第十九話 新玉
19-1 「お笑いなさいませ、御方さま」
たかが十七、されど十七。人は皆、まだお若いのにお気の毒なというけれど……
お気の毒と人に言われるとなんだか腹が立つのはなぜだろう。十七の少女は――実母に先立たれ、継母にいじめられ、父親に死なれ、家から追い立てられるように結婚し、夫を亡くすことができるくらいの年数を生きているその少女は――鏡のうちからこちらを見つめ返している陰鬱な瞳をそっと伏せて隠してしまうと、わずかな灯りばかりで髪を整え化粧を整え着るものを整えることの難しさ、嫌でもまた鏡を覗きこまねばならぬ憂鬱さに溜息をついた。とはいえ、あらかた仕上がっているのである。あと直さねばならぬのは……
「
少女の裾を正していた女房が背を丸めたままで言った。亡き夫の家から実家へと戻るときに少女を慕って(あるいは案じて)たった一人付いてきたのがこの
「そう暗い顔をなさってはなりません。今日はおめでたい日なのですから」
どうして分かったのだろう、と少女は――間もなく玄武と呼ばれることになる少女は訝しむ。こんな暗い部屋のなかで。それに、玄武は雪乃に背を向けて座っているというのに。
「御方さまは旦那様が亡くなってから少しもお元気にならない……と思ったら、ようやく元気になった……と思ったら、またふさぎこんでしまわれた」
不機嫌そうに睨みつけられるのも意に介さず、雪乃は屈みこんでいた背を伸ばして少女の肩の上で短く切りそろえた髪に指先で少し触れて、柊の髪飾りの位置をなおした。主人がそんな風に睨みつけるのは自分に対して気がねをしていない証拠である。それは、雪乃にとってとてもよいことであった。
「また難しいお顔をなさって。そんなお顔をなさっても雪乃は少しも怖くはありませんよ。でも、くれぐれも帝や姫様の前ではそんなお顔をなさりませんように」
「……子供じゃないんだから」
「だって、おいくつになってもお兄様ばかり慕っていらっしゃるのですもの」
少女の目の中で何かがはじけて、少女は咄嗟に顔をあげる。その瞬間、鏡の中の顔は子供のように頬を上気させていた。恥ずかしさと怒りで瞳を暗闇の中の子猫のように光らせて。その瞳を見た途端に、少女ははっとして顔を背けた。けれども、忠実な女房は決して見逃してはくれなかった。くすくすと雪乃の笑う軽やかな乾いた音が、少女の耳元で風車のようにくるくると回った。
「やはりまだまだですわね、御方さま。修業が足りませぬ」
と、雪乃は微笑の端を少し正して、
「御方さま、お忘れになってはなりませんよ。お兄様は、御方さまが玄武となられることをとても喜んでいらっしゃるのです」
「そんなことは……」
女主人の目が少し拗ねた。「わかってるもの」という言葉は、口元に引かれた薄い紅の下に吸い込まれていった。
「ですから、御方さまももっと誇りに思って、お役目を立派に務めなければ。もちろん、お兄様のお傍を離れることにはなりますけれど、ご一緒に住んでいたところで所詮お顔をあわせる機会は少ないのですから、これからの方がかえってたくさんお会いできるくらいですわ。内裏でもお会いできますし、四神ともなれば通常の女人が出席できないような宴の席でもお会いできるのですよ」
「でも……」
「お笑いなさいませ、御方さま。お心のうちはお察しいたしますわ。けれども、御方さまとてわかっていらっしゃいますでしょう?……どの道、ここには長くいられないのです。こうなってしまった方がいっそ幸福なのですよ。さあ、今日は喪が明けて初めての晴れの舞台でございます。お兄様を喜ばせてさしあげませ」
雪乃は若き主人を促して立たせると、降り積もった雪が朝日を照り返している方へと無理に引っ張っていって、格子戸を開け、御簾を高く巻き上げた。
白い雪あかりにまぶしげに目を細めながら、清涼な朝の冷気が
それにしても、なぜあたしの行く先々、悪意が待ち構えているのであろう。あたしを庇ってくれる方は、皆いなくなってしまう……父上も母上も、乳母も、殿も。
殿――夫には妻としての愛情はついに抱けなかったけれども、父親のように優しいその人柄と自分のような者をたった一人の妻とし、一身に尽くしてくれたその情愛には、深い感謝と敬愛を寄せてはいたのである。結婚は継母、つまり父大納言の北の方がほとんどひとりで取り仕切ってまとめてしまったようなもので、継娘の方では邪険に扱われ辛い思いをしてまでも大好きな兄の家に厄介になることが忍び難くて、承知したような次第であった。
結婚生活は平穏そのもので、実母に死に別れ継母の元に引き取られてからの苦しい日々から逃れられて、思いがけずほっと心安らぐことのできる時間だった。
それでも兄と離ればなれになってしまった悲しみは癒えることなく、嫁入り先の女房たちは、いつまで経っても主人に心から打ち解けることのない若い御方さまの心のうちを邪推して、どこぞに思いを交わした方でもいるのだろうとか、殿の目を盗んで逢瀬を果たしているに違いないとか、陰口を叩くので、女主人にはそれがつらかった。もっとも、女房たちがそんな風に悪口をいうのも彼女たちなりの忠義からなのだったが。というのも、中将は以前、恋人だったという人にひどい裏切り方をされたので、今度こそはお互いに愛し慈しみあって(そしてお子をたくさん授かって)幸福な生活を築いてほしいと女房たちは切実に願っていたらしい。ところが、やってきた奥方は殿の娘といってもおかしくないほどの若さであり、このことが第一に女房たちの希望と相容れなかった。第二に奥方のご気性が女房たちの気に入らなかった。殿よりうんとお若いのであればいっそのこと――多少傍目には慎みなくみえたとしても――明るく愛嬌を振りまいて、長いことうらさびしげであったこの家の空気を盛り立ててくれればよい。殿にも女房にも見境なく甘えかかって、あれこれとかわいいわがままでも言ってくれれば、こちらも気持ちが和むかもしれない。せっかくそう考えなおした矢先であったのに、あいにくとこの奥方は人に甘える術を知らなかった。明るく声をたてて笑うことも、誰かのやさしさに身をもたせかけることも、心のうちをすなおに言葉にすることも、とっくに忘れてしまっていた。
人の好い殿の目にはともかく、こういうことには殊に鋭い女房たちが、若い妻が夫に敬意以上の愛情を抱けないでいるのを見抜くのに、さして日数はいらなかった。朝ごとにすまなさそうな顔をして殿に目も向けられないでいる奥方、日がな一日絵ばかり描いている奥方、自分たちの顔色をこわごわ盗み見ている奥方……すべて女房たちの癇に障った。なるほど、奥方はこれまで不幸な身の上であったかもしれない。だが、この
少女は再び息をつく。吐息は白くくもって、雪明かりに溶け入ってみえなくなる。この短くも長い十七年の人生のうちで、本当に味方をしてくれたのは兄と雪乃のただ二人だけだった。少女の恐れは、この二人を失うことにある。特に兄上――父の北の方の御腹でありながら、側室腹である妹をかわいがって、面倒をみてくれた。夫を亡くして行き場をなくしたときも、自らの邸に来てもよいと言ってくれた。少女はその時、再び兄と同じ家で暮らせる喜びこそ噛みしめてこそいても、それが兄との新たな別れを呼び寄せることになろうとは思ってもみなかったのである……
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