20-2 「こらっ、そこ寝ない!」

「こらっ、そこ寝ない!」

「いたっ!ね、寝てないもん!」

「すぐばれる嘘はやめてください、姫様」

「う、嘘じゃないもん!ちょっとぼんやりしてただけだもん……目をつぶって」

「それを寝てるって言うんです!」


 青龍と京姫のこんな遣り取りをこれまで何度聞いただろうか。えぇっと、新玉の月から講義が始まって、今はもうかすみの月の終わりだから……そうか、もう講義も七回目になるのだ。そのわりには何かを学んだという気があまりしないのだけれど。


 四神の一人として就任してはや三ヶ月、玄武の生活は大きく変化した。まずは住まいが変わった。玉藻の国の京は内裏を中心に据えてそこから東西南北に広がっているが、玄武の住まいは京の最北、玄武門の手前のあたりで、門を開けばそこからは北山へとまっすぐ官道が続いている。その道もまさしく玄武大路というのであるが、玄武大路沿いの女一人で暮らすにはあまりにも仰々しい古びたお屋敷が、玄武の新居であった。


 最初にこの家に越したのはもう数年前のことのようにも思われる新玉の節会の夜であった。神懸かりの興奮と疲労とで熱を出し、足取りもおぼつかなかった玄武を青龍と雪乃がそこに運び込んでくれたのだ。四神となった乙女のためにはその生まれ育ちにかかわらず、車と住まいと側仕えの侍女たちが与えられるが、青龍と雪乃とが協力して馬で引く車のなかに玄武を乗せて新しい住まいへと運び込み、あとは初対面となる女房たちが全ての世話を引き受けてくれた。いずれも若さの盛りを過ぎて分別と落ち着きとを得た女房たちは、手際よく玄武を着替えさせ、幾種類かの薬湯やくとうを飲ませると、有無を言わせず寝室のなかへと押し込んだ。その夜、玄武はたちまち深い眠りに落ちてしまい、翌朝目覚めたときもひとかけらの夢さえ覚えていなかった。


(ああ、ここは兄上の家ではない……)


 目が覚めたときに玄武はまずそう思った。それから身を起こしてみて、あまりの気だるさと寒さとに打ち震え、再び疊の上に身を横たえた。心配して様子を見にきてくれた雪乃に不調を訴えると、雪乃は夜のうちに新たな同僚たちからこれからどうすべきかをよく教わっていたらしく、いつも通りにゆったりと微笑んで、


「なにも心配はありませんよ。こうしたことは、四神となった乙女の身には必ず起こることなのだそうです。これから数日間はお苦しみになると思いますが、辛抱なさいませ御方さま。そうそう、白虎さまが果物をたくさん届けてくださいましたよ。お腹がすきましたら召し上がりませ」


 と言って、汗に濡れた玄武の額をそっと拭った。その日、雪乃は弱気になって子供のように甘える玄武のわがままに付き合って、玄武が寝入るまで手を握ったままでいてくれた。


 翌日も苦しいのは変わらなかったが、今度は体が熱くて仕方がない。無性に喉が渇くので水ばかり求めていたが、今度は寝ずの看病をしてくれていた雪乃に代わって新しい女房が枕についていて、玄武の様子をみては水を飲ませてくれたり、今は駄目だと言い渡したりした。その日もまだ食欲は湧かなかった。白虎が届けてくれたというくだものを少しかじってみたけれど味がわからず、玄武は体が変化する恐ろしさにすすり泣きながら眠りについた。すると、その日は夥しく夢をみせつけられ、覚醒した玄武は眠る前より疲れ切っていた。


 三日目には青龍が見舞いにきてくれた。午前の温かいうちに雪乃に体を拭いてもらった玄武は、まだ身を完全には起こすことはできないながらに青龍と差し向かいになって、真面目な話を少し、他愛もない話をいくらかした。そんなところに、今度は朱雀から玄武たちがみたこともないような珍しい菓子が届けられたので、客人にご相伴する形で玄武も口をつけた。砂糖をふんだんに使ったらしい、色鮮やかな花を模った菓子は甘く、重たく、じっとりと舌の上を圧して溶けていった。確かその時に青龍がこんな提案をしたのだった。


