19-2 「ようこそ四神の間へ」

 …………高らかなかねの音。鼓を鳴らすくぐもったような音が響いて、玄武の到着が知らされた。玄武は古風な衣装の裾を慣れないながらに引き摺って、京姫のいます部屋のうちに足を踏み入れた。大丈夫、後ろには雪乃が付いている。玄武は自分の身が微かに震えていることに驚いた。こんなに緊張するだなんて。あたしがこんなにあがり症であっただなんて。今までは憂鬱ひとつ携えていればよかった。継母や姉たち、女房たちにどんな意地悪を言われても、憂鬱の中にもぐりこめば、聞こえてくる全て、投げこまれる全てもそのうちに溶け込んでしまうから。憂鬱のなかで呼吸をする術さえ知っていれば、それでよかった。けれども、今は違う。憂鬱は持ち込めなかった。かくも美しく、清浄な場所、かくも晴れ晴れしい舞台の上には。玄武はこれからどれほど傷つけられようとも、生身の体のまま懸命に微笑み続けなければならないのである。


 玄武を迎えるべく、座していた三人の乙女が立ち上がった。桜陵殿おうりょうでんに設けられた京姫と四神と限られた人間のみが立ち入りを許されるその部屋は、深窓の姫君たちが暮らしているむせ返るほどの闇と香りとが濃く織り成された奥まった部屋とは違って、半ば巻き上げられた御簾を潜り抜けて冬の朝日が入り込み、乙女たちの纏う古風な衣装や髪飾り、若やいだ皮膚の色をきらめかせていた。ここまでも不用心なのは、恐らく庇の間の向こうに見える池のある広大な庭には誰も入り込めぬという安心感のためで、庭の奥、雪や木々や橋や燈籠の間をよくよく透かして見てみると、桜陵殿を囲う石垣の鈍い色が望めるのであるが、玄武は目の前の乙女たちの姿に目を瞠るばかりで、今はそのことに気付くはずもない。


 玄武から向かって正面は、乙女たちの侍るところより一段と高くなっており、そこに京姫の御帳台が置かれている。御帳台の奥の空間は途中から御簾が遮っていて、どうやらその奥へはるか進むと姫君の起居する空間につながっているようである。この部屋のなかでただ御帳台のまわりばかりが、日差しから守られている。そこから下って、御帳台の内の人から見て右手側、玄武にとっての左手側、もっとも御帳台に近いところにいるのが朱雀、その手前に少し離れて立っているのが白虎と見える。嗜み深い皇女は、こんな折にも日差しを気にすると見えて、できるだけ日の光から身を遠ざけ、緋色の扇で左頬の辺りを覆っている。そのために顔はさだかに見えかねるけれども、父宮でいらっしゃる松枝上皇の愛情がとりわけ深いだけあって、いかにも端正きらきらしく見ゆる。おぐしは濃いくれないで、玄武も古い絵にしか見たことのないような古風な結い方をしている。お歳は確かもう二十四か五にもなろうか。しっとりと落ち着いてはいるけれど、同い年の雪乃のように苦労を重ねたという訳でもないので(もっとも三宮も母后や兄君たちに死に別れてはいるが)みずみずしさはそのままに、高貴な人ゆえの無関心さとある種の無謀さとをさらけ出しているように見えた。


 白虎は殿方と紛うばかりに背が高く、面差しもきりりとしていて、男のものとも女のものとも付かぬ神秘的な美しさを醸し出していた。金色の豊かな髪は波打ってその背を覆い、その目つきは勇ましくもどことなく沈痛な光を宿しており、固く引き結んだ唇は屹立する意志を示すとともに激しくせめぎ合う内部を押し隠そうとしているように見えた。そういえば、この人はかの一条家の出自で、幼少の折に惨劇に巻き込まれて、家族親族をいちどきに亡くしたのであった。玄武の目にはたちまちに明らかになった白虎の意固地な強がりは、そんな悲惨な過去に根差しているのかもしれなかった。


 御簾の方へと目を移すと、朱雀の同線上、その左肩からやや距離を置いて、庭から差す光を怖じることなくまともに頬に受けながら、玄武をじっと見つめている人がいる。そうだ、彼女が青龍なのだろう――確か自分より一つか二つばかり年下の少女だったはず。京姫の乳姉妹ちきょうだいで、『暁星記あかつきぼしのふみ』においてかの白梅はくばい帝に乳を含ませたとされるかの芦部媼あしべのおうなの末裔。無論、位ではこのうちの誰よりも劣るけれど、玄武の目から見た印象として、もっとも人間的に遜色のないのはこの少女のように見える。表情に妙な強張りや諦観がなくて、玄武を見つめる青い瞳は前を向いてすこやかで、立姿が伸びやかなのがいかにも好ましい。それでいて、この少女はどこかに愛嬌がある。まるで、菫の花のように清らかで愛らしいのである。


 三人の視線をいちどきに受けて、玄武は思わずたじろいだ。足を止めた玄武は、どうすべきかと戸惑って思わず面を伏せかけた。そんな玄武に投げかけられた声がある。


「玄武、ようこそ四神の間へ」


 青龍の声だろう。声はまだ少女のそれで、澄みきるように高くて明るい。青龍の声に合わせて、朱雀と白虎とが同時にこちらに向かって一礼したようである。玄武も慌てて礼を返した。


「あたしたちはあなたの来るのを、あなたと出会うのを待っていました……四神の魂は幾度も幾度も乙女の体に甦り、決して絶えることはありません。京姫がこの世におわしますかぎり。あたしたちの出会いはこれまで幾度も繰り返した再会に過ぎず、これよりずっと先に来るであろう別れもまた、再会の予兆に過ぎません」

「我らがまだまがつ神であった時……」


 白虎が青龍の言葉を継いだ。


「我らの暴虐は地を揺るがせ、天を燃やし、人々を慄かせた。そのおぞましき罪悪を目にされた清き神、天つ乙女は、神の御子・天有明星命あめのありあけぼしのみことを遣わされ、一本菊剣ひともとぎくのつるぎが我らの身を刺し貫いた。惨めな禽獣の姿をさらした我らに、京姫ただお一人が憐れみの涙をこぼされた」

「……わたくしたちの命はそのご恩に報いるために」


 朱雀が扇を左頬からおろして唱える。


「あさましき獣に過ぎぬわたくしたちを憐れんで、京姫は乙女の体を捧げてくださった……玄武よ、わたくしたちは姫様を永久とこしえにお守りすることを誓いました。時が過ぎ、世の人々が神代かみよを忘れようとも、わたくしたちだけはまた新たな乙女のうちに目覚める度に、いにしえの誓いを一層固く結び合ってきたのです。そしてまた、玄武、あなたが束の間の眠りから蘇りし今、わたくしたちはあなたの目覚めたことを心から喜び、そしてかの誓いを新たにしようと……」


 恐らく朱雀は全てを言い終えたのであった。「ここに集ったのです」の一言は、確かに玄武の耳にも届いたのだから。だが、朱雀の言葉の中途からだんだんと玄武の意識は朱雀の上を離れていって、やがて同じ意識の動きが、他の四神たちのなかにも控えていた女房たちの間にも起こってきていた。皆の意識が向かったのは、御帳台の奥の御簾の向こう、なんだかかしましい物音が近づいてくるところである。そして遂に朱雀が言い終えぬうちに、御簾の中から、なにか桜色の小さなものが飛び出してきて、御帳台のある段差を転がり落ち、朱雀の背中に飛びついたのである。驚いた朱雀が「きゃっ」と小さく悲鳴をあげた。


「ひ、姫様っ!」


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