第二十話 乙女

20-1 松枝帝の四の宮

 かの人が顔をうつむけると、漆黒の髪が濃い夜の川のように流れて、秀でた白い鼻先とともに新雪の上へと滑り落ちる。長い睫毛は冷気に凍ったように黒々と冴えて、宵闇を瑠璃の内に閉じ込めたかのような、澄んだ、しかし実は脆くゆるぎやすい瞳を支えている。脆くゆるぎやすい――この青年をただ松枝帝の四の宮としか、今をときめく麗しの貴公子としか知らぬ者は、そんな印象を抱かないだろう。かの人の瞳はただあるがままに物を映すのだと。そのあるかなきかの感情を冷やかに沈滞させたまま……きっと自分も古い馴染みでなければ、そう考えていたに違いないのだが。


「……紫蘭」


 惜しいことだと思う。こんな風に名前を呼んで、こちらを向かせてしまうだなんて。その横顔はあまりにも完成されていたから。けれども、同時にどうしてもそうせずにはいられなかった。この友の美しさは見つめていると空恐ろしくなるほどだ。女房たちも皆口を揃えて言っている。彼を注視するとき、見えざる手によって心の裏側に触れられるような感じがすると。自分よりほかに何者かが彼を見つめているのを感じると。そして、その何者かの怒りがかすかに身を震わせる。紫蘭はかの者の占有なのである。


「なにか……?」


 烏帽子を脱ぎ、儀礼用の正装をゆるく解いたその人は、遠目には女とも見紛うほどである。うつむけていた顔をもたげると、左肩に流れていた長い髪が、うなじの後ろのあたり、水晶の珠を垂らした紫色の紐に束ねられているその結び目からさらさらと背にこぼれる。少しかすれた友の声に怪訝そうに眉を寄せているその表情。こちらを見据えている瞳の色は雪明かりからにわかに遠ざけられたために翳っている。そんな様子を見るにつけても、確信を深めざるを得ない。そう、紫蘭は神に魅入られている……


「いや、酒の支度ができたので呼ぼうとしただけだ」

「あぁ、今参ります」


 酒と聞いて、紫蘭の口元に宿ったのは皮肉な笑いであった。まさしく彼らしいと世間が認めるところの笑みだ。こんな表情をしてみせる時の彼はきっと、他ならぬこの桐蔭宮とういんのみや――世間では東宮と呼ぶとか呼ばないとかいう人が、まさかその美貌に見惚れていたとは思うまい。その美貌に神の存在を透かし見ていたなどとは。



 元日から十五日間にわたって行われる正月の儀式が、今日の新玉の節会でひとまず幕を閉じた。東宮たる桐蔭の宮、そして世の覚えはなやかなる紫蘭の君ともあれば、月が満ち満ちる今宵まで多忙なことこの上なく、とても宴の後で飲みなおそうなどという気にはなれないはずなのだった。ところが、若さの盛りにいる青年たちは退屈と倦怠ならともかく、疲れというものを未だに知らぬ。彼らの言い分によれば、この十五日間というもの窮屈で退屈な思いをした憂さを晴らすには、どうしても飲みなおしということが必要なのであった。それもできるだけ早急に。


 今、東宮のおわします青桐舎せいとうしゃにおいて二人の皇子のために酒を注いで差し上げるのは、東宮の母宮・桐花とうかの女御ご幼少のころよりお仕え申し上げる栃野とちのというおうなである。若く美しい四神たちの酌み配る酒よりも、栃野の注ぐ酒の方がはるかに美味いというのが、桐蔭の宮と紫蘭の君との共通した見解である。栃野からすれば、なぜかくも気性の異なる二人の考え方がいつもぴたりと符牒するのかがわからない。もう散々お飲みになったでしょうにと渋い顔をしながらも、やや慎ましげにお注ぎして杯をお渡しすると、二人の皇子が瞬く間にそれを干してしまわれた。栃野が仕方なく二杯目、三杯目をお注ぎする間にも、甥と叔父であり、無二の親友でもあるお二人の話は弾むばかりで絶えることがない。