「ねぇ、元気になったら一緒に勉強会をしよう!四神として色々覚えなきゃいけないこともあるし。特に『暁星記あかつきぼしのふみ』はまるまる暗記しないといけないから。姫様なんてさっぱり覚えようとされないんですよっ!もう何年間勉強してるんだか……あっ、そうだ。せっかくだから、桜陵殿に集まって、姫様も一緒にやればいいんだ!姫様もきっと喜ばれると思うし」


 玄武はよく分からないままに頷いたのだが、節会の日から十日余りが経ち、体の調子が大分落ち着いたある日の午後、青龍の車が玄武の家の前に停まった。これから共に桜陵殿へ参ろうとの誘いであった。それが最初の集まりで、以降十日に一度、多いときは二度ほどの頻度で玄武は桜陵殿へと参上する身となった。


「じゃあ姫様、今あたしが読んでいたところ読んでくださいねっ!」

「え、えーっと……」

「ほら、やっぱり読めないじゃないですか!」

「ち、ちがうもん。わかんなくなっちゃっただけだもん!ちょっと待っててね……えっと、あっ、そうだ。こ、ここ天有明星命あめのありあけぼしのみこと、北の山に大きなる亀あることを聞きて……」

「ちがいますっ!」


 雪の月から霞の月へ、冬から春と季節が移り変わるのにあたって、今季節を司るのは春の乙女たる青龍だ。間もなく花盛りの季節となるだろう。格子戸も御簾も開け放しているので、ぬるく床を浸す春の日ざしに足元を温めながら、玄武は心のどかに庭を眺め遣る。桃の花の蜜をついばみにきた雀が梢を揺らし、蝶が池のまわりを飛び回って羽を休める場所を探している。遠く見ゆる石垣の色も淡い空の色と接するせいだろうか、堅牢な感じがまるでない。目の前を行き交う二人の少女の影絵も今はなんだかかわいらしい気がする。影絵にしては騒々しいのはどうしたって否めないとはいえ。


「もう、どうしていつも真面目にお勉強ならないんですかっ?!」

「こんなお天気の日に勉強なんかする方がおかしいもん!」


 玄武は口元を緩める。姫様の言うことにも一理ある。こんな日には許されるかぎり端近によって、庭に兎が迷い込んでこないか待ってみたり、池の鯉の跳ねる音を聞きながら午睡をしたりするに限る。冬を管掌する身ではあるし、鮮やかな月の色も夜をかぎる星の形も、夜のうちに世界を染め変えてしまう雪も、全て愛おしく懐かしいけれども。それでもやっぱり春はよい。


 来たる花の月の十二日には月宮参つきみやまいりがある――玄武は今、この行事をもっとも楽しみにしている。京を離れるのは玄武にとって初めてのことであるし、今年の月宮参りには兄も参加することになっていたからだ。


 月宮参りとは、七年に一度、帝と京姫と、四神と、それから大勢の従者たちが揃って、北山の麓にある月修院げっしゅういんにお参りに行く行事である。京姫は京を離れられる数少ない機会であるから、姫君がこのところ浮ついているのも仕方ないといえば仕方がない。姫にとってもまた京を離れるのは生まれて初めてのことなのだ。


「いいですか、姫様?姫様は来月の月宮参りで月修院さまというこの玉藻の国で一番えらいお坊様にお会いになるのですよ。月修院は主上も一目置かれるほどの徳の高い、優れた方なんですからね。そういうお方の前で間違ったことやいい加減なことを言ってごらんなさい。とんだ恥をかくのは姫様ですよっ!」


