第十八話 夜伽

18-1 「なにを考えているの、姫?」


 神懸かむがかりされた姫君が目を覚まされたのはそれから半時間ほども経ったあとのことだった。帝の使者が白虎殿に遣わされて、まだ魂振りの儀式が終わっていないのだと言い張る女房たちに大げさに驚いてみせた。


「しかし、もうどれほど定められた時間を過ぎているか、そなたたちはご存じか」

「えぇ、えぇ。よく分かっておりますけれど、何しろ姫様がまだ幼いものですから……」


 姫君が目を覚まされたあとも、周囲の者たちは骨を折った。姫君はかつてないほど不機嫌なご様子で、乱れたおぐしやお衣装やお化粧をなおそうとする女房たちが気を引き立たせようと賑やかに振る舞っても、むすっと黙りこんでお返事ひとつなさらない。形の方はどうにか整ったけれども、ご機嫌の方はますます悪くなっていって、白虎が優しく声をかけてもつんとそっぽを向くありさまである。こんな状態で帝の前に出られたら大変だと、とうとう乳母が歩み寄ってお抱き申し上げると、姫君は途端に堰を切ったようにしゃべり始められる。


「乳母、わたし帰る!もうねむいんだもの。それにのどもかわいたし、つかれたし、頭の上のこれは重いし、ちっともたのしいことなんてないじゃない。おかしなんてもういらない。帰ろうったら……ねぇ!」


 いくらなだめすかしても、幼い少女は駄々をこねるばかりである。乳母はそんな姫君にすっかり手を焼きながら、同時に安堵もしていた。というのは、天つ乙女が姫君に乗り移ったときの様子が、あまりにも凛々しく、神々しく、近づきがたいほどに高貴であったので、袖のうちで大切に大切に育て上げた玉のような幼子――ややもすれば実の娘よりもいとおしい姫君が、いなくなってしまったかのように思われたのだ。天つ乙女のみ魂を宿した立派な京姫として世の人に仰がれることは無論願ってもいないことではあるけれど、けれども乳母は、育てた者のわがままとして、やはり自分がかわいがったままの、自分一人の姫君であってほしいともひそかに願っていた。だからこそ、こうして手が焼ければ焼けるほどに、姫君への愛情がそのほかの雑多な感情に打ち勝ってくるのがしみじみと感じられるのである。ましてや、あの思い出すのも厭わしい出来事の後とあっては。


 そうこうするうちに、正殿から二度目の使者が遣わされた。通例なら、これから朱雀殿に戻ってそこから中庭を過ぎり、玄武殿の門を通って正殿へ向かうところを、今回は特別に白虎殿より直接正殿へ来るようにとの仰せであった。四神たちは明らかに当惑していたが、姫君は結局否応なくお駕籠かごに乗せられる形になって、正殿へと運ばれていった…………



 その時の心地を、今も覚えているような気がする。こうして、庭の石灯籠の灯りをぼんやりと眺めていると――駕籠のうちから、幼心にも気だるさを覚えつつ打ち眺めていた夜の闇に点々と燎火にわびが浮かんでいる様子があやしげに心を誘い出すように思われて、姫君は目を瞑られたのであった。雪は小やみになって、ただ寒さだけがひとしおに感じられ、姫君は小さな手でこれまた雛のような華奢な肩を、気休め程度に撫でてみた。お付きの女たちがかねやら鼓やら鈴やらを高く鳴らして、まるで夢のなかの出来事のような……


「なにを考えているの、姫?」


 背後からやさしい声がして、柱に身をもたせかけて物思いに耽っていた少女ははっと身を翻した。帝は笑って、立ち上がろうとする姫君をとどめると、その頭に手をあてて優しく撫でられた。七つのころとさほど変わらぬように見える小鳥のような頭からは、今や樺色の髪がかもじの助けを借りずとも豊かに流れて、ゆるやかに波打ちながらも腰まで届くいきおいである。ぱっちりと見開かれた翡翠色の瞳は、こんな風に驚いたときなどは幼いころそのまま。半開きになった桜色の薄い唇や、冷気のためにほのかに染まった頬、それに細い首筋の線やなだらかな肩などは、さすがに月日の経つうちに色めいてきて、柱に触れている手の甲などもしっとりとした円みを帯びつつあるけれど、けれども女人の艶やかさというにはまだほど遠い。よくも悪くも、姫君の美は、尋常の十四の娘と変わらぬそれであり、蕾のそれであって、まだ綻びかけたばかりであった。


主上おかみ……!」

「隣に座ってもよいですか?」

「でも、こんな端近はしぢかに……!」

「端近にいるのはあなたも同じでしょう、姫。ここはずいぶんと冷えますね。奥にお入りなさい、我がいもよ」


 姫君は素直に差し伸べられた帝の手をとった。そうして、手をつないだまま桜陵殿おうりょうでんにあるその一室の奥の方へ、ひさしから母屋もやの几帳のうちへとみちびかれながら、手を引く人のお優しい横顔を、室内の灯りのうちに見出した。初めて主上にお会いしたのも、神饗祭の夜のことだった――正殿で待たれていた帝は姫君の到着の遅れたのを咎める様子もなく、初めて顔を合わせる幼い少女に、ただ優しく微笑みかけられたのだった。

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