21-3 出会い
採れたての山菜やくだものを使った質素ながらに大変美味な昼餐でもてなされ、京姫はどこか物足りない気がしながらもひとまずは満足して、
「わたくしたちの生活もやはり祈りによって始まります。殿方は朝夕の二度ですが、わたくしたちは朝昼夕夜の四度。朝起きて祈りを捧げたのちは
月当がとある部屋の襖を開くと、そこでは七八歳ほどの少女たちが集まって文机に向かっている。少女たちは京姫に気がつくと一様に深く頭を垂れたが、またすぐに
月当は襖をそっと閉めて京姫たちに向き直った。
「こちらでは読み書きを教えているのです。姫さまが今ご覧になりました少女たちは、皆身寄りがなく、いまだかつて読み書きを習ったことがないのですわ。ですから、年上の者が教えてやっているのです」
「あんなに小さな子たちがいるなんて……!」
高貴なる姫君のすなおな驚きに、玄武ははっと胸を衝かれて思わず聞いた。
「あの、差し支えなければうかがいたいのですが、あの子たちはどうして
「えぇ。中には親が連れてきた者もあります。それはさまざまな理由から……家が貧しくてとても育てられなかったり、またはどうしても表に出せぬ子であったり、本当に色々ですわ。でも多くはわたくしたちが京で見つけた行き場のない孤児たちです」
「京の?行き場のない孤児って……?」
当惑する京姫を見下ろして、月当は憐れむようにかすかに笑った。
「ふふ、姫さまにとっては縁のない世界ですわね。姫さまはご存知ないかと思われますが、世のなかには貧しく、その日の食事にも事欠く者どもがいるのです。雨風をしのぐ家もなく、眠るところを求めて京をさまよい歩き、汚い身なりをしているからと人々に罵られ、それでも今日その日を生きるために泥の上を這い廻らなければならない……そうした者どもがいるのですわ。あの子たちの多くは、病や、あるいはもっと忌まわしいできごとによって身よりをなくし、ひとり泥だらけになって食べものを漁り歩いていたものばかりです。かく言うわたくしも、かつてはそうした子の一人でした」
「そんな……」
言葉を失っている京姫をよそに、月当の女は廊下をすっと歩み始める。姫は玄武と青龍に両横から助けられてようやく歩き出すことができた。しかし、まだ心は月当の言葉がもたらした凄惨な世界のうちから抜け出せていない。
知らなかった、私……京姫なのに、京のことをみたことがないから。そんな悲しい人たちが京にいるだなんて。誰もがこの世のどこより美しい場所だと讃える京、天つ乙女の恩寵が満ちる玉藻の国の京、代々の京姫たちによって守られてきたはずの京に。
また誰かが泣いている……
青龍と玄武は顔を見合わせる。京姫は今の話に心を痛めているようだが、どう慰めてよいものか見当がつかない。まさか今の話が嘘だとは言えないし、変に場を盛り立てるのも不謹慎なようで気が引ける。しかし、姫さまにはどうしても元気を出していただかなければならない。午後には姫さまが月の女神に捧げるべく舞と歌とを披露される予定なのであるから。青龍と玄武の思惑をよそに、京姫はぼんやりと
「……姫さま、ご心配には及びませぬ」
月当が振り返らぬままにつぶやく言葉に、姫は瞳を上げられた。
「京の孤児たちはわたくしどもが救っております。ひとり京をさまよっていたわたくしは確かに不幸でした。けれども月修院さまに救われて、今はこうして満ち足りた日々を送っておりますわ。ですから姫さまが案ずることはなにもございませぬ」
「でも……」
「そういえば先代の藤枝の御方も身寄りのない孤児であったところを拾われて巫女となったのですよ。姫様はご存知でしたか?もちろん滅多にございませんけれど、でも、このような幸福な例もございます。孤児だからといって不幸とはかぎりません。わたくしたちが救い続けるかぎりは。そして、何があってもわたくしたちは救い続けますから、姫さま、ご安心なさいませ」
「そ、そうですよ、姫!」
青龍と玄武はこの機に勇んで加勢した。
「大丈夫ですよ!姫さまが心配なさることは何もありません」
「それより姫さまもさっきの子たちを見習って、少しはまじめに勉強していただかないと。今日遊んだ分、帰ったら厳しくいきますからねっ!」
「……うん」
作戦は上手くいかなかったようだった。こうまでされたらお手上げである。再び顔を見合わせて、青龍と玄武とは小さく溜息をついた。かくなる上はひたすら祈るより他にない。これより先、姫さまの心をわきたたせるような出来事がどうぞ起こりますように……空からお菓子が降ってくるとか。
大勢が忙しく立ち働く