 ちょうど月宮参りの話題が出たので、玄武は騒音だと処理していた物音にようやく耳をそばだてる。と同時に、青龍の物言いが母親そっくりなのに気づいて思わず笑いを堪えかねた。青龍は自分自身でそれに気がついたのか、はたまた笑われたのが恥ずかしかったのか、玄武の方を振り向いてぱっと顔を赤らめた。


「な、何笑ってるの、玄武?」

「えっ?あ、あの、その……だって、青龍の話し方、芳野殿にそっくりなんだもの」

「そ、そんなことないったら!もうっ……!」


 青龍がむきになるとますますおかしくなってくるのと、その様子が急に年頃の少女らしくみえてかわいらしいので、玄武は思わず袖で口元を覆い隠した。一方の姫君は青龍に叱られたばかりなので機嫌が悪いらしく、文机の上に肘をついて拗ねたような口ぶりで言った。


「青龍の方が芳野より怖いけどね」

「そ、そんなことありませんっ!というか、そこっ、肘をつかない!」

「ほら、やっぱり怖い!」


 こうなるともう誰も統率がとれなくなってくる。ますます怒る青龍と逃げ出す京姫との間で鬼ごっこが始まり、文机が蹴飛ばされ、胡蝶装の『暁星記』が宙を舞い、玄武の顔に激突する。玄武の口元には笑いが干からびて張りついた。


「こら!どこに逃げるんです、姫様?!まちなさーい!」

「やだよーだ!」


 もはや二人の姿は見えず、どたばたと走り回る騒がしい足音、甲高い叫び声と、何かを蹴倒したり踏みつけたりする物音が響き渡るばかりである。そこに女房の悲鳴や叱りつける声やらが加わって桜陵殿はかしましいことこの上ない。すなわち、いつも通りである。


 二人が庭を駆けまわっている間に、玄武は無残に倒れた文机を整えて、憐れな『暁星記』をその上に据え直した。青龍の講義に頼らずに自分でも少しは学んでみようと書物を開いてみても、難しい言葉ばかりが並ぶ神話はどうも頭に入ってこない。やはり駄目なようだ。玄武は溜息をつく。どうも姫様を笑ってばかりもいられないようだ。そういえば、自分は昔から学問が好きではなかった。頭が悪いわけではないとは自負しているのだが、どうも書物というものに寄りつけないのだ。亡き父のこと、母のことを思い出してみても玄武の教育にとりわけ熱心であったわけではなかった。父は女人の後ばかり追いかけていたし、母は病身で浮世離れした人で、両親からの娘への愛情は放任もしくは溺愛(それも猫を可愛がる類の)という両極端な形で示された。母が亡くなって、父の北の方であった継母の元に引き取られたあと、玄武の無知は、継母や異母姉たちによって、からかったり悪口を振りまいたりするための格好の口実にされた。孤独な玄武を庇ってくれたのは兄上だけだった。あの子は陰気でのろまだと、女房たちでさえもせせら笑っていたっけ。だから、そう、今更仕事だからといっても、学問なんて好きになれるはずがないのだ。


(あたしは、何もできない。なんの取り柄もない人間なのに。それなのに、なんであたしが玄武なんかに……)


 ああして仔犬のように日差しの下を駆けまわる少女たちにも及ばないのだ、あたしの力も、真価も――玄武は暗い瞳をかざす。池の上にかけられた橋の欄干の上に京姫が立っているようにみえるけれど、きっと錯覚だろう。まさか姫様とはいえそんな真似をするはずがないのだから。


「姫様、ちょっと……!だ、だめっ!危ないから、降りてください!っていうか降りなさい!!そんなところにいると池に落ちますよ!」

「落ちないもん!そんなドジじゃないもん!」

「ちょっと!裾踏んでます!裾踏んでるって、歩いちゃ……っ!あっ」


 水しぶきの上がる音がする。はて、なんだろう……きっとそれは色鮮やかな大きな緋鯉が池のおもてを跳ねた音に違いなかった。

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