18-5 「青龍よ……姫様をお守りするのですよ」

 背後から呼びかけられて、芳野は振り返った。


「ああ、青龍、おまえですか」

「お加減が悪いの?」

「えぇ、すこし。でも主上がいらしているから、そろそろ戻らねば……」

「無理しちゃだめよ!明日も早いのに……!」


 乳母の口元がふとゆるむ。細殿の入り口からこちらを覗きこんでいるのは芦辺芳野あしべのよしのの実の娘、世に青龍と呼ばれる少女である。


 一体どういう神意であるのか、京姫は勿論のこと、四神たちにしても、高貴な家の令嬢のうちから見出されるのが通例である。当代の四神を見回してみても、まず朱雀は皇女であるし、白虎の実家である一条家の祖は三榊みさかき帝の皇子である。芦辺家の女たちは、『暁星記ぎょうせいき』に芦辺媼あしべのおうなの名が刻まれて以来、代々母なる妃に代わってその皇子みこたちに乳を含ませてきたけれども、その血筋のうちに、乳を含ませてさしあげた皇子たちのものは一滴たりとも流れていない。芦部家はどう足掻いたところでとある階級、とある世界から抜け出すことはできず、その血の中から四神の印が見つかるということは、これまでも例のないことであった。それが不思議にも、自分の娘の身には起こったのである。


「お母さま、お薬湯は飲んだの?」


 母の痩せた肩に手をかけて、少女は尋ねる。娘を見上げてみると、人より小柄な京姫に見慣れているせいか、すらりと背が高くて、表情も大人びていることがまず目につくのであった。まあ、我が娘の随分と頼もしいこと。浅葱あさぎ色の羽織に濃藍こいあいの袴を纏う体は日ごろの剣術の鍛錬のせいで女にしてはたくましく、張り切って健やかに見える。藍色の髪を二つに分けて薄水色の紐で結わえているのは、垂髪を好む高貴な女性たちのなかには見ない髪型であったけれども、それ故にいかにも活発そうだ。青い瞳は勝気にきらきらと輝き、すっと細筆を引いたような眉は涼しくかつ凛々しく、その表情は厳粛な沈黙に耐えうる一方で少女らしく目くるめく変化することもあり、少し気の利いた男性ならばからかってみたくなるような魅力がある。しかし、青龍の身持ちは清らかで、やや潔癖が過ぎるくらいであるから、母親もその点にかけては安心していた。ただ、頑なに異性を拒むのには他にも深い理由があるのだろうと、そのぐらいのことはさすがに察しがついてはいたが。


「いいえ……つい取り紛れていて」

「まったく、お母さまったら。いつもそれなんだから。一番大事なことを忘れてどうするんですかっ?!もう、あたしが飲ませて差し上げるから、それまで姫様のところに戻っちゃだめですよっ!」


 芳野は「はいはい」と返事をして、これではどちらが母親だか分からないわとも零し、微笑む。そうして微笑むうちから再び涙が流れ始める。すまないのは何よりも、実の娘に対してである。普段は姫様ばかり手を焼かされて、実の娘の方にはむしろ助けられてばかりにいるのだけれども、案ずるべくは本来この娘の方なのだ。姫様はまず路頭に迷われるということはあるまい。たとえ少しばかり子供っぽくて、頼りなくて、目を離すとすぐに桜陵殿おうりょうでんから逃げ出そうとするにしても。だが、この娘に関しては……四神としての務めを持っているからまだよいようなものの、両親に先立たれた娘の苦難というものはなかなかに忍び難いものであると世の例にも聞くし。情けないこと、母ひとり子ひとりというのは。


「明日の新玉あらたま節会せちえでは、新しくお立ちになった玄武が初めておつとめをなさるのでしょう?もうお会いになりましたか?」


 涙声を隠して芳野は尋ねる。芳野は病気のことばかりは娘に打ち明けたけれども、その病の何たるかはまだ伝えていなかった。


「いいえ。喪が明けるのを待たなきゃいけなかったから」

「先の玄武の宮の……?」

「じゃなくって、玄武の旦那様の」

「ああ……」


 新しく玄武に立ったのは、柊の大納言と呼ばれた方の側室が生んだ六の君だった。両親が亡くなったあとは、確か親子ほども年の離れたけやきの中将と呼ばれた方の元へ嫁いだと聞く。中将が亡くなったのが昨年の春だか一昨年の暮れであったというから、嫁いでわずか二年足らずで夫と死に別れたということになろう。ご実家の方でも亡き大納言の北の方がすっかり幅を利かせているというし、つくづく幸の薄い方である。大方、結婚の方も継母が勝手に取り決めたことなのであろう。勝手に取り決めるだなんて、そんな裁量が自分にあればよいのだが……芳野は目立たぬように首を振って物思いを振り払う。


