16-5 「……いよいよお話しせねばなりませぬな」

 翌日、姿を見せなかった舞に、美香はせっかくプレゼントを持ってきたのに誕生日(正確にいえばその翌日)に体調を崩すなんてと憤っていたが、翼はどことなく不安を抱いた。なぜだかはわからないが引っかかるものがある。だって、昨日はあんなに元気だったのに……いや、きっと昨日遊びすぎて疲れているのだ。そうに違いない。あの子、意外と羽目をはずしやすいから。そう自分に言い聞かせても、苦いものの舌に残っているような嫌な感じは拭えなかった。英語のテストを折りたたむ翼のすぐ前を、結城司の冷たい横顔が通り過ぎていく。翼は一瞬その凍れる美に戦慄した。


 放課後、菅野先生に託されたプリント類を持って、翼は京野家へ向かうことにした。奈々も一緒である。きっと二人は不安を共有できたのだろう。京野家を訪れると、まず舞の母親が出て、やや困った顔をしながらも翼と奈々とを二階へ上げてくれた。翼と奈々とは顔を見合わせて、舞の部屋の扉をノックする。


「舞、あの、起きてる?……あ、あのさ、入るからねっ!」


 翼は声をかけてからドアノブをそっと下ろした。返事はなかった。舞はパジャマ姿のままベッドの上に腰かけて、青白い顔でぼんやりと床を見つめていた。翼と奈々とが近づくと、舞は少し顔を上げた。とても昨日海ではしゃいでいたとは思えない。最後に見たときの舞とはあまりにも違う。愛する人に囲まれて、あんなにもきらきらと笑顔を輝かせていた舞は一体どこに……翼と奈々がびっくりして舞の様子を眺めていると、突如、舞は瞳に涙を浮かべ、翼の腰元に抱きついてきた。


「ま、舞……?!」

「舞ちゃん、どったの?」


 床に膝を突き、しゃくりあげる舞の背中を撫でて、奈々が尋ねる。舞は答えない。ただ翼の夏服のスカートを濡らすだけだ。オレンジジュースとクッキーを載せた盆を持って上がってきた舞の母は、娘の様子に、来客に向かって弱り切ったような微笑みを浮かべた。


「ごめんね、二人とも。体の方は本当はどうともないんだけど……」

「舞……!」


 翼は舞の頭にそっと手を置く。左大臣は、舞の母の手前、ぬいぐるみらしい相好を崩さぬままに部屋の隅で黙していた。



 舞が泣き止み、舞の母が場を読んで退散したところで、二人は舞を再びベッドの上に座らせて、自分たちは床の上に正座した。舞は溢れ出る涙を翼のタオルハンカチで拭い続け、翼も奈々もしばらくは何も言わずに舞の語りだすのを待ったが、やがて翼が口を開く。


「ねぇ、舞、ほんとにどうしたの……?」

「……えー、わたくしから説明した方がよろしいですかな」


 左大臣がしわぶきを一つして進み出ると、舞は小さく首を振った。


「いいの、左大臣。私が話すから……」

「しかし……」

「大丈夫。ありがとう、左大臣、気遣ってくれて。でもね、やっぱり私が話さなきゃ…………本当はね、全然大したことじゃないの。きっと、翼も奈々さんも笑っちゃうと思う。あのね、昨日、結城君と喧嘩したの」


 翼と奈々とは目をしばたかせた。舞はそれをみて小さく笑った。


「……昨日、帰ってきたら、結城君がプレゼントを渡すために家の前で待っててくれて。その時に偶然鈴を地面に落としちゃったんだけど、それを見た結城君が、同じような鈴を見たことがある、って。ルカさんが鈴を使って変身したのを見たっていうんだけど……」

「それって、もしかして、芙蓉を倒したあの日のことなんじゃ……」


 奈々が口を挟む。


「そういえば、舞ちゃんには言ってなかったけど、あの日さ、あたしと翼ちゃんでルカさんのこと尾行してて。正確には、結城を尾行してるルカさんを尾行したんだけど」

「ルカさんが結城君を……?」

「そう。ルカさんはあの日、校門の前で誰かを待ってたみたいだった。多分、舞のことを待ってたんじゃないのかな。でも、結城を見た途端に顔色が変わって、結城の後を追い始めたの。でも、途中で結城が尾行されてることに気付いて、ルカさんに何か用かって聞いて。ルカさんは、確か、結城が昔の知り合いに似てるとかなんとか言ってて……」


「紫蘭!」


 奈々が叫んだので、舞と翼とは飛び上がった。ただ、舞の飛び上がったのは、単にその大きな声に驚いたためではない。


「紫蘭って……」

「ルカさんが言ってた名前。確か、結城に紫蘭って名前だった頃のこと、覚えてないかって聞いて。そうそう、あと、自分の知ってる結城司じゃないとかなんとか」


 自分の知っている結城司ではない――舞は戦慄が背中を駆け抜けるのを覚えた。そうだ、あの日、司はこう聞いたのだった。「お前たちは、僕の何を知っている?」。どうして気がつかなかったのだろう。つまり、白崎ルカは……以前の結城司を知っている?


