17-6 「どうしてわたくしたちは……」

「汝、名を申せ。申す名もなき神なれば、にたまえ。悪しき神なれば、にたまえ。これなるは白虎。汝、名を申さねば、我が剣を以って打ち払わん」


 白虎が低く唱える。けれども、姫君のお体はぴくりとも動かれる様子がない。

 少しも騒がずに白虎は姫君の方に進みよると打ち伏している姫君の背に刃を向けた。


「名乗り給え。汝、清き神なるか。悪しき神なるか」


 床にうつ伏せたまま姫君が聞き取れぬほど小声でなにかを呟かれたのが、もっとも姫君に近づいている白虎の耳には届いた。白虎ははっとして殊更に近づいた。なおも剣の先だけは姫君の背に向けたまま。


「何者だ?名乗り給え」


 乳母が固唾をのんで見守っていると、掻き消えてしまうそうなほどのか細い歔欷きょきがうつむいている姫君の喉から絞り出され、その小さな肩が小刻みに震えはじめた。姫様、姫様と呼ばれてどんなにかしずかれていても、所詮は数えにしてようよう七つの子供であるから聞き分けなく泣きわめくことも少なくはないが、今絞り出されている泣き声ばかりはどうも尋常の姫のそれではない……乳母はそこに心づいてはっと身を固くした。この歔欷ばかりは年端もいかぬ少女のそれではない。天真爛漫なこの姫君がかくも周囲を忍ぶかのように、声を押し殺して泣くということはこれまでに一度もなかったのだから。この歔欷は羞恥と苦しみを知った女のそれである。


「名乗れ。汝、天つ神なるか」

「……古妻ふるづまの」


 座っていた朱雀と青龍が共に素早く立ち上がり、四神たちは各々武器をとって身がまえた。


 古妻の りにし袖ぞ 振りしかば 古家ふるへの妹に あれかも―― 一見したかぎりでは意味の通らぬこの歌こそ、巷で流行っている童謡わざうたであり、この厳粛な祭りのなかで口ずさまれることなど決してあってはならぬ歌であった。まして、それが、京姫の口から漏れ出てきたとあらば。この場に降りてきてはならぬなにかが、姫君の元へ降りてきたのだ。白虎の剣をも、玄武の弦打ちの音をも恐れずに。乳母はたちまち蒼白になり、控えていた女房どもでさえ恐怖と驚きに低くどよめいた。


 この歌の不吉だとされる所以ゆえんは幾度も重ねられる「ふる」という音にある。その音はすなわち「る」を連想させたからである――無論、一つ一つの言葉自体にはさほど不吉な意味はないことは、この部屋が魂「振り」の間と称されていることからも明らかであろう。ただし、その音が執拗に、畳みかけるようにして重ねられるこの歌には明瞭な悪意があると見なさなくてはならない。天つ乙女の涙の底に生まれたこの玉藻の国にとって、「干る」ことこそ、もっとも恐ろしいことであったから。


「古妻の りにし袖ぞ……」


 姫君は普段のおかわいらしい声とはまるで変わって、今となっては喉奥で嗤う声にさえも聞こえる忍び泣きのうちに、低くしたたかにこの歌を口ずさまれている。相変わらず伏しているためにお顔は見えないが、髢の髪を床の上に長く垂らしたまま、ゆっくりと身を起こされる気配である。青ざめていた白虎は咄嗟にその髪を踏んで、露わになっている白いうなじに剣の先をて、姫君が、正確には姫君に乗り移った何者かが、その顔をひけらかすのを留めた。白虎は怒鳴った。


何奴なにやつだ?!」


 姫君は「うう……」とうめき声を零されたかと思うと、しばらくの間、ひたすらにしくしくと泣き濡れていた。玄武は弓弦を鳴らす音をますます高くした。青龍は太刀を抜き、聡く優しい顔をこの時ばかりは険しく引き結び、朱雀は手に提げた御燈をますます強く燃え立たせて厳しい目を姫君に注いでいた。


「答えよ!清き乙女の口を借りて、童謡わざうたを口ずさむのは何者だ?!」


 姫君はまたうめき声を上げられた。白虎の問いには一向に答えようとせず、白虎が剣で空をかき切るのを聞いても、わあっとわめいて泣き声を一層高くするだけである。凍りついたように誰もが見守るなか、姫君は両手で激しく床を叩かれ、身悶えして足で几帳を蹴倒した。白虎が姫君の身を案じて髢より足を退けると、姫君は一層やかましく声をあげられて、床の上を転がりまわった。四神たちが駆けつけてその身を押さえつけるのをみると、乳母はもうたまらずに自分も立って駆け寄って、四神たちに噛みつこうと歯を剥かれている姫君のお顔を両手でしっかりとはさみこみ、ぐいと正面の自分の方に向けさせた。姫君の目元は振り乱した長い髪の奥にあるので定かではないが、乳母にはかの翡翠の瞳がいつになく異様にぎらついているのが見えた気がした。薄く紅を塗った唇は捲れて乾き、白い頬に涎が流れて光っている。乳母は戦慄した。確かにこれは姫君ではない――


