19-3 「四神がみんな揃ったの?!」

 御簾の奥より現れたのは、世に名高い左大臣・九条門松である。玄武は御簾越しでもないのに家族でもない殿方と顔を合わせていることに気付くより先に、あの威厳ある左大臣が、ぜいぜいと息を切らして、せっかく今日のために調えたらしい衣装もすっかりもみくちゃにしている光景にまず驚いた。そしてそれから、朱雀の背に抱きついていた桜色のものが、白虎の周囲をめぐって自分の後ろにぴたりと貼りついたので、そのことに驚き戸惑った。小さな桜色のもの――もちろんそのころにはいい加減、それが桜色の衣装を纏った小柄な少女であることは分かっていたけれど――は玄武の背中の後ろから叫んだ。


「そう簡単にはつかまらないんだから!こっちに来られるものなら来てみなさい!ここは男子禁制だもの!」

「いやはや、ここは四神の間……!これはこれは誠に失礼つかまつった。姫様!もう左大臣の負けを認めますから、こちらにお戻りなされ!」

「いやっ!怒らないって芳野が言うまではもどらないもん!」


 左大臣が慌てて顔を背ける隣に、今度は四十代ほどに見える中年の女性が御簾の奥より顔を出した。少し浮腫むくんだ顔をしているが、清潔な印象を与える女性である。しかし、今は眉を吊り上げて怒っているので、せっかくの好印象も台なしであったが。


「姫様!いい加減になさらないと、主上に言いつけてしまいますよ!」

「そ、そんなこというならますますもどらないもん……!」

「ちょっと、一体どうしたの、おかあさ……じゃなくて、芳野殿?」


 呆れた様子で青龍が尋ねると、中年の女性はよどみなく答えた。


「姫様がまた脱走しようとなさったのです」

「もう、姫様!またですかっ?!よりによってこんな日に!」


 青龍にまで叱られて、玄武の背中に隠れている少女はしゅんとして少し小さくなったようだった。それとも、単に叱責から逃れるべく、身を屈めただけかもしれない。ともあれ、どうやらこの少女こそが、京姫であるらしいのだが……玄武はこれまで京姫の姿を拝見したことがなかった。京姫が人々の前に姿を現すのは、今日の新玉の節会の他は、四季ごとの祭りと、七年に一度の月宮参りのときばかりである。玄武はごく幼いころ、父も母も生きていたころはともかくとして、継母に引き取られてからのちはまともに外に連れ出してもらったことはなかったので、ただ話にその姿を伝え聞くばかりであった。兄が話してくれたのだっけ――いとけなく、うるわしい姫君。清らかな歌声と優美な舞姿を誇り、人々を涙させ、崇めさせる……


 それにしても、姫君がこんなに幼いだなんて思わなかった。玄武はそっとまなじりに瞳を寄せて、姫君の姿を検める。御年は十四と聞いていたけれど、世の十四ならば人の奥方であっても決しておかしくはないし(さすがに今どきは珍しいとはいえ)、これぐらいの歳にもなれば少女たちは自ずから大人びた振る舞いを試みのうちにも真似してみるもので、悪い噂がうっかり評判の貴公子の耳にでも届かぬように気を配るものである。それだというのに、この姫君の振る舞いはその辺りの女童めのわらわとも変わらない。むしろ女童の方はよほどしとやかだ。


 同年代の青龍と比較しても、姫の幼いたたずまいは一目瞭然である。この姫君はご身分がある分だけ勝手に振る舞えるからこのようになるのだろうけれど。大体、もう人の妻ではあるのだし。そのことに心づいて、玄武はひそかに苦笑した。自分と姫君の身を引き比べるだなんて畏れ多いことではあるけれど、そのあまりの差異には自嘲さえも禁じ得なかった。なんとお幸せなお姫様。でも、もし、あたしがこんな風に……


 ただ、お振る舞いこそ立派とは言えない姫君ではあっても、その見目麗しいことは認めざるを得ない。大きな翡翠色の瞳や、優しげな眉にかかってさやさやとゆれている前髪のさま、やわらかな頬にあどけなさと愛嬌がこぼれるさま、桜色の衣からも透かして見えるかと思うほど照り輝く白い肌、ほっそりとした体つき、結い上げられたその残りが背に流されているおぐしの、滝のごとく豊かでつややかなところには、さすがにあてなる人らしい気品が匂い立っている。ゆえに、玄武もこの姫君に対して決して悪い印象は抱かなかった。それに、背に触れている小さなお手が温かい。


 不意に、肩越しに、玄武の目と姫君の目が合った。玄武は慌てて目を伏せたが、姫君は先ほどまでの悄然とした様子はどこへやら、たちまち歓声をあげて跳びはねながら玄武の正面へと回り込み、玄武の両手をとった。戸惑いつつも顔を上げた玄武を待っていたのは、花の咲き開いたようなまばゆい笑みであった。


「あなたが新しい玄武ね!」

「あっ、あの……」


 姫君の頭の向こうで、青龍が微笑みながらこちらに向かってこくんと頷いたのを玄武は見た。


「は、はい……」

「じゃあ、これで四神がみんな揃ったの、左大臣?!」

「ですから、何度も申し上げたではありませぬか!今日は新しく立たれた玄武殿の……!」

「嬉しい!これからよろしくね、玄武!」


 御簾の奥から左大臣がわめくのを遮って、京姫は明るく言う。なんとこの方はいとけない。兄の話に聞いたより、ずっと。この少女が京を守るかの京姫であるだなんて。それこそ周りの者がしっかりとお守りしなくてはいけないような。この方に、京は守れるのだろうか。京を襲いくる悪しき神、まがつ神から。そしてあたしはこの方をお守りできる……?あたしに本当にそんな力があるだなんて、とても思えない……

