17-5 魂振の間
姫君が最後にお渡りになったのは、西の
女ながらに男の
月光は流れていたのである、この新月の夜にも。白虎の袴の腰のあたりにまで、月の色はゆらゆらと揺れて、夜気に冷えつつあった。白虎は雪のような薄灰色の瞳を、女房たちの持つ手燭のせいばかりではなく、なにか興奮したように煌めかせていた。それが尋常の様子ではないことに気付いたのは、傍付きの女房ばかりであったが、そのなかでも最も古く仕えている
「遅くなりましたわ」
朱雀は白虎から面を隠すように、燈籠をやや下ろして、顔を背けがちに言った。
「案ずることはありませぬ、朱雀殿」
白虎はしめやかな興奮を抑えて落ち着き払った低い声で言い退けると、乳母に抱きかかえられている姫君の方を向いて口元をほころばせた後、その場に跪いて、
「ようこそお出でくださりました、姫様。
と、白虎は厳かに言い終えて恭しく頭を下げた。それから、すらりと立ち上がって、姫君に向かって微笑みかけた。
「さあ、姫様、ここよりはこの白虎がお連れ申しましょう。こちらへいらっしゃいませ」
先ほどの厳かな口調とはがらりと変わって、すっかり打ち解けたような親しみのある態度で、白虎は乳母の腕から素早く姫君を奪って白い外套の裾で包み込んだ。姫君はこの知らない美しい人に早くも心を許されたご様子で、朱雀が厳かに御燈を捧げゆくその背後で、罪のないお喋りに興じはじめられる。その更に後ろで、乳母が頭を抱えているとも知らず。
「お疲れではありませぬか、姫様?」
「つかれたけれど、乳母がねてはだめって言うんだもの。でもね、乳母はふだんは早くねなさいっていうの。夜中まで起きていると、こわい鬼がさらいにくるんだって。どうして今日は寝てはいけないの?」
「今宵は特別な夜でございますから。姫様が京姫として即位なさる大事な夜なのですよ……ねぇ、朱雀?」
朱雀は白虎の語りかけるのに、ちらりと紅の瞳を流した。
「君からも、姫様に道理をお聞かせ申し上げてくれないか?」
「……今宵、
朱雀はひとりごとでも呟くかのように答えた。
「悪しき神ってなあに?」
「姫様のお体に取り憑いて、悪事をなそうとする混沌の神々です。けれども案ずることはございませぬ。わたくしが姫様をお守り申し上げますからには」
「混沌ってどういう意味?」
「……清らかでないもの。けがらわしきもの。惨めなものども。我が身を恥じ入るばかりの……」
朱雀が歌でも口ずさむかのようにまたもや呟いた。白虎はそんな朱雀の言葉に、わずかながらに眉に憂いをきざさせた。
「……けれども、姫様の元に今宵訪れますのは畏れ多くも清き神・天つ乙女のおおみ魂。姫様、今より天つ乙女のみ魂を姫様の元にお導きいたします……
魂振の間は、どの四神の宮の儀式の間と同じく正殿側の中庭に向かって開け放たれ、人目を避けるべくおろされた御簾の向こうに
姫君の正面に白虎がひざまずき、襖が閉ざされた。四神たちは部屋の隅に固まって、じっと姫君と白虎の様子をうかがっている。床に置かれた先導の御燈が居並んだ人形のような四神たちの顔のうち、朱雀の顔をとりわけ明るく照らし出していた。朱雀は表情なきうちにもなにかぼんやりと物思いに耽っているような遠い目をして、姫君ではなく、几帳の向こうに点在する
やがて白虎による長い言祝ぎが行われ、続いて白虎は音羽が恭しく奉る白い絹に覆われた細長い包みを受けとった。誰も居場所を示してくれないので、女房たちとともに四神たちより少し離れて壁際で小さくなっている乳母が見ていると、白虎は絹を丁寧に取りのけた。背後から白虎の様子を窺っている乳母の目にはさだかではなかったけれども、絹に包まれていたのはどうやら剣のようである。鞘にも収められずに、刃はさらけだされて沈痛に魂振の間の薄闇を返しているのが、荘厳な沈黙が凍りついて薄氷となったかように思われる。乳母は剣を何に使うものかといぶかしんだ。その時、庭の奥より、ひとつ鐘の音が低くくぐもるように響き渡ってきた。
鈴の音がさらさらとこぼれ出たのに、乳母ははっと紙燭の灯りが行き届いていない右手側の御簾のうちを透かし見た。続いて左手側の御簾のうちより応えるように鈴の音がして、その掻き消えぬうちに
「み
「
「
「な消へそ な消へそ」
「み魂降れ み魂降れ」
鼓の類、弦の類、笛の類――あらゆる楽器が女たちの唱和に追従して、次第に神降ろしの楽が膨らんでいくのを、乳母はなにか奇跡でも見遣るかのような心地で聴いていた。音楽はもはや
姫君は、楽の始まった当初、不安げに正面に控える人々に、それからひざまずく白虎とその手が捧げる剣とに、視線を動かされること落ち着かなかったが、こうして音楽の高まっていくごとに次第にその瞳の動きが定まってきた。乳母の眺めているうち、宙のある一点に固定されていた姫君の目が次第にとろんとしてきて、濁りさえも帯びてきた。唇がうっすらと開いて、呼吸の早まっていく様子が、纏われているお衣装の上からも肩の大きく動くので見てとれる。姫君は無心になにかを呟かれるようであったが、こうも楽の騒がしくては到底聞き取れるはずがなかった。
突如として、姫君の体がその場に崩れ落ちた。乳母は辛うじて自分を抑えた。これも儀式の流れであると、聡明な乳母はすぐに悟ったのである。と、音楽が鳴りやんで、まだ鈴の音の
「汝、天つ神なれば名のりそ」
玄武はそう言って、再び弦を揺らす。
「汝、先つ神なれば名のりそ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます