17-3 御燈の間

 松枝帝と市松皇后との間に生まれなさった女三宮、今上帝の腹違いの姉宮にあたるおん方は、姫君のおはしますことを聞きしそばより御燈の間の襖を開いて姫をお迎え申し上げた。襖の開いたとき、乳母と姫君の見たのは、ちょうど真正面、御簾の奥に蛍火のように、あるいは遠いいざり火のように、おぼろに浮かぶ神饗宮かむあえのみやの中庭のにわびばかりであり、あとはいたずらに広く暗い空間が、その燎との間に海のように立ち込めているのを茫漠と感ずるばかりであったが、ひとたび部屋のうちに夥しく寄せ集められた燈籠に火がともされると、見据える先に山をなす鮮やかな錦の堆積を認めたのであった。


  宮は長いことそうしてぬかづいていたあとで、ようやく顔を上げた。本来ならば、蔀戸しとみどのうち、御簾のうちに、幾重にも守られて、ほの暗い薄闇のうちにこそ、そのくれないの髪と白い肌をかぎる輪郭ばかりがぼんやりと浮かぶべき気高き内親王ひめみこかんばせである。今は亡き母后ははきさきの、宮廷一の美妃とたたえられた端麗きらきらしきみ顔には及ばないけれども、おん年十八の花盛りなれば、ただよう香気も並ならぬ。女宮をご覧になった姫が小さく肩を震わせたのを、乳母は袿越しに感じて不安な目をちらりと腕のなかに落としてみたが、姫君はただ、翡翠色の瞳をみひらいてじっと美しい女宮に見入っていらっしゃる。


「お待ち申し上げておりました」


 と、宮は静かに言って、また深く頭を下げた。うるさいほどまばゆい燈籠の灯に、白い額がひらめいた。


「あなたは……?」

「天有明星命が御劔みつるぎかれましたその時よりこの世に在りしまがつ神、京姫のおん憐れみを受けてよりのちは水底みなそこの国、玉藻の国をお守り申す常乙女とこおとめとなり、命果つる日もその先も京姫にお仕え致します。天有明星命はが羽をもちてこの地を治められたみあかしとなさいました。我が炎の燃ゆる所以ゆえんひとえに姫様のお命ゆえ。そして、再びこの水底の国に永き夜が訪れ、暁となり果てむそのときは、我がほむら永久とこしえに罪びとを焼きましょう……この身もろともに。我が名は朱雀すざく


「すざく……?」


 姫君はつぶやかれて、こころもち首をかしげなさった。


「あなたが、朱雀……」

「姫様、芳野殿、夜はとうとうと更けてまいりました。御燈みあかしの間の内へ」


 朱雀の宮が、はばかりながらも姫君の声を優しく押しのけて請うと、乳母は姫君をそっと降ろしたのち、そのかいなに抱き抱かれその乳を含み含ませしたもの同士にしか通じぬわずかな身じろぎで姫君を促した。姫君はやや不安げに乳母の顔を見上げられたのち、桜重ねのあこめの裾を引いて、先導の侍女に従いつつも御燈の間へと踏み入れられる。乳母はその後ろに従った。女房たちは皆、閉められた襖の外に取り残された。乳母とて本来は立ち入れぬ決まりなのであるが、幼い姫君が一人では心細いだろうからという、朱雀の宮の特別のはからいである。


 隈なく燈籠の並べられている間をなんとか通り抜けて、姫君は用意されていた御帳台みちょうだい――とばりには四神の図が描かれている――のうちに窮屈そうに潜り込まれると、しとねの上に、これまた不慣れな様子ながら、なんとか腰を下ろされた。じっと乳母が見守っていると、帳の内の柱に掲げられた鏡が、姫君の落ち着かなさげな顔をちらりとほのめかした後で、床に敷き詰められた燈籠の灯を反射してちらりと燃え上がった。それに続いて、朱雀のひたと姫君を見据えている顔が映り込んだ。乳母は、朱雀の目に瞬間点じられた深い悲しみのようなものを見取った気がしてはっとしたが、その時、朱雀付きの女房が乳母に姫君のお隣に座るようにと耳打ちしたので、御帳台の傍ら、斜め右前辺りに居心地悪くも腰を下ろした。


「さて、姫様」


 姫君の落ち着かれるの待って、朱雀の宮は切り出した。


「これより先導の御燈みあかしを奉ります。この神饗の夜に姫様を導き得ますのはこの朱雀の捧げます燈のみ。あだし火は姫様のみ魂を迷わせる鬼火となりましょう」


 と言ってから、朱雀はすっと音もなく立ち上がった。朱雀が纏っていたのは、神代を思わせる上古の衣装で、くれない背子はいしに緋色のうすものの上衣をゆったりと羽織り、両肘の上の辺りに金色の領巾ひれを巻き付け、その端を床に触れるか触れまいかというすれすれのところまで垂らしている。腰元には裾のとりわけ長い杏子色の裳。神代の時代の女人にならって高く結い上げた紅のおぐしの上には小さな天冠を頂いていて、冠を飾る金の房が、朱雀の一挙一動にあわせて揺れるのであった。


