19-4 「あたしたちが付いてる。これからはずっと……」
……まだ少しぼんやりしている玄武を、両脇から青龍と雪乃が支えて歩いていく。女たちは先導の役に連れられて、新玉の節会の催される
紅の裳の裾を揺らしながら、どことなく緊張した面差しで進む幼い姫君こそ、足元さえおぼつかなくさせる法悦にも似た虚脱と倦怠とを、玄武に与えたその人であった。時にぐったりと雪乃の肩にあずけてしまう玄武の頬には涙がきらめいた。だが、四神たちのなかには誰もそれを気に留めるものはいない。神の降りたもうたあとの昂りを彼女たちもまた昨日のことのように覚えていた。彼女たちは訳もなく涙を流し、頭が重たく熱をもって痛むのを感じ、自らの心の内より湧き出でる感情の波に溺れるのだ――白虎によれば、それもいずれおさまるものであるけれど。
櫛を持った姫君の
「……本当にいいの?」
姫君はかすかなお声で尋ねた。玄武にしか聞き取れないほどの。玄武は言葉を発してよいのか迷ってひそかに眉根を寄せることで当惑を示した。
「……あなたは玄武になんか、なりたくないんでしょう?」
玄武はその時初めて、姫君の大きな瞳が苦悶を宿すのを間近で目にしたのである。その苦しみとはまさしく玄武自身のそれであった。心を見透かされた愕きを、玄武はこの場にあっては示しようがなかった。なぜこの姫君に通じてしまったのだろう。あたしの態度はそんなにひどいものであったのか……
玄武になんかなりたくない――そうだ。あたしは四神になんて選ばれなくてよかった。名誉などいらなかった。人々に崇め奉られなくてもよい。誰もあたしを顧みてくれなくていい。ただ一人、兄上だけを失望させなければ、あたしはそれで……
「お前が玄武に選ばれたことを誇りに思うよ」
確かに兄はそう言った。兄は絶えず浮かべている優しい笑みのうちにも興奮と喜びとを隠しきれていなかった。それは、玄武の結婚が決まった時にさえ見られぬ表情であった。御簾のうちからそんな兄の表情をうかがう玄武はせめて声音だけでも嬉しそうに振る舞わねばならなかった。
「お前はやはり神に見出された乙女であったんだね。神に愛された者はありふれた幸福とは縁遠いと聞くが、お前のこれまでの不幸もこのためであったのかもしれない。しかし、お前はよく耐えて神の恩寵を得た。本当に立派だよ、六の君。実にめでたいことだ。亡き父上もお喜びだろう」
(ああ、兄上!あたしは不幸などではありません……!)
玄武は胸中そう叫んだのであった。
(あたしは不幸などではありませんでした。あたしには兄上がいた。兄上がいつもあたしを守ってくださった。こうして兄上とご一緒にいられるかぎりは、あたしは幸せだった。幸せだったのに……!)
また引き離されてしまうのだ、四神になど選ばれたばっかりに……!
けれども……
もう後戻りはできないのである――斌の音に紛らわせて玄武は小さく息をついた。今更になって四神になりたくないなどと駄々を捏ねることはできない。それこそ兄を失望させてしまう……それに、玄武は知っている。もう彼女自身を選びたもうた神が、すぐそばでじっと息をひそめていることを。神を怒らせればどんな禍が我が身とこの京に降りかかるであろう。四神の座を空けておいてはならない。
そして、何よりも玄武の顔を、傍らから、あるいは前から見据えている人たちのために。彼女たちは日だまりのように温かかった。まばゆくもあったが、それは彼女たちが玄武は迎え入れるために、ただそれだけのために微笑んでいるためなのだ。
「よいのです」
と、玄武は小さく答えた。京姫はただ薄い唇をきゅっと引き結んだだけであった。かくして、ようやく玄武の前髪に櫛が通されたのである――
渡殿に打ち出でると、雪あかりが、両側から冷たく明るく女たちの面を刺した。眩しげに細めた玄武の頬にはまたもや涙が伝い落ちた。なにもわからぬ雪乃はただ小声で玄武をたしなめるばかりである。それをまた、青龍がたしなめて、片手で玄武の顔をみずからの肩の上に引き寄せながら、白妙の衣の肩が涙に滲むのも少しも構わぬまま、熱く震える玄武の掌を握り締めた。
「大丈夫」
青龍が玄武の耳元でささやいた。
「大丈夫。あたしたちは仲間よ。あたしたちが付いてる。これからはずっと……」
