18-3 「……長い夜になりそうですね、姫」
「姫」
帝が呼びかけられたので、居住まいを正すためにうつむいていた姫君は、
「お疲れですか?」
「い、いいえ……」
そういうそばから姫君はあくびをこぼして、もみじのような両の手で口元を覆いながら帝からあわてて顔をそむけられた。帝はくすりと笑われた。
その時、几帳のうちに二つの大きな影が差して、姫君ははっとした。左大臣と右大臣とが女房を三人ばかり従えて憚りながらも入ってくるところであった。身を固くする姫君に、帝だけが眼差しでなにも怖がらなくてもよいのだと諭してくださった。姫君が小さなお手を膝の上に並べて待っていると、右大臣と左大臣とは、それぞれが帝と京姫の正面にくるように、八重畳の足の方に少し距離をおきながらも揃って座した。その後ろに白い袿姿の三人の女房たちが居並んだ。そうして、いずれの者どもも帝と京姫を前に深々と頭を下げた。
「左大臣」
姫君は瞠っている瞳の右隣で、やわらかなお声が凛と引き締まるのを見た気がした。
「姫君はお疲れでいらっしゃる。格式ばったことはできるだけ手短にすませたい」
「し、しかし……」
「いいえ、主上の仰せのとおりにいたしましょう」
右大臣がなにかと古式どおりにやらねば済まぬ老人を遮って、そっと目配せした。京姫は二人の大臣の目が自分の上にちらりと注がれるのを感じてどぎまぎされた。お若い帝のことはともかくとして、幼い姫君にとって大人の男性というものは到底数時間のうちに慣れるようなものではなかった。
「姫様には慣れぬこと続き。その上、今宵は眠ってはならぬとあってはなんとも酷なこと。なによりも、明日の
「姫、怖がられることはありませんよ。この者たちは姫様にお仕えする者たちなのです。左大臣はこれよりのち、あなたの後見人となられる方なのですよ」
「こう……けんにん?」
まだ幾分緊張したご様子で首を傾げられる姫君に、左大臣は畏まって灰色の頭を下げた。
「左様でございます、姫様。えー、慣例におきましては、娘の婚礼の儀にあたっては男親が添うものではございますが、姫様は父君がいらっしゃらないため、畏れ多くもわたくしめが姫様の後見人となり、この度の儀式の付き添いを務めさせていただく所存にございます。また、今後におきましては、父君の代理として姫様のお世話をさせていただく次第でございます」
「左大臣は言葉が難しすぎる」
と、帝はお笑いになって、
「姫、この左大臣がこれからあなたの面倒をみてくれますからね。なにかと頼りにしてよいのですよ。お顔は少し怖いけれど、心根は優しいのだから」
「でも、乳母は……?」
姫君は左大臣と帝とを交互に見比べながら不安な面持ちで尋ねられる。不安なのは帝の宣ったように単に左大臣の顔が怖いばかりではない。
「芳野のことですか?もちろん芳野も今までと変わりなくお仕えしますから安心なさい。それから、姫、右大臣は私の
見るからに有能そうな若き右大臣は、お辞儀をする態度ひとつにつけてもへりくだったところがまるでなく、二十代半ばを過ぎて、勢いとひたむきさで駆け抜けていく少年期の最後の余波をようよう脱しはじめてきたことがうかがえた。その早熟さは、幼い姫君にとってみればやや素っ気ないようで取っ付きにくいような気がしたが、姫君が一段とこの男に対して物怖じしてしまうのは、そうして研磨された滑らかな
それから京姫は右大臣の黒髪の上から老人の白髪頭の上に目を移される。こちらの方も、帝のおっしゃるとおり、いかめしい顔つきではあるけれどどうにかすれば
ごく簡略化された儀式が終わった。盃を交わしたお二人に大層丁重に祝福の言葉を述べて、左大臣と右大臣とは退室していった。女房ひとりが後に残って、これから初冬の長い夜をまんじりともせずに過ごさねばならぬお二人のお世話をするべく、お傍に控えていた。気づまりな儀式のあとで、帝はようやくほうっと息をつかれて脇息を引き寄せると、そちらに
「……長い夜になりそうですね、姫」
姫君は小さなお声で「はい」とだけ申し上げた。
「日の昇るまで……おかわいそうに。あなたはさぞかし眠いことでしょうね。なにか面白いお話でも聞かせて差し上げましょうか」
「おもしろいお話……?」
「昔々、あるところに、とてもきれいなお姫様がいました……」
そうして帝の語られた数々のお話に、姫君はすっかり夢中になって聞きほれていた。帝は美しいお姫さまが継母にいじめられるなどの苦難にあって最後はとても素敵な貴人と結ばれるようなお話をいくつかしたあとに、今度は少し怖い鬼や
帝がふと口を噤まれたので、お付きの女房がほっとしていると姫君がふしぎそうに尋ねられた。
「主上、お話はもうおしまいですか?」
帝はさびしげに笑われた。そのお顔を、姫君はそれからのち、何年経っても決して忘れることができなかった。
「えぇ、姫。私はもう知っているかぎりのお話をしてしまいました。あなたに聞かせてあげられるお話は、私にはもうないのです……」
