18-4 「主上も一人ぼっちなのですね」
時間さえをも溶かし込んでしまったような長い静寂を、姫君が破られた。鈴のような可憐なお声で。口ずさまれたのは乳母が姫君を寝かしつけるときに歌う子守唄であった。
「月眠り、星眠り、草眠る。
「……姫、子守唄は寝かしつける者が歌うのですよ。眠る者が歌うものではありますまい」
帝がおかしそうに、けれども優しく仰ると、姫君は歌を口ずさんでいたときのなにか魅入られたような表情をそのままに、
「主上、私のお父さまとお母さまはどこにいるのでしょう?」
とつぶやかれた。
「急にどうしたのですか?」
「左大臣が言っていたでしょう?私にはお父さまがいないと……私、乳母はいるけれど、お父さまとお母さまがいないって、さっき気づいたんです」
「……いずれわかりますよ。姫が大人になられたら」
帝は静かに仰った。鷹揚に聞えるように努めていらっしゃるような、そんな響きがどこかにあった。姫君は少しためらったあとで、
「主上もひとりぼっちなのですね」
と言って、口を閉ざされたままでいた。
帝は長いことその意味を受け取りかねて逡巡していらっしゃった。姫君がそれきりそのいかにも意味ありげな言葉について説明を申し上げないとあって、帝のお心は大いに揺れていらっしゃる。そうした帝のお心のありさまさえをも、姫君は聞き、あるいは感じ、あるいは見つめていたのである。生まれながらに与えられた不思議な力で以って。七年という長い歳月にわたる物忌のうちに封じてきたはずの、封じなければならなかったはずの力で以って。乳母が人に忌み嫌われるからと、なによりも姫君自身を傷つけることになるからと、殊に厳しく禁じられた力で以って。帝はついに
「姫、それはどういう意味ですか?」
「…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」
姫君の声が不思議と幼い少女特有の高さとか細さを失って薄闇のうちに沈むとき、帝の瞳の中ではぜるものがあった。帝は身を逸らして、姫君から離れようとなさったのかもしれなかった。帝ご自身のお心をすっかりそのまま、帝ご自身のお声と抑揚で語られたこの少女の霊感に慄いて。そんな帝に縋りつかれたときの姫君はすでに元の声音と幼さとを取り戻していた。
「ごめんなさいっ……!」
姫の目と、帝の目とがあった。お二人は共に怯えられていた。はたして何に……?こんなにも若く幼く美しい、お互いのお姿に?それとも澄んだ瞳に映り込んだご自身の姿に?
凍りついたままのお二人であった。姫君の瞳に映った影が温かく濡れて歪むまで。我に返られた帝が戸惑うように見下ろすなか、姫は今宵二度目となる涙を隠そうと、顔を背けられた。それでもなお、帝の袖を掴まれたお手は離されない。そうして、片手で帝に縋られたまま、こぼれ落ちる涙を懸命に片手だけで拭われようとする、そのせわしなさ。声をあげまいとこらえているけれど、しゃくりあげる度に作り物のように華奢な肩が跳ねるのは隠し切れないでいらっしゃる。そのいじらしさ。猛々しい
その瞳のうちにはぜたものを、帝は少し長い瞬きの間に白い瞼の裏側にしまわれたようであった。袖を掴んでいる姫君のお手をとられ、浮かしかけた腰を床になおし、姫君を抱き寄せるというよりは、まるでご自身を姫君の方に押し戻そうとするかのように、帝は姫を抱きしめられる。
「姫……」
「ごめんなさい、主上……!」
「でも、あなたは一体なぜ……」
「乳母にだめって言われたのにっ……わたし、ひ、人の気持ちがわかっちゃうんです……っ!もう私のこと、おきらいになったでしょう……?」
帝は姫君の樺色の髪のうちに手を差し入れられて、涙で頬に張りついた髪を払いながら、
やがて涙の雫も冷えた頃、姫君がぼやけた視界のうちに見たのは
「泣かないで、姫。まったく困った姫ですね……こんな時ばかりはわたくしの気持ちはお分かりにならないというのは。わたくしはあなたを嫌いになどなりません。嘘だと思うのなら、私の胸に耳をあててごらんなさい。この世のなによりも
「
「これは痛いところを突かれてしまった。ねぇ、芳野、どうしよう?」
「まったく、主上は姫様に甘すぎですわ。これでは芳野の世話した甲斐がございませぬ」
帝と姫君の仲睦まじいご様子に、乳母の口にも他愛ない冗談などがついのぼってくる。けれども、芳野は決して傍目に映るほど心くつろいでいたわけではない。姫君と対峙するとき、なにか茫漠とした、とらえようもない不安が、霧のように不確かながらにその胸の奥にわだかまっている。母親というものの心の習いで……寄り添い合う帝と姫君は、神饗祭の御寝所の几帳のうちから七年の年月を経た今までまるで姿勢を違えない。
お二人の愛は彫像のようだと芳野は思う。あまりに早く伸びるのでしょっちゅう鋏を入れねばならず、そのことを疎んだ時期さえもある姫君の豊かなお
そうして、芳野を不安にさせる
もちろん、彫像が動き出せば、世界はひっくり返りかねないけれど……
(姫様はお幸せなのだ。これ以上なにを望むことがあるというの……?)
芳野は楽しげに言葉を交わすお二人のそばをそっと離れて、今は帝の歓待に多くの女房が出尽くしているがゆえに、人気のない
今は亡き
あぁ……!と芳野は胸の中でひそかに嘆いた。咳のし過ぎで喉や胸のあたりが熱を持って痛みはじめる。それでも涙が滲んでくるのは咳のせいばかりではない。屈みこんだ芳野は、口元を覆っていた袖を今度は目元に充てた。袖口は咳を吸い込んで温かく湿っていて、芳野は震える指先の冷たいのを感じるにつけても体のどこにこんな熱をため込んでいたのか、一体何を燃やしてぞ……と口惜しくなる。
姫君の麗しき未来を予言して、玄武の宮は
そろそろ戻らねば……主上も姫様も不審に思うであろうから。水を少し口に含んで、ぐっと喉を締めつけるようにすると、咳の発作はおさまった。手を濡らしてよく絞った布で丁寧に拭って、芳野は灯りのもとで袖口の汚れていないことを
「お母さま?」
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