16-4 「紫蘭って誰…………?」

「本当に、大丈夫か?玄関先まで送ろうか?」

「大丈夫!今日は本当にありがとう、ルカさん!翼と奈々さんのことよろしくお願いします!」

「それは無論構わないが……」


 午後七時。自宅前で降ろしてもらった舞は、まだすやすやと眠っている翼と奈々の方を顎でしゃくってくすりと笑い、それから丁寧に頭を下げた。


「では、ルカさん、おやすみなさい!素敵な一日をありがとうございました!」

「……こちらこそ」


 お辞儀を返して口元を綻ばせるルカ。彼女の元には玲子からの返事がつい先ほど届いたのだった。たった一言――ありがとう、と。


 車は動き出す。自宅の垣根の前に立ち手を振りながらそれを見送って、舞は幸せな溜息を一つつき、増えた荷物を頑張って両手で抱えて門を開けようとする。美味しいお昼とスイカをご馳走になったけれど、はしゃぎまわったから、すっかりお腹が空いてしまった。きっと今夜は母親が腕をふるってご馳走を用意してくれているはずだ。それにきっと、プロムナードのバースデーケーキも。


 門に手をかけて、舞はふと何者かの視線に気がつき、はっと振り返る。このところは日が長いので、暮れかけている空もまだ明るい。残照のために向かいの家の庭先の梢の先までもまだ明らかなほどである。気のせいかしら?舞は尚も不思議そうに住宅街を見渡して、やがて、気まずそうに咳をしながら、ブロック塀の角から姿を現した少年の姿を認めた。驚きのあまりティーセットを落としそうになって、舞は慌てる。空の色に染められるせいばかりではない。頬の産毛があかく燻るのを感じながら舞はおずおずと呟いた。


「結城君……?」

「それ以外誰だって言うんだ」


 司は恐らく照れ隠しのためであろう不機嫌そうな態度で言うと、舞の方へと歩み寄ってくる。舞の方でもついその傍へ駆け寄った。


「どうしたの?なんでそんなところに?」

「お前に用があったんだ。さっきインターホンを鳴らしたら、お姉さんが出て、お前が出かけてるって。もうすぐ帰ってくるだろうけど、お前のお父さんに見つかると何かと厄介だから、家の窓から見える範囲にはいない方がいいって教えてくれて、それで……」


 そういえば、お父さんったら、前に結城君に送ってもらった時、すっごく怒ってたんだった。ナイス、お姉ちゃん!――舞は密かに姉に感謝しつつも、家の外で待ちぼうけを食らわされた司のことを気遣う。


「ごめんね!随分待った?」

「いや、大したことはない。それより、これ……」


 司が突き出した紙袋を、舞は目をぱちぱちと瞬かせて受け取った。「これ、何?」と訊く舞に、司はなぜだか視線を逸らして答えない。紙袋から舞が取り出したものは、桜色の包装紙に包まれてリボンをかけられた、両掌に抱えられるほどの小さな箱であった。


「こ、これ……!」

「誕生日なんだろ?今日」

「プ、プレゼント?私に?!」

「お前の誕生日にお前以外の誰にプレゼントをやるっていうんだ?……一応言っとくが、選んだのは母さんだからな。ぼ、僕はただ、貰いっぱなしは悪いから……!」

「開けてみてもいい?!」


 勢い込んで司の言い訳など聞こうとしない舞に、司は呆れて言った。


「好きにしろ。僕はもう帰……」

「ダ、ダメ!開けるまでちゃんといて!」


 舞は司の帰らぬうちにと慌てて包みを解きはじめる。舞がそんな様子なので、司も帰るに帰れなくなったものと見えて、つまらなさそうに腕を組んだまま、逸らした顔から横目で舞の動作を見守っていた。リボンをほどき、包装紙を破らないように剥がし、小さな白い箱を開けてみて、舞は思わず歓声をあげた。箱の内に収まっていたのは、ハート形をしたガラス製のオルゴールであった。蓋を開けてみると、金のシリンダーが回り始めて、ハッピーバースデーの曲が、この蝉の鳴く夕暮れにはか細すぎるほどの音で、けれども優美に奏でられ始める。舞は二度目の歓声をあげる。


「きれい!」

「……もっと実用的なものにしろって言ったのに」

「ううん!すっごく嬉しい!ありがとう、結城君!」

「だから、選んだのは……」

「もちろん、おばさんにもお礼言ってね!でもね、私は結城君がこの家までわざわざ来てくれて、私を待って、渡してくれたことがすっごく嬉しいの。だから、ありがとう、結城君!」