庭園は、北山と遠くにほのかに瓦屋根の色をひらめかせている本堂とその間の森を遠景に、なだらかな丘をなしてどこまでも続いていくかのごとく思われた。しかし、それは庭園というよりは農園と呼んだ方が正しかっただろう。春の花々が彩りを添える一方で、まだ花をつけていない果樹が連ねられ、巫女たちはその傍らに立って枝に
果樹園の手前ではたくさんのきれいな色の
「ここは庭ですわ。きっと姫さまのお住まいのお庭とくらべたら見劣りがすることでしょうけれど、お許しくださいまし。わたくしたちの庭は眺めて楽しむためのものではなく、生きる糧を生み出すためのものなのですわ」
京姫たちに気がついて、少女たちは慌てておしゃべりをやめて静かに膝を折った。ぎこちないながらになかなかに優雅な仕草であった。京姫もまた同じように挨拶を返したのだが、青龍は顔を上げたときの京姫の瞳が仔犬のそれのように輝きだしたのをみてひそかに安堵した。
「花も少しはありますけれど。月修院では桜の花は禁じられておりますの。天つ乙女の好まれた花ですから、桜を見ると
「いえ、とってもすてきなお庭です……あっ、あの!あれは何の樹ですの?」
月当が説明している間にも京姫は庭にぜひ降りてみたいという気持ちを隠そうとはしなかった。できることなら果樹園で仕事をしている巫女たちを手伝ってみたい。私のお母さまも、先代さまも、あんな風に庭の樹々の世話をしていたに違いないのだもの――姫のなかにはそうした思慕までもが湧いていたのである。
だが、その望みは叶えられなかった。非情な鐘が次の儀式のために本堂へと向かう時間であることを告げたためである。名残り惜しく庭園を振り返りながら立ち去る姫の背中を青龍と玄武とは無理やり押すようにして引き立てたが、京姫の足がふと止まってしまった一瞬があった。玄武と青龍とは姫の視線の先を見遣ったが、二人はなにも捉えられなかった。
「姫様、どうしました?もう行かないと。主上と月修院さまがお待ちですよ」
庭園の藤棚に女の影がひとつたたずんでいる。天から注がれて溢れかえったように咲きこぼれる藤の花房の奥、その横顔は花の色に紛れて定かではないけれども、青藤色の袖と白い袴の裾が藤の尾の端より覗いている。服装からみて月修院の巫女のようではあるが、あんな風にぽつねんと一人立ちつくすばかりで他の女たちのように立ち働いていないのが不思議である。あの
怪訝な顔で振り向いた月当は姫が立ち止まってしまった原因を見出したらしい。簀子の端に寄って、白い砂利に隔てられている藤棚の方へ呼びかけた。
「
藤尾と呼ばれた女は二度目に呼びかけられてようやく藤の花から顔をくぐらせた。若い女が白い右手の甲で藤の花をよけ、心持ち首をかしげてこちらを仰ぐさまはなんとも風情ある光景であったが、女の顔に京姫たちはなにかしら戸惑いのようなものを覚えなくもなかった。一体なぜなのか、京姫にはすぐにわからなかった。
腰の辺りで綺麗に切りそろえられた黒い髪、前髪から透けてみえる柳眉、切れ長の紫紺色の瞳、清涼な線を描く鼻梁と薄い唇――化粧をほとんど施していないにも関わらず、それは極めて精緻に造られた、麗しき
「やえ……ふじ……?」
女の声は低くかすれていて、京姫にははっきりと聞き取れなかった。「えっ?」と小さく姫が聞き返すそばより、月当の言葉が響いた。
「藤尾、何をしていますの?お前は今日まだ一度もお祈りをしていないでしょう。本当に悪い子ですわね。みんなの手伝いをしていらっしゃい。今日は主上と京姫がいらっしゃっているのですから、
月当の言葉に、京姫を見据える藤尾の瞳は色褪せた。なおも京姫を見つめながら、藤尾は小さく口のなかでうなったようであったが、やがて月当の視線と行き合って、ひらりと身を翻して果樹園の方へと駆けていった。
藤の花がまだ揺れているなかで、当惑する京姫たちに月当は軽やかに言いのけた。
「今のは藤尾と申しますの。えぇ、見ての通り体は立派な大人ですけれども、心はまだ子供なのですわ。元はああではなかったのですけれど、数年前にちょっとした事故があってからあんな風になってしまって……することも言うことも七つの子にも及ばないのですから困ったものですわ。それでもあの娘の居場所は
ちょうどその時、月修院さまに遣わされた巫女がひとり廊下を駆けてきて、本堂の方へ向かってほしいと告げた。松枝上皇もご到着し、間もなく午後の儀式が始まる予定なのだという。帝はすでに本堂で姫を待たれているとのことであった。
「あら、それは大変。では姫さまはお
「はい、芙蓉さま」と使いの巫女は返事をして、慌ただしく廊下を引きかえした。
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