17-5 魂振の間

 姫君が最後にお渡りになったのは、西の白虎びゃっこ殿である。高貴な女人はおもてをさらすことを嫌うというのに、古く尊き一条家の血を引く白虎は人目を恐れることなく、玄武殿と白虎殿をつなぐ渡殿に立って、姫君をお待ち申し上げていた。


 女ながらに男のなりをしてまつりごとに参加し、松枝上皇の信も厚く、今は亡き桐生帝も重んじられたというほどの方である。その勇猛果敢なことや、思慮深さ、学識の深さは殿方も及び得ない。ただ、白虎の姿がみえると御簾のうちで女房たちが何かと落ち着かなくなるのは(本人にとっては不服かもしれないけれど)何よりもその屹立とした麗しい容貌のためである。今宵、月が姿を現さぬのは、天つ乙女が「眩しい」と仰ったその時以来の羞恥のためではあるけども、もしやこの方の立ちまさった風姿を隈なく照らし出すのを憚られてのことではないか――そう乳母は考えたほどである。


 月光は流れていたのである、この新月の夜にも。白虎の袴の腰のあたりにまで、月の色はゆらゆらと揺れて、夜気に冷えつつあった。白虎は雪のような薄灰色の瞳を、女房たちの持つ手燭のせいばかりではなく、なにか興奮したように煌めかせていた。それが尋常の様子ではないことに気付いたのは、傍付きの女房ばかりであったが、そのなかでも最も古く仕えている音羽おとわなる老女は、この男装の麗人の目が新しく立たれた幼い京姫ではなく、その御燈で姫を先導して参るくれないの髪の乙女の上にまず注がれたことまで見抜いていた。しかし、まあ主人の身を思えば無理もないご執心であると、音羽ひとりばかりは胸に呟くのである。なにせ、お命を救われたのであるから……


「遅くなりましたわ」


 朱雀は白虎から面を隠すように、燈籠をやや下ろして、顔を背けがちに言った。


「案ずることはありませぬ、朱雀殿」


 白虎はしめやかな興奮を抑えて落ち着き払った低い声で言い退けると、乳母に抱きかかえられている姫君の方を向いて口元をほころばせた後、その場に跪いて、


「ようこそお出でくださりました、姫様。天有明星命あめのありあけぼしのみこと一本菊ひともとぎくもとに降臨あそばせばしたその時よりこの世に在りし古き神、京姫のおん慈しみを受けてよりのちは水底の国、玉藻の国を永久にお守り申すつわものとなりて、命果つる日もその先も京姫にお仕え致します。天有明星命は我が毛皮を纏われ、凍れるゆうべと燃え盛るあしたの覇者となられました。我が風は悪しき神々を彼方へさらい、我が氷は荒ぶる神の息吹をも鎮めましょう。我が剣は京姫の命ある限り佩かれます――世の終焉にらう闇を打ち払うため。我が名は白虎」


 と、白虎は厳かに言い終えて恭しく頭を下げた。それから、すらりと立ち上がって、姫君に向かって微笑みかけた。


「さあ、姫様、ここよりはこの白虎がお連れ申しましょう。こちらへいらっしゃいませ」


 先ほどの厳かな口調とはがらりと変わって、すっかり打ち解けたような親しみのある態度で、白虎は乳母の腕から素早く姫君を奪って白い外套の裾で包み込んだ。姫君はこの知らない美しい人に早くも心を許されたご様子で、朱雀が厳かに御燈を捧げゆくその背後で、罪のないお喋りに興じはじめられる。その更に後ろで、乳母が頭を抱えているとも知らず。


「お疲れではありませぬか、姫様?」

「つかれたけれど、乳母がねてはだめって言うんだもの。でもね、乳母はふだんは早くねなさいっていうの。夜中まで起きていると、こわい鬼がさらいにくるんだって。どうして今日は寝てはいけないの?」

「今宵は特別な夜でございますから。姫様が京姫として即位なさる大事な夜なのですよ……ねぇ、朱雀?」


 朱雀は白虎の語りかけるのに、ちらりと紅の瞳を流した。


「君からも、姫様に道理をお聞かせ申し上げてくれないか?」

「……今宵、御寝ぎょしあそばされますと悪しき神に取り憑かれると聞きます」


 朱雀はひとりごとでも呟くかのように答えた。


「悪しき神ってなあに?」

「姫様のお体に取り憑いて、悪事をなそうとする混沌の神々です。けれども案ずることはございませぬ。わたくしが姫様をお守り申し上げますからには」

「混沌ってどういう意味?」

「……清らかでないもの。けがらわしきもの。惨めなものども。我が身を恥じ入るばかりの……」


 朱雀が歌でも口ずさむかのようにまたもや呟いた。白虎はそんな朱雀の言葉に、わずかながらに眉に憂いをきざさせた。


「……けれども、姫様の元に今宵訪れますのは畏れ多くも清き神・天つ乙女のおおみ魂。姫様、今より天つ乙女のみ魂を姫様の元にお導きいたします……魂振たまふりの間において」



