17-3 御燈の間
松枝帝と市松皇后との間に生まれなさった女三宮、今上帝の腹違いの姉宮にあたるおん方は、姫君のおはしますことを聞きしそばより御燈の間の襖を開いて姫をお迎え申し上げた。襖の開いたとき、乳母と姫君の見たのは、ちょうど真正面、御簾の奥に蛍火のように、あるいは遠いいざり火のように、おぼろに浮かぶ
宮は長いことそうして
「お待ち申し上げておりました」
と、宮は静かに言って、また深く頭を下げた。うるさいほどまばゆい燈籠の灯に、白い額がひらめいた。
「あなたは……?」
「天有明星命が
「すざく……?」
姫君はつぶやかれて、こころもち首をかしげなさった。
「あなたが、朱雀……」
「姫様、芳野殿、夜はとうとうと更けてまいりました。
朱雀の宮が、はばかりながらも姫君の声を優しく押しのけて請うと、乳母は姫君をそっと降ろしたのち、その
隈なく燈籠の並べられている間をなんとか通り抜けて、姫君は用意されていた
「さて、姫様」
姫君の落ち着かれるの待って、朱雀の宮は切り出した。
「これより先導の
と言ってから、朱雀はすっと音もなく立ち上がった。朱雀が纏っていたのは、神代を思わせる上古の衣装で、
朱雀の立ち上がると共に、床に並べられた夥しい燈籠の灯は一層燃えたった。そのひとつひとつの灯火の放つ光は床を舐める炎の絨毯のごとく織り成されて、神々しいほどろうたけた宮のお顔を照らし出した。
「京姫さま……天つ乙女の
宮の声は静かながらも、清らかなひとしずくが澄明な水面に波紋を広げるように、途切れることなく御燈の間にひろがっていった。その間にも、火は煌々と部屋を照らし出し、乳母はぼうぜんとなって、この時ばかりは姫君を慮ることもつい忘れ、目の前の光景にあやしいまでに惹きつけられていた。しばらくの間をおいて、宮が再び口を開いたのはそれとない催促のしるしであったと乳母は少し遅れて気がついた。
「姫様、おん身を導き奉る御燈をお選びくださいませ……」
乳母はいつもの癖で
「むずかしいことはなにもございません。ただご自身のお心の命ずるままに、燈籠をひとつ指さしてくださりませばよいのでございますよ」
朱雀が微笑みさえもほのめかして言うのに勇気を得たものか、重たい袖の動く気配がして、
その直後に、燈籠の灯が、ただ一つ朱雀の袖の上に抱えられているものだけを残してふっと掻き消えた。朱雀はわずかな灯りのなかで、今度こそ確かに嬉しげに微笑んだ。
「姫様、正しき御燈を選ばれましたね。これこそ姫様を天つ乙女のおおみ魂がお守り遊ばせるあかし。心からお祝い申し上げます」
朱雀が燈篭のうちに手を差し入れて取り出したのは、小さな紅の鈴である。きょとんとしている乳母の前で、朱雀は鈴を掌の上で転がしてみせた。と、鈴が玲瓏と鳴り響いたそばから突如として燃え立って、金色の炎の花が朱雀の手元に広がった。「あっ」と姫君が声をあげられると、朱雀は炎を抱えている手をほっそりとした指先の方から傾けて、燈籠のうちに鈴を流した。この灯りこそ代々の京姫を導いてきた御燈なのだと、朱雀は申し上げた。
掻き消えたばかりの夥しい燈籠は瞬く間に女房たちによって片付けられた。朱雀は姫君のお選びになった燈籠の灯を傍らにおいて再び床に膝を突き、顔をややうつむけ、夢見るように目を半ば閉じて、古き
「朱雀、すでに両の翼を打ち破られれば、地に倒れ伏し、蹴爪を以ちて天を蹴り、羽搏きを以ちて地を撃ちたり。紅の羽、砂煙ばかりは夥しく舞い上がれども、遂に飛ぶこと能はず、
これは『暁星記』の一段で、妻・桜乙女を喰い殺した朱雀を白菊帝が打擲するひどく残虐な下りであるが、朱雀は少しも乱れなく読み上げる。それから、帝に逆らった四神たちの罪を京姫がお許しになり、清らかな乙女の姿を授けられた故事が歌われ、京姫を祝福する長い歌が続く。
「水底の玉藻の国をしろしめす清き乙女は……」
歌いあげていた宮の声の調子がそこにきてわずかに転じた。その後に続く長い比喩のほとんどを省いたらしく、「花のごと咲きにほへども」と続き、それから間もなく畳みかけるように「
「普段ならばとうにお休みの時刻かと存じます。さぞお眠うございましょうが、辛抱あそばせ姫様。さあ、
と言って、本来ならば始終よほど格式ばっているはずの儀式も早々に切り上げ、女房と乳母とに助けさせて姫君を御帳台より降ろさせた。儀式中気の休まる暇のなかった乳母は何百年ぶりに姫君の顔を見たような気がしたのであったのだが、小さな手で隠しながらあくびをしている姫の頬は、うたた寝のせいでほのかに赤く、乳母がその額に触れてみるとまるで熱でもあるかのようにじっとりと熱い。
「姫様、今宵は寝てはならぬとあれほど申し上げたものを……!」
「だって、ねむいんだもの。乳母だって、いつもは早くねなさいって言うじゃないの」
「まあ……!姫様こそ、いつもはなかなか寝付かれないではありませんか」
「ねなさいって言われるとちっともねむたくならないんだもん。でも、おきてなさいって言われると、急にねむたくなるの」
子供らしい言いぐさに乳母が呆れかえって言葉も失っていると、朱雀付きの女房が笑って、
「頑是ないお方には難しいこと。夜もたいそう遅いのですもの」
「しかし、今宵は眠ると悪神が憑くと言いますが……」
「ご心配には及びませぬ。姫様のおかわいらしさを見たら、悪しき神々も恥じ入ってつい手を出しかねましょう。それに宮さまがしっかりと姫様を守られておりますゆえ。さあ、姫様、参りましょう」
私だけなのかしら、こんなに気負っているのは……だって、なにせ神饗祭に参加するなんて、初めてなのだもの。乳母は姫君に対する周囲の甘さに半ばあきれ、半ば助かったような気がしながらも、姫君の手をとって、朱雀の宮が燈篭を掲げて進む後ろに付き従った。
姫君は目をこすりこすり眠たそうであったが、御燈の間を出でて長い廊下を歩み、青龍殿へと続く
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