 もっとも、紫蘭の君はもっともくつろいでいるとみえるこんな場でも、それほど饒舌な方ではなかった。恐らく生まれ育ちの複雑さが、黙しがちでどことなく影のあるご性格を形作ったのだろうと、栃野は思う。松枝帝の皇子のうち、市松皇后のお生みになった一の宮、二の宮は藤枝帝、桐生帝として天の下しろしめしたけれども病のために相次いで亡くなった。牡丹大后ぼたんのおおきさきと今呼ばれる方がお生みになったのが今上帝であらせられる三の宮、そして、松枝帝がご譲位したその直後に木蓮の更衣という身分のそれほど高くはない方がお生みになったのがこの四の宮である。松枝院とて一の宮と二の宮が早逝されるという未来さえご存知であれば、四の宮を臣下に降ろされなかったかもしれない。しかし、母もすでになく、身よりのない四の宮が到底行き着くはずもない皇位のためにこの先苦労されることを慮られたのか、松枝院は四の宮に六条の姓をお与えになった。四の宮が七つの時のことである。


 一説には、牡丹大后が四の宮の養育を引き受ける条件としてその臣籍降下を院に願われたのだという。激しいご気性で知られる方だから、愛しくもない子を育てるにあたってはそれぐらいのことはなさるかもしれない。養育とてどれほど行き届いていたか疑わしい。三条のお屋敷のなかではおおよそ肩身のせまい思いをされたにちがいないし、そのために妖しいほどに美しい容貌とすぐれた才覚を持ちながら、声をたてて笑うことのない方になられたのであろう――以上が栃野の推測であり、そして世の意見もこれとさほど離れぬところにあった。


「しかし、よくもまあ十五日間も同じことやって飽きないもんだよなぁ。舞なんてどれも同じに見えるっていうのに」

「そうは言いながら青龍の舞は特別にご所望だったとみえますが」

「それはまあ……あいつは古い馴染みだからな。たまにはひいきにしてやらないと悪いかな、と思って」

「そういうことにしてさしあげます」

「言っとくけどな、嘘じゃないぞ。あいつとは小さいころによく遊んだんだよ。あいつの母親が、俺の母上に仕えてたから。それに東宮御所は青龍の管轄だし、一応立ててやらないと……」

「ほう。またずいぶんと生真面目なことで」


 対する東宮はといえば、紫蘭と並べば美しさでは到底適うはずもないのだけれども、その明るく闊達なご性格のために大層人気のあるお方である。かといって、桐蔭の宮が何の苦労も知らないかといえば、それは大きな間違いだ。父・桐生帝が身罷られ、当時東宮であった十二歳の桜間さくらま親王が帝に、そして帝の忘れ形見である九歳の桐蔭の宮が東宮に立った。桐生帝の母・市松皇后は左大臣の御妹であり、桐花とうかの女御も左大臣の姪にあたることから、桐蔭の宮には九条家の血が濃く受け継がれている。一方で、今上帝の母、牡丹大后のご実家は三条家である。三条家と九条家はその始まりこそ同じ高槻たかつき帝の皇子にあるのだが、長きにわたる両家の権力争いたるや熾烈なものがあり、それがもっとも如実にあらわれたのが市松の女御と牡丹の女御による中宮争いなのであった。いつぞやの二条家の謀反もこの二つの家が互いを貶め合うことに熱中して周りを顧みなかったことが一因とも言われている。


 今でこそ、三条家の婿たる右大臣と、九条家の左大臣が協力しあっているおかげで、両家の対立は表面的にはおさまったかのようにみえるが、後を引いて燻るものも数知れない。また、牡丹大后としては何としても帝の位を三条家の血を引く者へ、今上帝からまだ生まれぬその皇子へと継がせたいのであって、桐蔭の宮を廃する機会を虎視眈々と狙っているのである。九条家の権勢が衰え、三条家の勢いが日に日に増しつつある今、東宮の置かれた地位は心もとないものであった。


 それでも、東宮は持ち前の明るさを失わないのである。側仕えの者を唖然とさせ、呆れさせ、笑わせずにはいられないものを、東宮は持っていた。高貴なる方とは思えぬほど朗らかで快活で愛嬌にあふれ、気取ったところがまるでないために、多くの者に慕われ愛されていた。紫蘭の君の流し目が下々の者を(あるいは同輩の者までもを)慄然とさせるのとはまるで対照的であった。ゆえに、栃野はいつもお二人の友情と親交とを不思議がっていたのである。


「そ、そういう叔父上はどうなんですかねぇ」


 東宮は子供っぽくむきになって、ほのかに赤く染めた頬を杯の縁で覆いながら口ごもるように言う。


「何のことです?」

「とぼけるなって。そっちこそ想いを交わした女のひとりやふたり……」

「やはり、青龍とは想いを交わしたのですね」

「ち、違う!お前がそういう話ばっかり持ち掛けるから、てっきり恋の話でもしたいのかと……!」


 紫蘭は笑いを口の端に留めたまま肩をすくめてみせた。「まさか」とでも言いたげな仕草である。


「貴方をからかってみただけですよ。女は、嫌いです……うるさいし、愚かだし、みっともないから」

「そこまで言うか?」

「えぇ、真実ですから」


 「それはなんとももったいない」――宮は脇息に少しもたれかかってちかちかする視界を瞼で以ってそっと抑えつつ、なおもそこに幻影のごとく浮かび上がる友の半身を振り払いたいようにも名残惜しいようにも思いながら、ひとりちる。この男がちょっと優しい言葉でもかけてくれようものなら、どんな女でもたちまちのぼせあがって恋焦がれるあまり夜も眠れないありさまとなるだろう。そんな真似をしないところにこの友の価値があるのだが。しかし、紫蘭はなぜかくも女に対して潔癖なのだろう。口で言うほど女嫌いという訳ではないはずだ。相手によっては愛想よくふるまうこともできるのだから。密かに言い交わした女でもいるのだろうか。


「……しかし、紫蘭、お前の望みは出世だろ?色恋もできない男は今どき出世しないぞ。俺が言えた義理じゃないけど」

「その点は考えてあります。私は柏木の大臣おとど方式で行くので」

皇女ひめみこ狙いってわけか?」

「いえ、皇女を待っていたら時間がかかりすぎますよ。とにかく一人だけ妻を娶ります。美しく賢い良家の子女をね」

「もし娘が生まれたら一人ぐらいは俺のところにくれよ。中宮にしてやるから」

「一体何年後の話ですか。いや、その……私の娘が生まれて、入内できるような歳になるまで」


 紫蘭が急いで付け足したのは何も東宮の置かれている微妙な立場をあてこする意図はないことを示してのことだった。ここに来て、二人の会話はしばし途切れた。もし仮に牡丹大后の妨害が無駄な足掻きに終わり、桐蔭の宮が帝に立たれることとなったとして、それははたして何年後のことであろう。そうした不安が東宮の周りには靄のように漂っている。今上帝はまだ十九とお若く、東宮との歳の差もわずか三つばかり。今上帝の元には名高き才媛たちが次々と入内し美を競っており、そう遠からぬうちにいずれの御方かが皇子を生まれるだろう。もし、そうなったとしたら……


「……右大臣は、昔から伯母上に懸想していたって聞くぜ。それでほら、例の謀反の始末を上手くやったから、その褒美に院が娘を賜ったって」


 上手く話題を逸らそうとしてか東宮がのたまうと、紫蘭は冷たく鼻を鳴らした。


「一体どうだか。あの御仁が懸想などということをするとは思えませんが」

「全くだよな。しかも面白いことに、右大臣が本当に欲しがったのは女三の宮さま、つまり朱雀の宮さまだったらしい。だが、三の宮さまの方はどうしても院が手放したがらないというわけで、二の宮さまが降嫁されたんだと」