 魂振の間は、どの四神の宮の儀式の間と同じく正殿側の中庭に向かって開け放たれ、人目を避けるべくおろされた御簾の向こうににわびの明滅を透かしている。ただ他の儀式の間と異なっているのは、部屋を入ってその左右の壁のあるべきところに御簾が垂らされていて、その御簾の向こうにさらに空間が続いていることで、その奥がどうなっているのか、誰か控えているのかということは、どうにも分からない。ただ庭より忍び込んでくる冷気に染みわたっていく香のにおいばかりは、どうもその左右の御簾の奥より漂ってくるようである。姫君はこの部屋では御帳台ではなく、中庭側の御簾の手前、外からの人目と風から几帳で覆い隠したしとねの傍らに降ろされて、庭と几帳を背にしてその上に座られた。衣装とかもじがかさばるせいか、姫君は随分と動きにくそうに、座ってからも居心地わるそうに身じろぎなさっていた。それがおかわいそうといえばおかわいそうであるけれど、なにぶん古来の儀式に則ったことなので、周りの者ははらはらしながらも姫君に辛抱いただくように説くほかになす術はなかった。とはいっても、言葉の戒めのとりわけ厳しい魂振りの間では、もう言葉を交わす者はいなかった。姫君もまた、周囲のただならぬ沈黙に気圧されたのか、髢が重くて気分でも悪いのか、青白い顔の上で普段ならば桜貝のようなかわいらしい色をしている唇をきゅっと閉ざしていらっしゃる。


 姫君の正面に白虎がひざまずき、襖が閉ざされた。四神たちは部屋の隅に固まって、じっと姫君と白虎の様子をうかがっている。床に置かれた先導の御燈が居並んだ人形のような四神たちの顔のうち、朱雀の顔をとりわけ明るく照らし出していた。朱雀は表情なきうちにもなにかぼんやりと物思いに耽っているような遠い目をして、姫君ではなく、几帳の向こうに点在するにわびを眺めているようであった。


 やがて白虎による長い言祝ぎが行われ、続いて白虎は音羽が恭しく奉る白い絹に覆われた細長い包みを受けとった。誰も居場所を示してくれないので、女房たちとともに四神たちより少し離れて壁際で小さくなっている乳母が見ていると、白虎は絹を丁寧に取りのけた。背後から白虎の様子を窺っている乳母の目にはさだかではなかったけれども、絹に包まれていたのはどうやら剣のようである。鞘にも収められずに、刃はさらけだされて沈痛に魂振の間の薄闇を返しているのが、荘厳な沈黙が凍りついて薄氷となったかように思われる。乳母は剣を何に使うものかといぶかしんだ。その時、庭の奥より、ひとつ鐘の音が低くくぐもるように響き渡ってきた。


 鈴の音がさらさらとこぼれ出たのに、乳母ははっと紙燭の灯りが行き届いていない右手側の御簾のうちを透かし見た。続いて左手側の御簾のうちより応えるように鈴の音がして、その掻き消えぬうちにびんと呼ばれる笛の音が幾重にも重なり合って、部屋の左右より静かな波のように襲いきた。斌がその低い声音の余韻を残しつつ掻き消えると、再び鈴が鳴って、その音が途絶えたあとの震えるような沈黙に女たちの唱和が響き渡る。



「み魂降たまふれ み魂降れ 天地あまつちの ことごとに 水底の ことごとに ほぎまつらむ 天つ乙女 天つ乙女」


群雲むらくもの 立ちし辺りぞ 染め明けて」


たれぞ恋ふ さきつ神」


「な消へそ な消へそ」


「み魂降れ み魂降れ」



 鼓の類、弦の類、笛の類――あらゆる楽器が女たちの唱和に追従して、次第に神降ろしの楽が膨らんでいくのを、乳母はなにか奇跡でも見遣るかのような心地で聴いていた。音楽はもはや騒擾そうじょうの楽とまでなりつつあった。女たちの詞章は言葉にならぬ神への呼びかけとなり、伴奏は速さを増して、楽器を奏でる女たちの指の動きまでもが目に見えるようだった。その物を考えさせる隙さえもあたえぬほどのさわがしさ、せわしなさのために、その場にいる誰もが皆、すさまじい力で以って押し寄せてくるものに取り囲まれているような気がして、息苦しいような、汗ばむような、体の冷え切るような、放心状態になりつつあった。そして音に加えて先ほどからほのかに漂っている香が、むせ返るほど強くこの部屋に立ち込めてきているのである。一見して平静を保っているのは四神たちと、そして姫君ばかりであったが、四神たちは身をよじらせることもない代わりに、目だけは大きく見開いて、姫君を、正確には姫君のやや上のあたりをじっと見つめている。


 姫君は、楽の始まった当初、不安げに正面に控える人々に、それからひざまずく白虎とその手が捧げる剣とに、視線を動かされること落ち着かなかったが、こうして音楽の高まっていくごとに次第にその瞳の動きが定まってきた。乳母の眺めているうち、宙のある一点に固定されていた姫君の目が次第にとろんとしてきて、濁りさえも帯びてきた。唇がうっすらと開いて、呼吸の早まっていく様子が、纏われているお衣装の上からも肩の大きく動くので見てとれる。姫君は無心になにかを呟かれるようであったが、こうも楽の騒がしくては到底聞き取れるはずがなかった。


 突如として、姫君の体がその場に崩れ落ちた。乳母は辛うじて自分を抑えた。これも儀式の流れであると、聡明な乳母はすぐに悟ったのである。と、音楽が鳴りやんで、まだ鈴の音のとよむような静寂のうちに白虎がすらりと立ち上がると、風の切る音の立つほどに素早く剣で空をかき切った。


 弓弦ゆづるの打ち鳴らされる音が風を切る音に続いた。もう袿の内までじっとりと汗ばんでいる乳母が目だけでそっと見ると、玄武がいつの間にか立ち上がって、弓を構えていた。


「汝、天つ神なれば名のりそ」


 玄武はそう言って、再び弦を揺らす。


「汝、先つ神なれば名のりそ」

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