「ひ、姫様……!」


 どもりながらも乳母が呼びかけると、姫君は言葉にならぬ獣のような声をあげられた。乳母は姫君にとり憑いているものを威嚇するというよりかは、己の恐怖を克服すべく、姫君の頬をはさみこんでいる両手でばしっと姫君を叩いて、きッと姫君を睨みつけた。


「姫様!乳母の声が聞こえませぬのか?!今宵はよい子でおとなしゅうなされますと約束したではありませぬか?!そのお約束を守ったら、きっと乳母が美味しゅうお菓子を差し上げましょうと言ったのをお忘れでございますか?!」


 乳母は再度姫君の頬を打った。姫君は突如として暴れるのをやめ、押し黙った。四神と乳母とがまだ姫君を押さえつける手だけは緩めぬままに見守っているうちに、姫君は目元を前髪で隠したまま、口元だけをにやりと引き攣らせて嘲るような笑い声をたてられた。しかし、それもほんの数秒の間のことであり、たちまち笑いは掻き消え、姫君はぐったりと四神たちの腕に支えられるがまま身をもたせかけられた。


「姫様……!」

「芳野殿、お静かに」


 青龍が制した。姫君の袖を取り押さえていた手を慎重に離して、青龍は涙で額に張りついた姫君の前髪を指で払いのけた。乳母は姫君の目を見るのが恐ろしくて仕方がなかったのだが、姫は今、白い顔で固く目を瞑っていらっしゃる。それがまるで死人のように思われて、却って乳母は余計に恐ろしくなった。


 しかし、四神たちは狼狽する気色をみせない。青龍の嫗はこのような時にも落ち着きを失わず、白虎に抱きかかえられた姫君の額に右手の人差し指と中指とで触れ、空いた方の手で姫君の御手をご自分の膝の上に載せてしっかりと握りしめた。そして、声を押し出すようにして小さく早口にささやきかける。


「戻りたまえ、戻りたまえ、清き乙女のみ魂……帰りたまえ、帰りたまえ、京姫のみ魂」


 青龍の指の影の下で、姫君の瞼が一度ぴくっと痙攣するように動いた。乳母がもう泣きたいような、けれども何もかもに見離されてしまったような気分で眺めているうちに、青龍はしっかりと握りしめた姫君の手を軽く揺すった。玄武は左手で姫君の手を握り締めながら、床を軽く右手で叩いてその手で姫君の胸をまた軽く叩いた。朱雀は二人の上から、きつく唇を閉ざしたまま燈籠を掲げ、白虎は音羽が御簾のうちより持ってきたものを受け取って、それを姫君の耳元で鳴らした――それは清く高い音で玲瓏と鳴り響く鈴であった。


「戻りたまえ、戻りたまえ……」


 次第に姫君の頬に元の血色が戻ってきて、止まっていた呼吸が戻ってきた。姫君はついに薄らと目を開けられた。何か言おうと口を開いた乳母を、青龍が手の動きだけで制して、無言のままに姫君が体を起こすのを手伝った。姫君がまた元のごとく座られると、四神たちはそれぞれ数歩ずつ姫君の傍から離れた。姫君は、眠りから覚めたばかりのようなぼんやりとした目でしばし床の上を凝視していたが、押しつぶされそうなほどの静寂と張りつめた緊張感のうちに、今度は声もなくすっと涙を流された。


「どうしてわたくしたちは……」


 美しい声音であった。先ほどの童謡を唱えた声とは打って変わって……けれども、やはり、姫君の、幼い少女の声音ではなかった。白虎が剣を姫君に向けかけたのを朱雀が袖を挙げて留めるのを、乳母は見た。朱雀は今、静かに目を瞠りゆっくりと瞬きしながら、その間にも湛えられていく感情を抑え込もうとしているかのようであった。


 姫君の言葉はそれきりで途絶えた。姫君は目を伏せられて、両手を膝の上に載せられて、眠り込んでしまったかのように見えたが、白虎が再び尋ねると確然とした声で答えられた。


「答えよ。汝の名を」

「……我が名は天つ乙女」


 姫君は凛とお顔をあげられて、正面に立って剣を向ける白虎を見据えられた。その翡翠の瞳が澄み渡って、近づきがたいほどに気高い香気がその小さなお体から漂いだすのに、乳母は呆気にとられた。白虎は剣をおろして床の上に跪いて、こうべを深く垂れた。他の四神たちもまた、その場に両膝を折って、京姫を拝んだ。


かしこき神よ、天つ神よ、清き神よ……乙女を護り給え。帝と京姫が永久とこしえにましますことを」


「四神たちよ、約束いたしましょう……水底の国、玉藻の国に、我が恵みの絶えることはありませぬ」


 そう言い終えると、姫君の小さなお体は、枝を落ちる小鳥のようにぱたんと床の上に倒れ込んだ。

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