 朱雀の立ち上がると共に、床に並べられた夥しい燈籠の灯は一層燃えたった。そのひとつひとつの灯火の放つ光は床を舐める炎の絨毯のごとく織り成されて、神々しいほどろうたけた宮のお顔を照らし出した。


「京姫さま……天つ乙女の御恵みめぐみをこの国にもたらすお方……天つ乙女はおん身に語りましょう。この世が未だ成らざるとき、さきつ神を恋うて歔欷きょきあそばせた乙女は。日と月とが共に涙の川面に浮かびし時のその眩しさを。今宵、御燈の燃え立ちおん身の行く先を照らし出すこと、その眩しさにひとしいと。また、斎桜乙女いつきさくらおとめ斎稲城乙女いつきいなきおとめのみ魂がおん身に語りましょう。おん身を導くべき御燈を。かの姉妹いろねいろどより幾千の清き乙女たちが、同じかかやきに導かれて神饗の夜をゆきました……」


 宮の声は静かながらも、清らかなひとしずくが澄明な水面に波紋を広げるように、途切れることなく御燈の間にひろがっていった。その間にも、火は煌々と部屋を照らし出し、乳母はぼうぜんとなって、この時ばかりは姫君を慮ることもつい忘れ、目の前の光景にあやしいまでに惹きつけられていた。しばらくの間をおいて、宮が再び口を開いたのはそれとない催促のしるしであったと乳母は少し遅れて気がついた。


「姫様、おん身を導き奉る御燈をお選びくださいませ……」


 乳母はいつもの癖でまなじりで姫君に合図を送ろうとこころみたが、御帳台のうちに隠されてしまった姫君が困ったように身じろぎをするその気配が、衣擦れの音でかすかに伝わってくるばかりで、どんなお顔をなさっているか、到底読み取ることはできない。すると、姫君が戸惑う気配を察したものか、朱雀がふと口調をやわらげて言った。


「むずかしいことはなにもございません。ただご自身のお心の命ずるままに、燈籠をひとつ指さしてくださりませばよいのでございますよ」


 朱雀が微笑みさえもほのめかして言うのに勇気を得たものか、重たい袖の動く気配がして、ひいなのような小さなおゆびが夥しい燈籠のいずれかを指したとみえる。ただ、乳母には姫君の指された燈籠がいずれであるかはわからない。朱雀はゆったりと、九重の雲のうちに生まれた方らしく優雅に屈みこんで、燈籠の一つをそっと抱え上げた。「これでございますか?」と朱雀が尋ねると、姫君はこくりとうなずかれたらしかった。乳母ははらはらした。


 その直後に、燈籠の灯が、ただ一つ朱雀の袖の上に抱えられているものだけを残してふっと掻き消えた。朱雀はわずかな灯りのなかで、今度こそ確かに嬉しげに微笑んだ。


「姫様、正しき御燈を選ばれましたね。これこそ姫様を天つ乙女のおおみ魂がお守り遊ばせるあかし。心からお祝い申し上げます」


 朱雀が燈篭のうちに手を差し入れて取り出したのは、小さな紅の鈴である。きょとんとしている乳母の前で、朱雀は鈴を掌の上で転がしてみせた。と、鈴が玲瓏と鳴り響いたそばから突如として燃え立って、金色の炎の花が朱雀の手元に広がった。「あっ」と姫君が声をあげられると、朱雀は炎を抱えている手をほっそりとした指先の方から傾けて、燈籠のうちに鈴を流した。この灯りこそ代々の京姫を導いてきた御燈なのだと、朱雀は申し上げた。


 掻き消えたばかりの夥しい燈籠は瞬く間に女房たちによって片付けられた。朱雀は姫君のお選びになった燈籠の灯を傍らにおいて再び床に膝を突き、顔をややうつむけ、夢見るように目を半ば閉じて、古き言祝ことほぎを始めた様子である。


「朱雀、すでに両の翼を打ち破られれば、地に倒れ伏し、蹴爪を以ちて天を蹴り、羽搏きを以ちて地を撃ちたり。紅の羽、砂煙ばかりは夥しく舞い上がれども、遂に飛ぶこと能はず、天有明星命あめのありあけぼしのみこと、その胸に這ひのぼりて、一本菊ひともとぎくの剣にてその嘴を砕き給ふ。朱雀、血の泡を吐きて痛み苦しむこと甚だしく、己をぢて許しを乞へども、聞き給はず。翼をぎて、目を潰し、脚を断ち、蹴爪を割り、喉を締め、羽を毟り、剣を以ちて切りつけること、また刺し貫くこと千度余り。大きなる鳥の羽の色こそ変わらねど、水底の国の土の色、川の色、悉く赤く染まりたる。遂に朱雀死にたれば、天有明星命、吾妹の敵を討ちたりと、かばねを踏んで踊り狂い、涙に咽んで歓喜よろこび給ひき」


