17-4 斎湯の間 御蔓の間
青龍は
姫君は裸のまま湯より上げられた。いまだかつて日の光をまともに浴びたことのない姫の白い肌はお湯のなかで桃色に染めあげられ、青々とした血管が華奢な腕や太腿に息づいて、いつになく闊達そうにみえる。それでも乳母は姫君の細さに改めて驚きあきれ、普段あれほど駄々をこねて、果物やら甘いお菓子やらを召し上がっている分はどこに消えたのかと訝しがった。もしや古い伝承の通り、姫のお体はそのまま天つ乙女のお体で、姫様の召しあがった分は天に坐す乙女に捧げられているのではないかしら。確かに小鹿のような姫君のお身体は人並はずれて清らかではあるけれど……乳母がそんなことを思いながら立ちつくす前で、姫の体は柔らかな布に包まれ、その皮膚や髪に吸いつく水滴を隈なく拭い取られたあとで、真新しい絹の下着を纏わされた。その緒は青龍が手ずから固く結ばれた。
「朱雀よ、
「……ここに」
朱雀付きの女房が青龍に白い絹で覆った包みを差し出すと、青龍はその包みを解いて真新しき神服を取り出した。包みが解かれた瞬間から、辺りには、先ほど御燈の間にも立ち込めていた
「湯冷めをされませぬように」
正殿の南面にある朱雀殿、東面にある青龍殿を巡って、続いては北の玄武殿へ。
玄武は故
鈴をかかげられてひざまずくうちにも、玄武は何度か咳を交えた。数年前に召されたという病は世の耳に聞こえる以上に深刻なようである。それは人に伝染するような病ではなかったけれど、じわじわと病人の体を蝕み死に追いやるという恐ろしい病であるとのことである。それでも玄武は務めを果たし終えると、疲れたような白い顔で、姫君の着付けにとりかかるよう指示を出した。
姫君は幼心にも玄武の病に気づいて先ほどから心配そうな目を向けられていたが、着付けと聞くなり慌てふためいて逃げ出そうとなさったので、乳母に取り押さえられた。そこに玄武付きの女房がご婚礼の衣裳を持って現れた。姫君は一瞬ご衣裳の美しさに見惚れたものの、いざ服を着せようという段になると少なからず抵抗をみせた。だが、乳母、玄武付きの女房、それから姫君付きの女房という、女同士の素晴らしい連携のかいあって、雛のように小さな姫君に仰々しい婚礼の
「ねえ、乳母!これ重い!」
ふくれっ面の姫君は、桜色の袖の長い
「乳母!これ、重いったら……!」
「触ってはなりませぬ、姫様。せっかくの美しいご衣装が台無しでございます」
と、玄武が咳き込みなら申し上げる。姫君にすら有無を言わせぬ口調であった。
それから、玄武は姫君を
「青龍、卜占の水盆はお持ちですか?」
「ただいま
青龍付きの女房がひとり、玄武の傍らに膝をついて、恭しく差し出したものがあった。玄武はそれをそっと袖のうちに抱えて立ち上がると、姫君の前に直って、青色の布を取り払った。中から現れたのは、清い水を湛えた鉄製の円形の水盤である。
玄武は姫君にも聞き取れないほどの低い声で何事か唱えられると、首元より下げていた黒い鈴を取り外して、水盆の内にそっと落とした。姫君が髢の重さも忘れて興味深く見守っていると、紙燭の灯りばかりを揺らめかせていた水面に、鈴の与えた揺動とは別に、奥から奥から波紋が湧き上がって、やがてふわりと、水面に浮かび上がったものがあった。姫君が思わず歓声をあげられた。
「わあ、見て、乳母!きれい!!」
「姫様には桜の相が出ていらっしゃいます」
玄武は水面に漂う桜の花々を掬いあげ、少し口元をやわらげて、姫君に差し出した。
「桜の相って?」
「京姫はご自分の象徴たるべき花をお持ちなのでございます。姫様は桜ですから、桜の相が出ていらっしゃると申し上げたのです。花はお人柄によって決まります。姫様はきっと桜の花のようにお優しく誰もが見惚れるような美しさをお持ちになったお方なのでしょう。今にきっと、類まれなる姫君になられましょう……」
姫君は嬉しそうに桜の花弁を両手に受けて、いくらか取りこぼしたのにも気づかれぬご様子で、花のうちにお顔を埋められる。玄武の説明を聞いていた乳母はひそかに祈った。どうか姫様が、桜の花のように、お美しく、誰もの心を憧れさせてやまぬ京姫になられますように。そしてそればかりは桜の花にふさわしくなられるにしても、花の如く儚く散られるようなことは決してありませぬように……
「さあ、芳野殿、参りませぬと」
「ねぇ、乳母、これ取って!」
袖のうちに沢山桜の花びらをしまわれて、ご満足そうだった姫君は、いつの間にやらご機嫌を損ねられていたらしく、髢に手をあてて言った。
「今少しの辛抱でございますよ、姫様」
「今少しってどれぐらい?!」
乳母にとっては都合よくも、姫君の言葉の終わりかけたところで再び
「さあさ、重いのは乳母の方でございますよ。姫様も大分、大きゅうなられましたからね。お身の丈もここ一年でよう伸びましたこと。さあさ、お体が大きくなられたのですから、そう子供っぽいことをおっしゃらずに大人らしくじっとなさいまし」
乳母はてきぱきと言い退けると、髢に触れようとされている姫君の手を払いやった。
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