姫君は残念そうに八重畳の上に突いていた肘を引っ込めて、またお行儀よく膝の上に並べられた。そうしてお二人が黙ってしまうと、先ほどまで不幸な心優しいお姫様や、勇敢な貴公子や、おどろおどろしい怪物たちが賑々しく群れつどっていた部屋の薄闇は、途端に気味が悪いほどの静まり返ってしまった。几帳の向こうで女房たちが身じろぎする衣擦れの音さえ聞こえてこない。枕元の御燈もまた音もなく燃え立つばかりである。帝もお話のし通しであったからさすがにお疲れになったとみえて、脇息にかけた方の袖で口元を休めるように覆われながら、じっと目を床の上に据えて何事か考えていらっしゃるご様子であった。
姫君はそうしてうつむいていらっしゃるうちに、急に眠気の押し寄せてきたのを感じられて懸命に首を横に振ってみた。今日は眠ってはいけないのだ。眠ると恐ろしい神に取り憑かれてしまうから……恐ろしい神ってどんなのかしら?姫君は眠いのを堪えるために必死にお考えになった。もしや、先ほど帝がお話になった、角の生えて目のたくさんある鬼や人を食べてしまうという大きな口を持った怪物のようなのが、襲ってくるのではないかしら。
途端に姫君は眠気も飛んで、身震いなさった。そのご様子に気付かれたのは帝である。
「姫、寒いのですか?」
「い、いいえ……」
それでもなお、帝は心配そうに、
「お風邪でも召されたら困りますよ。何か上に着るものをとってこさせましょうか」
「ちがうのです、主上……ただ、うっかりねむってしまって、先ほどのおにやお化けがおそってきたらどうしようかと思ったのです。そうしたら急にこわくなってしまったんですもの……!」
話していくうちに次第に涙目になってくる姫君に、帝は一瞬だけきょとんとした顔をなさってからふっと笑われて、前の方に少しいざり寄られる。帝は手を伸ばされて、姫君の頭をそっと撫で、お顔を上げられた姫君の頬に触れられた。帝の手は温かかった。姫君は初めて触れる殿方の手のぬくもりと、そして自分の頬に投げかけられている影の包み込まれるような大きさに驚き、また安堵を覚えた。帝は親指で姫君のきらきらと光る涙のしずくを拭われた。
「姫、あなたを怖がらせてしまいましたね。悪いことをいたしました。でも、姫、安心してください。たとえ悪い神々がやってきても私があなたを守ってさしあげます」
「でも、乳母はわたしが主上をおまもりするのだって……」
「おやおや。どうしてあなたに私が守れるというのです?そんな風に泣いていらっしゃるあなたに?」
「もうっ、主上……!」
恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にする姫君に帝は今度こそ声をたててお笑いになった。そのお声に驚いたのは、お付きの女房ばかりではなく、几帳のまわりを取り囲んでいる者どもも同様であったらしい。と、帝はすらりと立ち上がられて、八重畳をまわられると、姫君の隣に腰を降ろされた。さすがにお付きの女房が止めようとするけれども、帝は少しもかまわずに幼い姫の肩を自らの方へとお引き寄せになった。姫君も思わずびっくりして目を
「主上……?」
「大丈夫。悪い神が来てもわたくしが追い払ってさしあげます。あなたがくださった
帝のお声がくぐもって聞こえてくるのは、姫君のお耳が帝の胸のあたりにぴたりと寄せられているせいであろう。帝のお声ばかりではない。伝わってくるのは帝の温度、そのお優しさ、その体の奥で響いているゆるやかな心臓の音――それから……姫君ははっと目を閉じた。だめ、聞いてはいけない。乳母にだめだと言われたのだから……!
「主上、なんということを仰ります……!この神饗の夜に、眠ることなどあいなりませぬ。お上とてご存知のはずでは……!」
「えぇ。だから、私は眠らないよ。姫が眠るんだ。こんな小さな子を眠らせずにいるなんて、こんな
「しかし、主上、なにごとも古くからのしきたりでございますから……」
「しきたりさえ守っていれば神意に適うと思うのは真の信心ではない。今宵、姫は天つ乙女のために立派に務められた。それだけでも天つ乙女は十分に感心していらっしゃるだろう。姫は明日も難しい儀式をこなさなければならないのだし、暁までの短い間まどろんだところで、天つ神とて不届きな者とは思うまい。姫が明日また立派に舞われれば、人々も心打たれ、天つ乙女を敬い崇める心も一層深まるに違いないのだ。そのために姫君を憩わせて差し上げようと思う心こそ信心なのだ……さあ、お前も退がってよろしい。あとは私が姫をお守りするのだから」
十二歳の少年とは思えぬ弁舌に女房はすっかりたじろいでしまってそれでも立ち去りかねているのを、帝もあまり意志の強固な方ではないから特に咎めだてはされなかった。お手で以って姫君の髪を梳き、早く寝つけるようにとおん自らの上着を一枚貸して差し上げるけれども、姫君はお化けのことなど思い出したところから眠気など失せてしまっているので、こんな風になっては一層目が冴えてしまわれるのであった。
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