 先代の玄武が亡くなった夜、思いがけずこの薄幸の女君にしるしが見出された。かの女君のお顔をうかがったことはないし、どういう事情のあるのかもさっぱり分からないけれど、とにかくかの方だってよほど驚かれたに違いないと芳野は思った。きっと途方にくれていらっしゃるのではないかしら。かつての私のように。


「……新しい玄武はおいくつなの?」

「十七ですって。仲よくできるといいんだけど。朱雀も白虎も優しいし大好きだけれど、二人とも大人の女性なんだもの。今度の方は歳が近いから、お話も合うんじゃないかなと思って」

「ふふ、一度人の奥方になったお方とお前とじゃあ歳が近いといっても難しいかもね」

「もう、お母さまったら……っ!」


 青龍は口ぶりだけで小さく怒りながら、薬湯やくとうをこぼさぬようにうつむけた顔をほのかに赤らめた。


「あたしは結婚なんてできません。四神としての務めがあるもの」

「でも前例はあるのでしょう?」

「それはまあ……でも大抵の殿方は嫌がるし。神に手を触れるのは恐れ多いって」

「だってお前が子を産まなければ、誰が芦辺家の役目を果たすというの?」


 娘の差し出す薬を受け取る母の声は、本気で責めているわけではないことのしるしにやわらかかった。青龍もわかっているのだろう。それでも生真面目なこの娘は批判を真摯に受け止めずにはいられないらしく、「それは……」と言ったきり困ったように口の中で何事かをつぶやき続けていた。


「まあ、まずはよい相手を見つけなくてはね」


 芳野は明るく取り仕切った。


「お父さまのような方をお探しなさい。お父さまは立派な方でした。決して美男子ではなかったけれど、本当にお心の優しい、真面目な方だったのですよ。だからね、青龍、見かけの美しさに惑わされてはなりません。身分や生まれにも。高貴な方に愛されて浮かれていても、あくる日には見捨てられてしまう。そうした例もいくらでもあるのだから。人柄をよく見極めるのです。まあ、お前のことだから心配はないと思うけれど……」


 いつになく暢気そうにそんなことを語りながら薬湯をすする母親の横顔を、青龍はどことなくさびしそうな、不安そうな表情で眺めていた。どうしたのかと尋ねてやらなければいけないと思っていても、湯を口元に運ぶ手が震えそうになるから、それも出来かねて。薄闇の中に、ほのかな湯気の向こうに、見慣れた娘の顔がこの時ばかりは神々しささえも感じさせる、若さと華やぎを持ってひらめいて見える。世を離れていく者の目に、世界はなんと美しく見えることであろう。


「お母さま……」

「なんです?」


 さあ、そろそろ姫様の元に戻らねば、と。いかにもそんな風に考えているように見せかけようとして、芳野は尋ね返した。けれども、少し返事が早過ぎたかもしれない。


「お母さまのお病気は……その……治るの、ですか?」

「なんです急に改まって」

「だって、なんだか前よりお顔色が悪いような……それに前よりずっと痩せて……!」


 潮時であった。芳野は目線を娘の方から敢えて逸らしてゆるやかに立ち上がると、白いものの目立ちはじめてきた長い髪を肩の上から取りのけて背に流し、細殿を発とうとした。青龍は黙って後を付いてきた。母と娘の沈黙に、琴の音やら、歌声やら、女房たちの笑い騒ぐ声やらが、夢のなごりのように届いてきて、二人の着るものの生地に吸い込まれて消えた。


 

 不意に立ち止まった乳母は、ついに振り返ることができないで言った。


「青龍よ……姫様をお守りするのですよ。どんな時も」

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