 京姫は突然ぱっと玄武の手を離して、思い出したように叫んだ。


神降かむさがりの儀なら、つえが必要じゃない!持ってこなくっちゃ……!」


 言うが早いが走り出し、庭の方へと飛び降りようとした姫君をすばやく優雅な動作で白虎が捕らえた。白虎は京姫を軽々と抱え上げて、暴れる姫君を見下ろして悠然と言った。


「仗なら女房たちが持って参りますよ。姫君はここでおとなしくしていらっしゃいませ」

「で、でも……!」

「また逃げ出そうだなんて、お考えではありますまいね?」


 京姫は図星を突かれたようにぎくりと固まった。芳野が溜息をついた。


「全くどうしようもない姫様ですこと……姫様、今日は予定がぎっしり詰まっておりますからね。まあ、それだというのにまだお着替えが済んでいらっしゃらないなんて。白虎殿、申し訳ありませんけれど姫様をこちらまでお連れくださいませぬか?またお逃げになると、わたくしなどはもうとても追いつけないのですもの」

「お安い御用です」


 姫君が白虎と乳母とに連れ去られてしまい、左大臣もまたその後を追ったので、四神の間には玄武と青龍と朱雀の三人だけが残された。それから、玄武の隅でまるでいないものであるかのように慎ましく振る舞っている雪乃と、幾人かの女房たちと。姫君の声が遠ざかって辺りが静かになると、玄武は思わずほうっと息をつきかけて、それからかしこくも皇女であらせられる朱雀の宮がまだ目の前にいらっしゃることを思い出して急いで口を覆った。そっと様子を窺うと、三宮はまるで玄武など気にならないという風に器用に扇を掲げて日の光を避けながら、庭の様子を打ち眺めている。まばたきさえゆるやかなその横顔は、なんだか絵に描かれたようにさえも見えた。この人は怒ったり泣いたりすることがあるのだろうかと、玄武は訝しんだ。


 その時、ぽんと肩を叩かれて玄武は目をしばたいた。いつの間にやら隣に歩み寄ってきていたのは青龍であった。青龍はもう堅苦しいところを全て抜け出してまるで古い友人でもあるかのようににっこりと笑いかけていた。


「緊張、してます?」

「あっ……」


 同じ年頃の女性と話すのは随分と久しぶりだとふと気がついた。幼いころには女童と一緒に遊んだものだけれど、継母の元に引き取られてからは友人を作るような機会に恵まれなかったから。口ごもるのも当たり前だ。だって、どんな風に話せばよいのかわからない。四神同士というのは一体どういう風に話せばよいのだろう。


「あたし、青龍です!最初はわからないことだらけだと思いますけど、困ったことがあったらなんでも言ってくださいね。いつでも力になりますから!」

「あ、ありがとうございます……」


 玄武がおどおどと返事をすると、青龍は元気づけるようにその肩を叩いた。会ったばかりの人に肩を叩かれるというのは(それも力強く)初めての経験であったが、玄武は決して悪い気はしなかった。むしろ、玄武はこの見ず知らずの少女にこんな風に親しく接してもらえることが嬉しかった。いつも傷つけられぬように、人を遠のけてきた玄武であるというのに。この人とは仲良くなれるかもしれないというかすかな希望が玄武のなかに萌しはじめた。

 それから青龍はちらりと御帳台の奥に目をやって、悪戯っぽく笑った。


「姫様があんまり子供っぽくて拍子抜けされたんじゃないですか?でも、あれだけで見限らないでくださいね。とてもお優しい方なんです。あたし、一緒に育ったからよくわかるんですけど。まあ、確かに少し手は焼かされるかな?しょっちゅう桜陵殿から脱走しようとするし。でも、なんていうのかな、その分きっと姫様のこと、好きになれると思います。その、あたしの言ってる意味、伝わるといいんですけど……」

「確かに、とてもおかわいらしい方だと思いますわ……」


 きっと将来は世にも美しい女人になるのであろうと、姫君の容貌を胸のうちによみがえらせながら、玄武は思う。あんな少女を絵にしたら楽しいだろう。もちろん誰にも秘密。きっと不敬だと叱られるだろうから。あの瞳はどんな風に描いたらよいだろう。よくよく観察してみよう。どうやら今日の節会は退屈しなくて済みそうだ。空想の楽しさのためばかりではなく、玄武の口元には知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。


 ところが、その時、朱雀が玄武の名を呼んだので、その微笑みはたちまち崩れ去った。なにか不用意な発言でもしたのでないかと恐れつつ、青龍の肩の奥に立ち尽くしている朱雀の方をこわごわ見遣ると、朱雀は流し目だけでつとこちらを向いて、口元に霞みのような微笑を漂わせながら、


「玄武、そう畏まらずに。ここではわたくしたちは皆対等よ。身分の差も長幼の差もないわ。わたくしたちは皆、姫様をお守りする四神なのだから」


 とゆるやかに言いのけて、また庭の方に目を投げかけた。

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