょっとした仕草で笑わせる事にまで成功しながら話に口をはさんできた。子供の扱いに慣れた様子はさすが乳母の一族とでも言うべきか。


「……木守?」


 聞き返した玄武に答えたのは白虎だった。


「ああ、代々玄武に仕える白蛇だ。仕えるというのは正しくないかもしれない。木守は玄武そのもの、玄武の一部なんだ」

「木守は神なる蛇よ。木守が顕現するためには、玄武もそれにふさわしい力を持っていなくてはならない。今宵一瞬でも木守が現れ、貴女を助けたのは貴女のなかで玄武としての力が高まりつつあるということ。だから、やはり今夜のことは誇りに思っていいわ。反省点は多々あるけれど」


 仲間の顔を見渡してみて、初めて玄武は嬉しさのようなものが胸ににじみ出てくるような気がした。指先で再び紫の領巾に触れてみて、玄武は馴染みのない感動に浸ろうとする。心も体もぎこちない動作であった。まだ笑うことさえできなかった。それでもいい。今はまだいいのだと、仲間たちがそう言ってくれているから。あたしも納得できているような気がするから。


 夜は薄まりつつある。羽化の時の蝉の羽のように、わだかまっていた夜の闇は遠い陽光に温められて伸ばされ、透き通っていく。星は流され、月は眠り、生きとし生けるものの夢は砂のようにくずれ落ちていく。無意識の暗渠の下へ。玄武はひどく自分が疲れていることを知った。早く帰って眠りたい。雪乃にくたびれた体を揉ませながら。


 こんなことを口走ったのも、きっと疲労のせいだと思う。


「ねぇ、青龍……その子、あたしにも抱かせて」

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