新玉の節会――帝が催される正月の宴であり、京姫が新年を寿ぐ舞を天つ乙女に捧げ、四神たちは紫壇殿に集う人々に杯を賜る。これが玄武の四神としての初めての務めである。玄武は雪乃にもたれかかるようにして、御簾の内より庭で行われる種々の舞楽をぼんやりと見つめていた。いずれも新春のおとずれを祝い喜ぶものであり、春を司る青龍に仕える者たちも刀剣や桙を手にした勇壮できらびやかな舞を供奉した。南面され、高御座よりそれをご覧になった帝は舞楽を奏するものたちに褒美を賜った。東宮のご所望とあって青龍みずからが舞を奉るよう命じられた。青龍が刀の先で雪を薙ぐと、そこより青葉が芽生えて春の花の数々が咲き開き、座に連なっていたものが皆感嘆の声をあげた。帝はその花を
京姫の舞はその後に披露された。桜色の華やかな、古風な衣裳に身を包んだ姫は、二人の女童に付き添われ、落ち着きはらったご様子で、裳の裾をさばきながらしずしずと舞台の
玄武はその声にうっとりと聴き入っていた。聴き入っている間にも涙は止まらなかったが、もはや雪乃もそれを咎めはしない。雪乃もまた、姫君の舞姿と歌声とにすっかり見入ってしまっているのである。その雪乃の肩に寄りかかっているうちに、玄武は胸が詰まるほどの懐かしさに、そして胸が痛いほどのとある切実な感情にとらわれて、刹那に呼吸を忘れた。玄武はその感情がはたしてなにものであるかを知らなかったが、自分以外の、なにか尊く、偉大なものの感情が、自分の心の上を行き過ぎたのを認めた。それは玄武の体を通してのみこの世に触れ得るものの感情である。瞳を閉じたとき、玄武は見知らぬ乙女の横顔が、じっと目を凝らして見つめていた京姫の横顔にも重なって、瞼の裏に映り込むのを見た。
「桜乙女……」
再び瞳を開いたとき、玄武は涙の乾いているのを認めた。舞い歌う京姫の姿は、夥しい金色の星が流れ落ちるごとく雲を払って降り注いできた日の光に照らし出され、玄武を祝福しているかのようにも思われた。
姫君の舞が終わると、いよいよ酒宴となった。四神たちはその御簾の前に並ぶ者たちに手ずから酌んだ杯を渡してやるのである。丹塗りの杯に注がれた澄んだ酒の上には季節の花が浮かべられるが、新玉の節会には決まって南天の実であった。小さな赤い実は、杯が手渡され、掲げられ、飲み干される、その一連の流れにあわせて底の色に沈みあるいは浮かび、最後には酒に濡れた人々の唇にいじらしい接吻をした。
玄武の手から人々の手へと杯を渡す、その仲介は雪乃が務めていた。けれども、ある人に関しては、玄武はどうしてもこの手で渡すのだと言い張った。
その人は、すでに酒を少し進めていたらしく、いつになく若やいだ声で、しかし、玄武の愛した穏やかな調子は失わずに玄武にこう告げたのである。
「新年明けましておめでとう、六の君」
「兄上……!」
と半ば立ち上がりかけ、そっと端近へといざり寄る玄武を、雪乃は苦い顔で留めようとしたが無駄であった。玄武のしるしがその肌に見出されて以来、玄武がこのようにすなおに、そして本来の彼女らしく、喜びをあらわしたことはなかったのであるから。
「無事に玄武として就任したとして聞いてとても嬉しいよ。お前は我が家の誇り、私の誇りだよ」
「ありがとうございます、兄上」
もう、声を装おう必要はなかった。玄武はただ、酒を注ぐ手が震えるのを堪えていればそれでよかった。
春を寿ぐ宴の席に、新玉の年を迎えた人々の笑いが満ち満ちていた。昼の日が雪の面をぬかるませ、枝先に清い滴りを結ぶのを、男たちは烏帽子や袖にしずくが垂れるのも、女たちは勾欄よりこぼれる長い裳裾が濡れるのも構わずに。むしろ酒の気にあてられて、それを楽しむかのように。誰もがこの麗しい春の日にさまざまな瑞兆を見たのである。雪につやめく紫壇殿の檜皮葺の屋根、青龍の髪を飾る菫の花、夜になってまた降り始めては踏み荒らされたあとをほのかに
やがて夜が青ざめた慈愛の手で世を覆い、燈籠が蛍火のような淡い光を投げかけて、酔った人々の目に罪なき幻を描いて戯れ遊ぶとき、この宴の席でただお二人ばかりがつまらなさそうなお顔をして頬をすぼめていることにもはや気がつくものはいなかった。そのお一人こそ京姫であり、あとの一人は
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