「それはまた右大臣もお気の毒に」

「いや、気の毒なのは二の宮さまの方だろ」


 九条家の血を引く東宮の前であるからはっきりとは言わないが、紫蘭は右大臣をひとつの指標としているのである。まさか尊敬や憧れを抱いているわけではないし、目標というのも違和感があるが、柏木家などという平民も同然の名もなき家の出にも関わらず、その理智と才能と、なによりもその強運とによって瞬く間にのし上がり、三十に届かずして右大臣の地位に至った男である。そうして出世の道をいちどきに駆け上がることができた理由のひとつには、その寡黙ながら果断な性格があると紫蘭は解している。恋などという雑事に溺れぬ冷徹さ。右大臣は武勇にも優れ、義弟である帝にも、松枝上皇からも厚く信頼されている。そうだ、柏木家の男にもあれぐらいの芸当はできるのだ。自分は臣下に下ったとは元は皇子なのである。それに幸いにも自分は頭脳と美貌とに恵まれているのだから、大臣の地位を得るなどたやすいことだ。


 いや、天子たる身、大臣などではとても物足りぬ……


「おい、大丈夫か」


 杯を取り落とした紫蘭に、東宮が驚いて言う。紫蘭は何かに目覚めたように目をみはり、紙燭の灯りが行き届いていない母屋の一隅の薄闇を見つめたまま、ぼんやりと「ああ」と答えた。東宮と栃野は紫蘭の視線にならって何もないことを検めたのち、顔を見合わせた。一体どうしたというのだろう。指先にもまだ酒の雫が清らかに滴っているというのに、紫蘭は放心したままだ。


 見かねた栃野が立ち上がった。このところ左膝が痛むこの嫗にはそれはなかなか骨の折れる所作なのだが、この仕事で暮らしているうちは文句も言えなかった。


「……紫蘭さま、少し酔いが過ぎたのではありませぬか。お水を召されませ。今、栃野が持って参りますから」


 紫蘭は栃野を手だけで制した。なおも視線は動かさぬまま。苦しみを堪えるように眉をひそめて。


「いや、いい……それより、少し夜気に当たりたい」

「正気か?凍え死んでも知らないぞ」


 友の言葉など耳に入らないかのように、紫蘭は庇の間から簀子へとさまよい出ていく。御簾に遮られてその影が朧になるのを主人として放っておくわけにもいかず、栃野をその場に残して東宮もまた母屋を出でて、庭に面した勾欄に臨んで身を並べた。


 酒が火照らせた頬に、兎の毛並みのような雪おもてから立ちのぼる冷気が触れた。それでも頬の色は褪めゆかず、鼻先ばかりが冷えてじんわりと痛む。鏡のような月、神代かみよには自らの眩さを愧じて水底に身を隠したという美しき女神は、今や日の神の不在に心から安らぎ、煌々と地上を照らしてにわびをかき消しても恥じ入らぬ様子。池の水面は凍りついて銀色に凪ぎ、雪に囲まれ怖じたように立ちつくす常緑樹の固い葉は月光を受けて白く照り輝いている。風はそよとも吹かない。解斎げさいの夜にふさわしい、静かな夜だった。


 紫蘭は物思いに耽るかのようにまた顔をうつむけていた。今度は間近に身を寄せているから、一つに結んだ髪がくせのように左肩に流れて、紅を刷いたような耳朶の色を侵していくのが認められた。並んで立つと、紫蘭の方が幾分か背の高いことに東宮はその時気がついた。しかし、勾欄にかけられたその手は女のように華奢で、青い静脈が透けてみえるさますら作り物めいている。東宮はなぜだかその手を取りたくなっている己自身と葛藤した。


 言葉をかけるつもりできたのだが、東宮はついに言葉を見失った。酔いと物思いとに瞳を揺らしている友に何を言ったものかさっぱりわからなくなってしまったのだ。だから、黙って共に月光を浴びていた。月光と、冷気と、乏しい星明りとを、その肩と髪とに浴びていた。



 ああ、なんと僕は浅ましいのだろう。


 隣の人を密かに羨んでいるなんて――

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