「べ、別に母さんが渡しにいけっていうから、そうしただけで……!」


 舞は司に向けた満面の笑顔を再び俯けて、オルゴールを見下ろす。今日はなんて素敵な日なんだろう。私は世界一の幸せ者かもしれない。友達、結城君、家族――大好きな人たちに誕生日を祝ってもらえるなんて。大好きな人……オルゴールの音が止まるのと共に舞は自分の胸の高鳴りに気がつきはじめた。プレゼント用の箱に収められたガラス製のオルゴールの内部は、箱の白さを透かしつつも、暮れなずむ空の色や、灯り始めた街灯の色、そして、見下ろす舞の瞳の輝きまでを映し込んで、まるで宝石をめいっぱい湛えたかのように誇らしげに見える。舞はその内部に、司の宵闇のような瞳の色を見つけた気がした。


(私……)


 ゆっくりと舞は顔を上げた。司の目と、舞の目とがぶつかった。視線を外そうとして、舞はそうしかねている自分を、司の瞳の中に見た。どうしたんだろう、私、なんだかとっても体が、顔が、熱いような。大分風が出てきて涼しくなってきたというのに。嫌だな、今日、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな……


「京野……?」


 司が怪訝そうに尋ねる。答えなくっちゃ。何か、なんでもいいから。それでも答えられないでいる。言葉でさえも、司の瞳に吸い込まれてしまったかのように。どうしてこの瞳を冷たい瞳だなんて一度でも思ったのだろう。確かに輝きを放ちつづけている瞳ではないけれど、優しくて、たおやかで、どこかさびしげで、それでなんだか懐かしい……


「どうかしたか?」

「あっ、えっと……」


 我に返って、舞は瞳を伏せる。どうしてなの?どうかしたかなんて尋ねてくれる声は、なんでそんなに優しいの?


(私、やっぱり……)


 その先は胸のうちでつぶやくのも躊躇ためらわれて。何も知らずに、まっすぐに舞を見つめる司の視線がなんだか切なくて。思わず、オルゴールの箱を取り落とす。


 恐怖が冷水のように舞の体に降り注ぐ。青ざめた心は一瞬ときめきを忘れ去った。箱からオルゴールが転がり落ちて、地面に叩き付けられるその間際に、二人の手が同時にオルゴールを受け止めた。空中で触れ合った指先と、舞の手の上からオルゴールを包み込む司の手の感触とに、舞は紛れもない真実を見出した。



「……京野」


 司の呼びかける声に、舞は微かに身を震わせる。夜から吹き抜けて来た風が、屈んだ姿勢のままの舞の髪をそよがせて、焼けたうなじをくすぐった。その感覚までもが、不思議に舞の胸を、日差しの下に掲げられた砂のように熱くさせた。まるで夜風さえもが、司の声であるかのようだ。あるいは、舞は触れ合っている指先以外の肌で以って、より鋭敏に司を感じているのかもしれなかった。


 舞は潤んだ瞳をもたげて、司を見上げた。舞は願っていたのだ。司が似通った潤いで舞を見つめ返してくれることを。けれども、顔を上げた瞬間に、舞の願いは儚く砕け散った。司の目は乾いていた。その瞳は先ほどまでの吸い込まれそうなほどの色の深みを失って、暗く凝固し、その底から敵意すらも醸し出すような鋭い光を放って、舞の足元のただ一点を見つめていた。唇は固く引き結ばれ、眉は思わぬ懸念を背負ったとでもいうように、重たげである。


 期待を裏切られた悲しみと、たった今自分の顏に露骨に映ったであろう様々な感情をごまかすために、舞もまた司の視線を追った。ああ、鈴が上着のポケットから零れ落ちたのか。さっき、奈々に素敵なネックレスとキーホルダーを貰ったので、首にはネックレスをかけることにして、鈴はキーホルダーに取り付けたのだ。それが、今、屈んだ拍子に、つい地面に転がり落ちたらしい。


 鈴はその透き通った内部に花の色をちらちらとほのめかせていた。舞は笑いそうになった。なんだ、こんなもののために……こんなもののために、舞はいかにも意味ありげに司と視線を交わす機会を失ったというのか。そう思うと、舞は笑いたい気分のたちまち消えゆくのを感じた。舞はなにか傷つけられたような表情で身を起こし、箱のうちにオルゴールを収めた。舞はそうした一連の行為のうちに、無意識のうちに司の手を振りほどいていたのだが、司はその手で鈴を拾い上げて、掌の上にのせて見遣った。その呼吸がかすかに乱れていることに、舞はまだ気付かない。


「……ありがとう」


 手を差し出して、舞は言う。司は黙って鈴を舞の手の上に返したが、舞の見つめるうちに、鈴の握られている舞の手に視線を寄せている司の表情は思案と疑念とに白けていった。それがあまりに明瞭に舞の目にも捉えられたので、舞もついに異変に気がつく。