「それで、どうなったのです?!」


 左大臣が咳き込んで尋ねる。


「その後は、確かすぐ鈴が鳴って、あたしたちは幻術世界の方に閉じ込められちゃったから分からないなぁ。ルカさんに聞いてみればいいんじゃない?それよりさぁ、なんで舞ちゃんと結城は喧嘩する羽目になったわけ?」

「……結城殿は、怪物騒動について姫様が何か知っているのではないかと、前から疑っていたのです。あの日、ルカ殿が鈴を使って変身するのを目撃したために、同じ鈴を持っていた姫様に対して疑念が再燃したのですな。それから、もう一つ。結城殿は、以前の、つまり姫様の幼馴染だったころの結城司の存在に、気付かれていたのです。それで、まさしくルカ殿の言った『自分の知ってる結城司』とは誰なのかを姫様に尋ねたのですが、姫様はお答えになりませんでした。それで、結城殿は、姫様に怒りをぶつけられて……」

「違うよ、左大臣。結城君は裏切られたの。私がきっと答えるだろうと信じてたのに、答えなかったから、私に失望したの。怒ってなんていなかった……それからね、左大臣、私、今思い出したんだけど、結城君の質問ってもう一つあったよね」


 舞は一呼吸置いた後で訊く。


「……紫蘭って、誰?」


 左大臣は額に手を充てて、深々と溜息をついた。


「……いよいよお話しせねばなりませぬな」

「話って……?」


 翼が左大臣と舞との顔をゆっくりと交互に見ながら、どことなく不安げに呟く。奈々はオレンジジュースを、ストローを咥えて一気に飲み干していたが、ストローがグラスの底にあたってズズズと音を立てはじめると、ストローを口から離して言った。


「前世の話ってことでしょ?紫蘭ってさ、もしかしてだけど、その、結城司の前世の名前だったりして……」

「結城君の前世?!じゃあ、結城君も……!」

「左様でございます。結城殿もまた、前世でご縁のある方です。特に姫様にとっては」


 左大臣はなぜだかもの悲しげにそう言った。


「そんな……!なんで今まで黙ってたの?!」

「確証が持てなかったのがひとつ。それからできれば姫様に自然と思い出していただきたかったのがひとつ……姫様、お許しくだされ」


 舞は呆然として開いた口を閉ざせない。まるで頭を殴られたような衝撃だ。結城君とは前世でも一緒だった……一体どういう縁で……それから舞は、あることに思い至って、床に膝を落とし、ベッドの脚にもたれかかっていた左大臣に詰め寄った。


「じゃあ……じゃあ、司が変わっちゃったことも、やっぱり前世のことと関係があるの?!」

「申し訳ありませぬ、姫様。そればかりはわたくしも分からぬのです。ただ……姫様、これもお許しくだされ。左大臣は言おうか言うまいかと迷いつつも、ルカ殿の判断を尊重し、黙っておりました。そもそも盗み聞きに当たりますからな。こんなことをお話するのは、左大臣の恥でもあるのですが……昨日、わたくしは思いがけずルカ殿の電話を聞いてしまったのです。ルカ殿の電話の相手は、恐らく朱雀殿。そして、結城殿が豹変してしまったことには、朱雀殿が関わっている様子……」


 舞は無言で立ち上がった。左大臣の話にすっかり放心状態にあった翼と奈々は、突然二人の間を壁に向かって走り出した舞のことも腰もあげずに見守っていた。だが、左大臣がこの場にいるにも関わらず、舞がパジャマを脱ぎだして、ハンガーにかけられた夏服を引きずりおろしはじめたときにはさすがに我に返って慌てはじめた。翼は咄嗟に脱ぎ捨てられた舞のパジャマを左大臣に投げつける。


「ま、舞……?!急にどうしたの?」

「ルカさんに話を聞きにいく!今すぐ洗いざらい話してもらう!結城君のことも、朱雀のことも、前世のことも……!」

「でも、ルカさん、明日からオーストリアに行っちゃうし!ほら、チェロコンクールがあるからって。前日でどたばたしてるはずだし、何も今すぐじゃなくても……!」

「ダメ!今すぐじゃないと!明日からオーストラリアに行くんだったら、なおさら、今日行かないと!」

「オーストリアだって!」

「舞!!」


 着替え終わった舞は、寝不足と涙のために赤くなった目で二人の友の顔を睨みつけた。駄々をこねる子供のように唇をぎゅっと噛みしめて、舞は懸命に強情と怒りとを装っていた。けれども、仮面は一瞬で剥がれ落ちた。舞の顔に雪崩れ込んできたものは、深い悲しみであった。舞は翼の袖を掴んで、その胸に頭を預けて小さく打ち明ける。


「……ずっと気づいてたんだから。左大臣やルカさんが、なにか隠してるって。私は、嘘とか、隠し事とか、そういうものに鈍いと思ってたのに……どうしてかなぁ、京姫として覚醒してから、急にそういうことが分かるようになっちゃったの。でもいつか話してくれると思って黙ってた。左大臣もルカさんも、何の理由もなく隠しごとする訳ないもんね。でも……もういい加減真実が知りたいの。わがままなのかもしれないけど、お願いだから、全部教えてほしい。どんな苦しくて悲しい真実でも受け入れるから……」


 もう二度と、結城君を裏切らなくて済むように――最後の一言は押し隠した。分かっている。悪いのは私の方だ。私がルカさんや左大臣に無理にでも真実を聞き出そうとしなかったから、結城君を裏切る羽目になった。私が意気地なしだったから。面倒ごとを起こしたくなかったから、そのせいで。翼が舞の体をそっと抱きしめる。奈々は舞が淡々と述べている間、難しい顔をして、舞の言葉に聴き入っていたが、やがて鞄から携帯電話を取り出してどこかへかけ始めた。左大臣が項垂うなだれている様子が、パジャマ越しにも見て取れる。


 電話の相手が出たらしい。奈々が喋り始めた。


「あっ、ルカさん……?どうも。こんにちは。ルカさん、忙しいと思うけれど、あたしたち、教えてほしいことがあるんです。できれば直接会って話をしたいんです。その、結城司のことで。それから、朱雀のこと…………」

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