17-2 践祚の夜 婚礼の夜

 神饗祭かむあえまつりあまつ乙女をお慰めし、天つ乙女がおのずから孕まれてお生みになった天有明星命あめのありあけぼしのみこと――この玉藻の国でのお名前で白菊帝しらぎくていとおっしゃる尊い天つみ神と、その神の血を引く一門の霊に新穀を奉るお祭りである。ただ、今年は践祚せんその年であるから、祭りの主眼は即位なされたばかりのお若い帝と、今宵即位なさる京姫のその婚礼に置かれている。



 『暁星記ぎょうせいき』はこの世の始まりを次のように語っている――先の世が終わり、神々は新たな神の地へと旅立たれ、そのお姿は暁に消え残る星々とばかり見ゆるのみになった。日も月も出ぬこの世界に、天つ乙女がただお一人残られた。にし神々をおもって泣く天つ乙女の涙は川となり、川の底から日と月とが浮かびあがり、この世界を照らし出した。乙女が「なんと眩しいのだろう」と仰ると、月は我が身を恥じて隠れた。以来、日は昼のみを、月は夜のみを照らすようになったという。また、天つ乙女の涙に押し流された星々がひとところに群れつどい、歌うように輝きはじめた。乙女が「なんと美しいのだろう」と仰ると乙女は自ずから身ごもられた。そうして天有明星命あめのありあけぼしのみことがお生まれになった。


 乙女はご自身の涙の川底に思いがけず国を見出されて、水底の国に御子みこを降ろされた。その水底の国こそ玉藻の国である。一本ひともとの白菊の下に降ろされた御子は、桜乙女さくらおとめと呼ばれる清らかな少女に見つけられ、大切に養育された。やがて麗しい男子へと成長なさった御子は桜乙女を妻とされた。


 天有明星命と桜乙女のお二人に、天つ乙女は「この国を荒らしまわる四神を征伐するように」と命じられた。お二人は共に国を巡り、北の玄武、東の青龍、西の青龍、南の朱雀を次々と打ち倒された。不幸にも桜乙女は旅の途中で命を落とすが、天有明星命は国を統べられ、白菊帝として即位なさった。また、桜乙女の同母妹である稲城乙女いなきおとめを娶られて大后とされた。


 稲城乙女もまたすぐれた霊力を持つ女人であられた。白菊帝の皇子・白梅帝はくばいていの御代にまがつ神を崇める黄櫨はぜの一族が反乱を起こすと、稲城乙女は四神を従えて悪しき神を鎮められた。これより先、稲城乙女は京姫として、四神とともにこの国と京とを守られることとなった。稲城乙女亡き後は天つ乙女によって選ばれた乙女たちが……たる帝がまつりごとをつかさどり、いもたる京姫が祭祀まつりごとをつかさどるのである。


 妹背いもせとはいっても、まだ神の息吹の濃厚であった古代の乙女たちはともかくとして、いよいよ人の代に成り替わりつつある寂しき世にあっては、京姫の霊力を保証するのは純潔であるというその一事にかかっているので、世にある夫婦のような睦みごとを、帝と京姫とはなさらない。ただお二人は兄と妹のように互いを慈しみ、お手を結び合ううちに心を固く結び合わせて、生涯を過ごされるのである。偉大なる天有明星命の血を絶やさぬように努めるのは、後宮の妃たちの役割であって、京姫の仕事ではない。京姫はひたすらに帝にお仕えし、帝のみ魂をお慰め申し上げ、そしてこの国の百姓おおみたからのために祈り続ける。荒魂あらみたまを和らげ、悪しき神どもを払い、古き神を鎮め、暁の星となり果てし神々に語りかける。それが京姫の使命である――そしてその使命が、たった七つの幼い少女の肩に課せられようとしている。


(妹背だなんて笑ってしまうわ。私が姫様の乳母でもなかったら本当に……)


 乳母はこれまでに幾度ひとりごちたことかと振り返る。お抱き申し上げている姫君は黒木造の神饗殿の薄暗い内部を、なにひとつ見逃すものかとばかりに見回され、時おり乳母の腕が苦しいと手足をじたばたさせて抗議をなさる。乳母はそれを厳しく小さく叱りながら、


(この姫様の幼さが皆に知れ渡ってしまうだなんて。帝がお若いのにあんな立派なだけに、ことさら……)


