18-6 「どうして私は……」
今宵こそはお泊まりになると思ったのに……琴をかき鳴らす指づかいがどことなく拗ねている。京姫は子供らしい苛立ち――それも苛立ちと呼んでよいのか定かでないもの――をかすかに覚えつつも、帝がつい先ほどまで奏でられていた旋律を辿りなおしている。それは明日の節会において、大勢の妓女たちの伴奏にあわせて京姫が舞う新年の祝いの舞である。今夜は帝の伴奏にあわせて散々舞い疲れたので、舞とくらべるとずいぶんと拙い琴の演奏の方に励んでいるのである。
主上はいつからか泊まってくださらなくなった……そのさびしさが並の女人のように悲哀へと深まらぬところが、この少女の幸福でもあり不幸でもあった。もっとも京姫としてはそのさびしさは紛うことなく悲しみなのであったが。共に夜更けまで琴や笛の合奏をしたり、女房に寝かしつけらながら几帳越しに声をかけあってみたり、自慢のお人形を見せびらかして後から芳野に「立派な大人の殿方にお人形のお話などするものではありません」と叱られてみたり。そんな無邪気な楽しみが失われてしまった悲しみである。
その悲しみを訴える時、姫は真摯であった。傍の者が呆れて物も言えなくなるほどに。姫の流す涙に微笑みかけ、その頭を撫でてくださるのは帝ただお一人だけであった――「姫、泣かないで。これが今生の別れというのではないのだから」。「貴女の涙をみると、私も辛いのです」という、帝のそのお言葉を信ずるがために、京姫はいつも辛い別れを耐え忍ぶのである。それに明日の節会でもお顔を合わせられるのであるし。
「貴女といると楽しくてつい夜更かしをしてしまいます。明日の節会で居眠りでもしたら、左大臣に叱られてしまうもの」
(主上はそう仰っていたけれど……)
京姫の指は先ほどから同じ動きばかり繰り返している。帝が見守られているような気がする。近く、けれども遠いところで。
(でも、だったらなんでこんな夜更けにいらっしゃったのだろう……特に急なお話があったという訳でもないし。私の舞が心配だったのかな。でも、毎年披露している舞だもの。去年は確かに壇に上がる時、ちょっとつまずいたけど)
京姫は何度繰り返しても間違えてしまう箇所をついに諦めて、曲を先に進めた。
(心なんて読む必要もないほど、お近くにいらっしゃったのに……)
「姫様、もう夜も遅うございます。悪しきものどもが琴の音を聞きつけてやってくるやもしれませんから……」
女房の言葉など耳に入らぬままの京姫は、さびしさが胸に押し寄せて呼吸ができなくなる、そのわずかな
(どうしてかな。主上のお心がわからない……ねぇ、主上。私たち、二人でいるときが一番幸せでしたよね。あの神饗の夜、主上がもう一人じゃないと言ってくださったときからずっと。私にはお父さまとお母さまがいなかった。あの夜、生まれて初めて芳野と離れてみて、私、自分が一人ぼっちだって気づいたんだ。主上には上皇さまも大后さまもいらっしゃるけど、でも、それでもさびしくて。二人でいればそんなさびしさも忘れられたのに。主上がお帰りになる姿をみると、なんだか置いてきぼりにされるみたいで苦しくなる。主上が遠くに行ってしまうみたい。私も連れてって、って叫びたくなるの。どうして……どうして私は……)
おのずから、琴の音がやんだ。
(どうして私はここを出てはいけないの……?)
京姫は琴を押しやって立ち上がると、どこへ行かれるのですという女房の言葉も捨て置いて、再び庇の方へと赴いて、雪の降る庭を眺めやった。暖かな部屋から急に冷たいところへ出てきたせいで、鼻先が冷えて痛み、涙が浮かんでくる。それでも京姫は燈籠の灯りばかりがその周囲にぼんやりとした光を投げかけているほかは、木々も石も雪も黒く塗りこめられた庭にじっと目を凝らして、どうにか見定めようとした。桜陵殿を囲う石垣の色を。
けれども、夜は石垣をもまたその深い色のなかに
「姫様、もうお庭遊びをしてはなりませぬ。お風邪を召しますゆえ」
京姫は、姫の体を分厚い上着で背中から
明日は
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