 これは『暁星記』の一段で、妻・桜乙女を喰い殺した朱雀を白菊帝が打擲するひどく残虐な下りであるが、朱雀は少しも乱れなく読み上げる。それから、帝に逆らった四神たちの罪を京姫がお許しになり、清らかな乙女の姿を授けられた故事が歌われ、京姫を祝福する長い歌が続く。


「水底の玉藻の国をしろしめす清き乙女は……」


 歌いあげていた宮の声の調子がそこにきてわずかに転じた。その後に続く長い比喩のほとんどを省いたらしく、「花のごと咲きにほへども」と続き、それから間もなく畳みかけるように「永久とこしえにあれ」という結びの文句がやってきた。歌い終わった朱雀が、しばしの沈黙の後に顔を上げて女房に目だけで何かを命じたのは、うたた寝をされている姫君を起こしてさしあげなさいという印であったと見えて、女房が御帳台のうちを覗きこんで何事か囁くと、姫君の寝ぼけた声が聞こえてきた。乳母は消え入りたい思いで真っ赤になったが、朱雀は鷹揚に、


「普段ならばとうにお休みの時刻かと存じます。さぞお眠うございましょうが、辛抱あそばせ姫様。さあ、青龍せいりょう殿へと参りましょう。朱雀が先導の御燈を掲げますゆえ」


 と言って、本来ならば始終よほど格式ばっているはずの儀式も早々に切り上げ、女房と乳母とに助けさせて姫君を御帳台より降ろさせた。儀式中気の休まる暇のなかった乳母は何百年ぶりに姫君の顔を見たような気がしたのであったのだが、小さな手で隠しながらあくびをしている姫の頬は、うたた寝のせいでほのかに赤く、乳母がその額に触れてみるとまるで熱でもあるかのようにじっとりと熱い。


「姫様、今宵は寝てはならぬとあれほど申し上げたものを……!」

「だって、ねむいんだもの。乳母だって、いつもは早くねなさいって言うじゃないの」

「まあ……!姫様こそ、いつもはなかなか寝付かれないではありませんか」

「ねなさいって言われるとちっともねむたくならないんだもん。でも、おきてなさいって言われると、急にねむたくなるの」


 子供らしい言いぐさに乳母が呆れかえって言葉も失っていると、朱雀付きの女房が笑って、


「頑是ないお方には難しいこと。夜もたいそう遅いのですもの」

「しかし、今宵は眠ると悪神が憑くと言いますが……」

「ご心配には及びませぬ。姫様のおかわいらしさを見たら、悪しき神々も恥じ入ってつい手を出しかねましょう。それに宮さまがしっかりと姫様を守られておりますゆえ。さあ、姫様、参りましょう」


 私だけなのかしら、こんなに気負っているのは……だって、なにせ神饗祭に参加するなんて、初めてなのだもの。乳母は姫君に対する周囲の甘さに半ばあきれ、半ば助かったような気がしながらも、姫君の手をとって、朱雀の宮が燈篭を掲げて進む後ろに付き従った。


 姫君は目をこすりこすり眠たそうであったが、御燈の間を出でて長い廊下を歩み、青龍殿へと続く渡殿わたどのを大勢の女房たちがぞろぞろと追ってくるのや、中庭ではつはつとはぜる篝火の点々とする様子、帝のいます正殿がそうした篝火の向こう、姫君の左手に、闇を払って厳かに鎮座し、その切妻屋根の千木ちぎが雪をちらつかせる夜空に向かって差し延べられるのを、ご興味だけはひとしおに眺めていらっしゃる。なにせ生まれてこのかた見たこともないもの、会ったこともないような人々が、目まぐるしく現れるのである。元より好奇心の強い方であるから、つい正殿の姿を見定めようとして乳母の歩みに遅れがちなのもいたしかたない。女房たちはさすがに朱雀の宮をはばかって、もうそんな姫君のご様子を見てもそっと目線を交わして微笑み合うだけで済ませていた。神饗祭りの日は、姫君と四神たちを除いては、女官たちは皆白の袿姿であるが、そうして白い袿を纏った女たちがぞろぞろと立ち並んで朱雀殿と青龍殿とを結ぶ回廊を進みゆく様を俯瞰してみると、一種、清冽なうるささといったものが感じられたかもしれなかった。その先頭に頂かれて、小さなおみ足で遅れがちになっている姫君ばかりは、桜色の布地に包まれた小さな小さな捧げものとでもいうような、清らかな印象をにおわせていらっしゃる。切りそろえた髪の少し乱れてきたのやら、少し汗ばんできた額やら、景色を見定めようとじっと凝らしていらっしゃる目元のあたりに。

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