 今年の雨の月に即位なされた帝は、松枝まつがえ上皇の三の宮である。お歳のころは十二。即位の礼のおり、高御座たかみくらのうちにひとびとがほのかな火影のうちにそっとうかがったお顔つきばかりはまだいたいけながら、力むことなく引き結んだ唇と、遠くを見遣るようなまなざしのうちに偉大なるその父宮の面影さえ漂わせられて、帝はかたくるしい儀式のことばのうちにもその聡さを示された。そのお声のうるわしさに、畏れ多くも即位の礼に居並んだ幸福なひとびとは皆涙をながされたのだという。去年こぞの秋に崩御された桐生帝きりゅうていをはじめ、やすみししわが大王おおきみとして一度でも崇め奉られた方たちのみ魂は、青草のようにお若い帝の瞳の凝らし方ひとつをもほほえましいと思われるに違いないと、世のひとびとは考えている。


 そうしたことを聞いていたから、乳母も自然、神経がたかぶってくるのである。


 松枝帝が市松皇后との間にお生みになった、一の宮と二の宮が続けざまに病でおかくれになったことが、民の心を不安にざわめかせている。二条の者どもの祟りではないかと声をひそめていう者すらある。それにくわえて、ここ数年はなにかとわざわいが続いている。京にひょうの降ったり、落雷のために大火が起こったり、突如大地の揺れたり……またある人は、真夜中にあやしき黒衣の者どもがなにやら聞きなれぬ言葉で囁き交わしながら朱雀大路を横切るのを見たというし、ある人は、夢のなかで不気味なまでに美しい女と出くわして、その女から教わったという不吉な歌をひとびとに伝えたために、人心を騒がしたとしてきつい御咎めを受けた。人々は歌を口ずさむのをやめたが、ふしぎなことにその童謡わざうたは、すさまじきほどに西日の燃えたてる夕暮れなどにどこからともなく流れてきては、聞く者の心をおののかせ惑わせた。

 

 このような世にお立ちになる幼いといえるほどお若い帝と京姫に、貴賤を問わずこの国の民は不安と切実な期待とを抱いている。もし人々の信頼に背くようなことがちらとでもあれば、民の心はたやすく帝を、さらには王朝までをも離れるやもしれぬ。その兆しは、すでに七年前のふとした落剝によって示されているのである。


 帝に関しては、人心の掌握にひとまず成功なされたと言えよう――無論、そこには左大臣と右大臣が結託して、頼もしくも様々に趣向を凝らしたという影の力がはたらいていることぐらい、乳母にはよく分かっているのだが――今度は姫様の番である。姫君の初めての公務となるこの神饗祭を滞りなく進めること、厳かなる神饗の夜を厳かなままで神に奉り申し上げること。それらのことが、今、乳母のかいなのなかにひいなのようにおさまっている(もっとも雛は暴れたりしないが)かくも幼い姫君には、あまりにも苛酷な務めであるように思われて、乳母は気が気でならぬである。


 ただ、乳母は早くも「失敗」の二字が、その影の頭を投げかけ始めたのを感じている。というのも、後ろにぞろぞろと付き従っている女房ども――いずれは姫君付きの女房となる者たち――が、こういう厳粛な空気のなかでこそお喋りをしたがる若い女の習性も露わにして、先ほどからこそこそと互いの袖を引っ張りあってはひそかに笑い合っているためである。


「まあ、姫様のお可愛らしいこと」

「本当。七つと聞いていたけど、もっとお小さく見えるわね」

「生まれてからこの方ずっと物忌をしていて、お生まれになったまさにその部屋よりお外には出たことがないというのですもの。当然よ」

「それなのに、芳野よしの様のお説教ときたら……」


(まあ、あの人たちときたら……)


 と、姫君の乳母・芦辺芳野あしべのよしのは苦々しく思う。姫君は乳母の肩越しから見慣れぬ女房どもの姿をご覧になっていたが、女たちが姫と目の合う度にくすぐったそうに笑うのに、人なつっこい笑顔をいちいち浮かべられるので、女たちは一層かしましくなるのであった。


 ともするうちに、先導の侍女は、乳母と姫君を御燈みあかしの間に導いた。


 践祚せんその折の神饗祭は、一日目の夜を京姫の成巫式ならびに帝と京姫との婚礼の儀とする。古い儀式書などを紐解いてみると、京姫の成巫式と婚礼の儀が同じ夜に行われることになったのはここ百年ほどの間であり、元は一日目、二日目と別れて行っていたことが分かるのだが、幼い帝と京姫が新たにお立ちになる今年に限っていえば、日数のむやみに伸びると、ご負担やらご心労やらの溜まることになるし、なにせ成巫式と婚礼の儀の夜はともに眠ることが許されないので、七つの姫君をお世話する身としても乳母は幾分助かった気持ちである。


 それにしたって、二つの儀式を一つの夜のうちに執り行わなければならぬのであるから、せわしないことはいうまでもない。姫君はこれから四つの宮を廻られて、姫君に仕えし四神の祝福を受けねばならぬのである。その始めが、朱雀殿しゅじゃくでん御燈みあかしの間での儀式である。

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