16-6 「それは、はるか昔……」

「すまない、玲子。知られてしまったんだ、姫様に」

「そう……」


 電話越しに、玲子は小さな溜息をついてみせた。他の人間であれば、それはルカを責めたてる合図ともとれただろうが、滅多なことで感情を表さない玲子がわざわざそんな素振りをしてみせると、それはまるで大したことではないと言っているかのように聞こえる。


「……本当にすまない。私が迂闊うかつだった」

「いいのよ、いずれ分かる事だわ」

「それから、もう一つ……結城司が豹変したことに君が関係しているのではないかという私の推論――どうやらこれも聞かれてしまったらしい」


 ルカの寝室には、父の収集である古い蓄音機からベートーヴェンの交響曲第七番第二楽章が流れ出して、満ちている。ルカは窓辺に寄って窓枠に肘を載せ、気だるげに壁に身をもたせかけていた。明朝の出発のために用意した荷物は、全て大きな銀色のトランクに詰め込まれて部屋の入り口に置かれていた。その中には元々十日分の荷物が詰められていたのだが、つい三十分前、ルカはメイドに命じて荷物を半分に減らさせ、帰国のフライトの予約を変更させた――残念ながら観光は取りやめだ。誘われていた会食もキャンセルした。電話先の少女は、さすがにルカの告白には当惑したらしい様子で、返事をすぐには寄越さない。


「……玲子、どうか真実を教えてくれないか。私が愚かだったせいだ。だから、本来は私が責任をとらねばならないんだが――姫様が結城司と決裂してしまったんだ。私が結城司と接触してしまったせいで。結城司は、以前の結城司のことに気付いてしまった。それで姫様に詰め寄って、姫様はお答えでできずに……私と左大臣は、前世のことを、全て姫様に打ち明けることにしたんだ。長くなりそうだから、夏休みを利用して少しずつ。白崎邸うちに来ていただくことにした。そこで、全てを話すよ。あまりにも残酷すぎることも、全て。だから、玲子、君に来てくれとは言わないが、せめて何があったかを教えてくれ。私が代わりに……」

「いいえ、私が直接話をするわ」


 玲子は悠然と言いはなつ。


「私の責任だから。でも……悪いわね、先にしてしまいたいことがあるの。それが済んだら、姫様の元に参上するわ。たとえ脚が治っていなくとも……」

「玲子!まだ君の脚は……!伯父さんはもうとてもいいように……!」

「黙って、ルカ。ほんの物のたとえよ。無論、私の脚はもう大分よくなったわ。いい?私も必ず姫様の元に馳せ参じる。だから、それまで待っていただいて。あと少しだけ……あと少しだけでいいから……」




「京野!あんた今回、すごいよく出来たじゃない!どうしたのよ!」


 鳥居先生が褒めてくれた。よく出来たのは、司のおかげだ。司が六月の後半からずっと、英語の個人指導をしてくれたから……だから、だからこそ、全然嬉しくないのである。舞は鳥居先生にも曖昧に笑って応えると、ふさぎこんだ表情で職員室を足早に出ていった。そんな舞の様子に、鳥居先生は意外そうに目を瞬かせ、担任の菅野先生は珍しく微笑みのない顔で、眼鏡越しに舞の後ろ姿をじっと見守る――やはりおかしい。ようやく登校してきたはいいものの、以前の京野舞とは違っている。見ていると、どうやら一時期は良好であった結城司との仲がしっくりきていないようだが……しかし、ともかく、今日は終業式なのだし……


 七月二十日、火曜日。これから夏休みということもあって、桜花中学の生徒たちはいつも以上に活発である。折しも生徒たちを祝うように、もうほとんど真夏のそれに近づきつつある日差しが、全てを照らしつくしている。普段は日焼けを気遣う女子生徒でさえ、いつもより早く鳴った終業のチャイムの音と共に、惜しみなくその腕や顏や首筋を日光の下に晒して笑顔いっぱいで中庭を駆けはじめる。その青春のさざめきのなかを、物々しい顔をして突き進むのは、舞と翼と奈々ばかりである。これから三人は白崎邸へ向かい、今朝帰国したばかりのルカから、いよいよ前世での話を聞くのである。


「な、なんかさぁ、緊張しちゃうよね」


 奈々が両手を頭の後ろに組みながら言っても、紙のように顔色を白くした舞は応えないので、翼が口を開く。


「でも、大切なことだもんねっ!いつかは絶対、前世のこと知らなくちゃいけなかったんだもん……!」

「まっ、覚悟は決めとかないとね……!」


 強張った笑いは、翼と奈々の間だけで交わされる。




 人より遅れて校門を出た結城司は、校門前で見慣れぬ人を見かけるという珍しい体験を再びすることになった。今度は二人連れである。一人は赤い髪を後頭部の低い位置でシニヨンに結い上げた、眼鏡をかけた少女であり、ロングスカートに包んだ脚を車椅子の上で並べてその上に手を重ねている。そしてもう一人は黒いスーツ姿の引き締まった長身の中年男性で、少女の車椅子に手をかけている。少女が司の顔を見てわずかながらに微笑んだので、司はつい足を止めた。なぜだろう。この女に、妙に見覚えがあるのは……


「結城司、ね?」


 少女がそっと言う。微笑んでいる割に、堅い声である。司がたちまち警戒心を露わにしても、少女は気にする様子はない。


「……僕に何の用だ?」

「話があるの。拙宅までお越しいただけると幸いなのだけど……京野舞のことで。それから、もう一つ。のことで」




「決して、懐かしいばかりの話ではありません」

 ベートーヴェンの交響曲第七番、第二楽章の響く部屋で。


「決して、愉快な話ではないと思うわ。それどころか、まず信じてもらえるか……」

 同じ曲のカーラジオから流れる、桜花町を南へ突き抜けていく車の中で。


「どうかそればかりは心してお聞きください」


「そればかりは心して、聞いて頂戴」



「それでは、お話しいたします」


「では、話を始めるわ」






「それは、はるか昔……まだこの世界が生まれる前。もう既に滅びてしまった世界の話。玉藻たまもの国のみやこにて。松枝まつがえ帝の皇子・桐生きりゅう帝が崩御され、牡丹の女御のお生みになった桜間さくらま親王が帝の位をお継ぎになった。その御代みよの話――――」



【第二章 終了】

To be continued…

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