18-2 「決して眠ってはなりませぬ」

 正殿に着くころには、さすがに姫も辺りに立ち込める厳粛な空気に気圧されて、乳母相手に駄々をこねる元気も失っていた。先導の御燈に続いて、姫君は正殿の南側にある入り口から廊下を渡って、帝のまします神饗かむあえの間に辿り着いたのである。


 姫君が到着したことを知らせる鉦の音とともに、神饗の間より二人の男が姿を現して、姫君を迎えた。一人は中年の男性で、灰色の髪と髭が角ばった顔を縁どっていて、顔の中央には大きな獅子鼻がくっついており、太い眉の下の目つきなどいかにも厳しそうな顔立ちであった。もう一人は青年で、中年の男性よりいくらか背が高く、体つきなどはがっしりしている。黒々とした髪やよく通った鼻筋、意志の強そうな三白眼の中の黒い瞳に、駿馬のような力が漲っていた。顔立ちは精悍で、若々しいながらに頼りがいがありそうだ。当世でもてはやされるような女と見まがうばかりに麗しい殿方、というのではないけれど、いずれも雄々しい偉丈夫でありながら、その顔つきから些細な動きまでもが洗練されているのは、さすがに立派な身分の方々である。殿方が姿を現すと、朱雀と玄武とはそれぞれに相応しい色の被衣かつぎで顔を覆い隠した。男さながらに振る舞う白虎と、もう俗世を捨てた青龍のおうなは恐れることなく顔をさらしていた。


「お待ち申しておりました」


 と、二人の男性は姫君の前にひざまずいた。二人の影が歪んだのは、朱雀がさっと灯りのあたる範囲から顔を背けたために、手に提げていた燈籠が揺れたためであった。


「姫様、本来ならばご挨拶を申し上げるべきところですが、神饗の夜は刻一刻と更けて参りました。ここに左大臣・九条門松くじょうかどまつが祝いのことばを捧げましょうぞ」

「右大臣・柏木武かしわぎたけるが祝いの詞を」


 二人は再び深くこうべを垂れた。姫君は左大臣と右大臣に伴われて、いよいよ神饗の間へと踏み入れた。京姫としては、これより先は何一つ粗相なく振る舞われたのだと語り継いでほしいところなのだが、今でも時折乳母や女房にからかわれて真っ赤になって怒ることに、いよいよ神饗の間に踏み入れようとしたまさにこの時、自分の裳の裾を踏みつけて転んでしまった、ということがあった。親友であり乳姉妹ちしまいでもある青龍までもが、この場にいた訳でもないのに姫を笑うけれども、京姫の身にしてみれば、そもそもあの時はまだ七つの娘であったのだし、それに生まれて初めて男性というものを見たのだから動揺したところで無理もない、それより、白虎に助け起こされたあとは、泣きもせずに、何事もなかったかのように左大臣に従って歩み出したのだからむしろそちらの方をほめてくれてもいいはずだという不満がある。



「お手がすっかり冷えていますね」


 帝はさわやかにそう言って、ご自分の袖のうちに京姫の手を引き入れた。それが少しも色事めいて見えないのは、若葉のように初々しくいらっしゃるそのたたずまい、やわらかな物腰や兄のような物の言い方のためであろう。帝はまったく京姫にとって実の兄のようなお方である。いつも温和で、物静かで、聡明で、決して軽はずみなまねをなさることはない。神饗の間で、姫君を迎え入れ、姫を労わられたあの夜も、帝は落ち着いた大人の男性のように見えた。その時、帝はまだ十二であって、今の京姫よりもお若かったのだ。


「庭の灯りを見ておりました……私の最初の神饗祭の夜を思い出して」


 色恋を知らぬ京姫はなんの屈託もなく帝の肩に身を預けることができた。この夏についに月のものを見た姫君であったが、その意味するところについてはほとんど教えられていなかったのだ。帝は袖のうちで京姫の手をさすって温めながら、懐かしげに、


「あの夜、あなたは神饗の間に入る前に転んだのでしたね。覚えていらっしゃいますか?」


 とおっしゃると、京姫はみるみるうちに赤くなって、


「どうして主上おかみまでもがいつまでもそのことを口にされますの?!芳野や女房もいつもからかうんです!私はからかわれ飽きました!」

「まあ、それは悪いことを言いましたね」


 帝の鷹揚な返事に、部屋の隅に控えている女房たちもくすくすと笑った。


「では、御寝所ごしんじょで眠ってしまって叱られたことは?」

「あ、あれは主上だって同罪ではありませんか……?!」



 後にも先にも、帝と京姫が一つ所で御寝ぎょしあそばせたのは、あの神饗祭の一夜だけであった。姫君が一本菊ひともとぎくの剣を帝に奉って神饗の間での長い婚礼の儀式が終わり、続いて天つ乙女に捧げられる長い祝詞を帝が一言も誤らずに述べ終わられた後で、姫君が先つ神のなかでひとりこの世にとどまられた天つ乙女をお慰めする舞をまわれた。そののちに、神饗と名がつく通り、神への饗応の儀となって、帝が新穀を捧げられ、新婚の夫婦は玉藻の国の至る所より献上され、調理された御食みけつ物をまず祖霊に勧め、自らもほんの少し箸をつけられた。諸所を省いたり短縮したりすることで、なんとか定め通りの時間に神饗の間での儀式は終わり、帝と姫君は天つ乙女の御寝所へと通されたのであった。


 帝と姫君とは御寝所へ通される前にそれぞれ御寝所に入る前に、その東と西とに設えられた縦長の狭い部屋へと連れていかれて、婚礼の衣装を解かれ、姫君にとっては嬉しいことにかもじも外してもらえた。青龍が婚礼の衣装を脱がせて、固く結んだ神服かんみその緒の緩んでいないことを確かめている間、乳母は姫君の髪をいとおしげに梳いていた。そのさやさやという音が、疲労のせいで少しぼんやりしている姫君の耳には心地よく聞こえた。このままいつも通りの部屋で、いつも通り乳母に付き添われ、朝までぐっすりと眠ることができたなら、どんなによいだろう……


「姫様」


 と、着替えが終わると、青龍が姫君の前に居直って、改まったように、けれども優しい口調で諭した。


「これから姫様は畏れ多くも天つ乙女の御寝所に入られます。お静かになさって、日ののぼるまでは決して眠ってはなりませぬ。お分かりになりましたか?」


 幼い姫君にとって、それはひどく耐えがたいことのように思われた。今がほっと憩えるだけに、ひとしおに。


 着替えが終わって、姫君の髪を離れる乳母の指が、湿り気を帯びているかのように、どことなく離れがたそうな名残惜しさを奏で終えるのを聞いて、いよいよそれが最後の先導の務めとなる朱雀が、姫君を御寝所へと導いた。神饗の間が眩いほど明るかったせいか、灯りにとぼしい御寝所は腕を伸ばした先さえ見定めがたいほどに濃く闇がたちこめているようだった。帝はすでにお待ちになっていた。朱雀の掲げる御燈が闇を薙いで、神饗の間では緊張しながらもそっと額づきながら上目遣いでうかがった、あるいは儀式の途中にそっと横目を送ってみて拝見した帝のご尊顔を、ほのかに浮かび上がらせたのが、姫君の目に見えた。お優しい帝だと、このときからすでに姫君は思われていた。白い祭服を纏われたそのお姿。少年らしいさらさらとした黒いお髪は切りそろえた今となっても童形のみずらにしていたころの面影を漂わせるようである。格別な美男子というほどではないけれども、一重の目や口元にはいかにも穏やかな表情が絶えず湛えられていて、色白のほっそりとしたお顔つきやすっと通っているけれども決して仰々しくない鼻の稜線などに、やんごとなきお方の尊さがほのめかされている。話に聞いている限りでは近づきがたいほどの気品高い方だと思われたのに、お優しい性分をつい隠すことのできないために、わずか七つの姫君さえもが思わずほほえみかえしてしまうほど、親しみやすさを感じさせるお方である。


 帝と姫とはそれぞれ北と南とから御寝所に入られる。部屋の中央は四方から几帳で区切られ、そのうちに形ばかりの八重畳やえだたみが敷かれていた。東側に枕を向けたその八重畳の北側、几帳のうちに身を滑らせた姫君から見ると八重畳の向こう側に、帝は白い祭服をごゆるりと纏って座っていらっしゃった。姫君は朱雀に導かれるまま、八重畳の手前、南側に座った。それを見届けると朱雀は大事に抱えてきた御燈を枕元に捧げて、静かにこうべを垂れた。


「姉上」


 去ろうとする朱雀を帝はそっと呼び止められた。腹違いの姉宮はためらいつつもそっと振り返って、つつましくも目を伏せてお返事申し上げる。


「はい、主上……」

「そう畏まらないでください、姉上。ただお顔をあわせるのが、あまりにもお久しぶりだったものだから」

「……主上、ここは畏れ多くも天つ乙女の御寝所でございますから」

「父上はお元気でいらっしゃいますか?」


 父の名を聞いた瞬間、朱雀の目が不思議な光を宿したのを幼い姫君は見た気がした。朱雀の堅苦しい面持ちが少しほどけて、


「……えぇ。主上を大層褒めていらっしゃいますわ。お若いのに立派に振る舞っていらっしゃると」

「それは身に余る光栄です……お引き留めして申し訳ありません、姉上。せっかく褒めてくださったのに、こんな風に姉上を困らせて、父上に怒られてしまうかもしれませんね。どうか内緒にしておいてくださいな」

「えぇ、もちろん……」


 と、朱雀は袖で口元を覆いながら、目元ばかりで微笑んで、


「父上は……主上のことを案じておいでですわ」


 とだけ言い残して、静かに退がっていった。長い裳が床を摺る微かな音は、帝が口を開かれるまでにわずかな沈黙にみやびな水脈みおを引いていった。

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