「結城君……?」

「その鈴……」


 司の言葉は舞にはほとんど聞き取ることができなかった。「えっ?」と舞は聞き返す。


「……いや、似たようなものを見たことがある」

「そ、そう……?」


 どう返すべきか分からずに、舞は戸惑う。そもそも、司が何を言いたいのかが、舞にはさっぱり読めないのだ。司がなぜこれほどまでに鈴に食いついているのかも。二人はやがて居心地の悪い沈黙に陥った。その虚無を掻きたてるように、からすが声をあげる。天頂には青い天馬たちが群れつどいはじめている。舞は遂にこらえきれずに口を開いた。


「あ、あの、結城君、そろそろ……!」

「お前は何を知っているんだ?」

「えっ……?」


 司の静かながらに刃の鈍い白銀の光を閃かせている口調に舞はたじろぐ。司は舞の目を見ずに続けた。


「お前は……お前たちは、僕の何を知っている?僕が僕じゃないというのはどういうことなんだ?」

「ま、待って、お前たちって……?」

「同じ鈴を持つ女だ。金髪の、白い学ランを着た……」

「ル、ルカさん?!」


 舞は口を噤んだが間に合わない。司の目はぱっと口を片手で覆った舞を見逃さなかった。司の顏に不信が募っていく。


「知り合いなんだな?さっきお前を車で送ってきた奴の声に聞き覚えがあると思ったが、やはり……」

「でも、どうしてルカさんが……!」

「質問をしているのは僕の方だ」


 司は有無を言わさぬ口調で冷やかに舞を遮る。


「お前は答えるだけでいい。もう馴れ合いのうちにうやむやにはしておけない。僕の疑念は確信に変わりつつあるんだ。お前たちは、僕じゃない結城司という奴を知っているんだな。それが誰なのかを答えるのが一つ。それから、紫蘭とは誰かを答えてもらうのが一つ。もう一つは、お前たちが誰なのかということだ。僕は以前ルカとかいうその女がその鈴を使って変身するのを見た。いざ言葉にするとバカらしいにもほどがあるが……その鈴は一体何なんだ?その鈴の力を使って、お前たちは何をしている?前々から、僕は、お前がこの町に現れる怪物について何か知っていると疑っていた。決して無関係ではないだろう。さあ、答えてもらおうか、京野」


 舞は司の勢いに思わず後ずさる。答えに窮している――それもあるけれども、何より司の表情が恐ろしくて。出会った当初、司の表情は冷たく閉ざされていた。そうは言っても、それは彼が他者を拒み、遠ざけるために氷の仮面を被っていたというそれだけのこと。彼は他者に対して軽蔑こそ抱いていたにせよ、他者を傷つけ、追い詰めようとはしていなかった。司が転校してきたその帰り道に、舞が余計なことを訊いて彼を怒らせたときもまた、彼は舞の彼の心の内に入り込んでくるのを拒んだだけのことである。だが、今の司は……


 形成が逆転したのである。今や、司が舞を追い、舞は必死に彼から逃れようとしていた。司は舞から答えを引きずり出すためには舞を傷つけることも辞さないだろう。司はこの瞬間、今まで彼をさいなみ続けてきたものたちに加勢されつつ、これまでの痛みと苦しみとを、何としても答えを聞きださんとする頑なな意志に変えて、舞に迫りきていた。司の目の中には、屈辱への怒りさえもが燃えていた。それでありながら、彼は努めて冷静に、残酷なほど冷然と、舞を詰問しているのだ。


「京野、どうした?なぜ答えないんだ?」

「そ、その……」

「いつか教室で取り乱したとき、お前が泣きながら謝っていた、司というのは誰だ?」

「あっ……!」


 では、やはり私はあの時、余計なことを口走っていたのか。司のおぞましい幻覚に襲われたあの時――衝撃のあまり、舞は蒼白になる。不思議なことに、詰問した司もまた、その問を発すると同時に顔色を失ったように見えた。


(どうすれば……)


 舞は喘ぐ。質問に答えるべきか。けれども、答えたところで何になる?以前の結城司の話を、現在の結城司が知ったところでどうなるというのだ?大体信じてもらえるような話ではない。信じてもらえたところで、所詮真実は、司に納得も安らぎも与え得ないだろう。それに、司が変貌してしまった理由がまず分からない。左大臣ですらはっきりとした理由を知らないというのに、上手く説明できるはずがない。それに、鈴のことも……四神たちと共に、京姫として戦っていること。迂闊うかつに人に言うべき話ではない。でも、司にだったら――いや。やっぱり、駄目だ。


「ゆ、結城君……」


 舞の声はかすれている。それきり、言葉は続かない。筆に含まれた墨は元よりわずかであったから。そしてまた、司も何も言わなかった。



 沈黙――そのうちに込められた舞の苦悩、狼狽、焦燥の意味を読み取りかねて、司の顔には、刹那に失望の色が浮かんだように見えた。それを見取った瞬間、舞は思わず全てを語りそうになったのだが、続いて現れた司の表情が、舞の口を閉ざした。司はふっと笑って舞から顏を逸らす。その唇の端が嘲りのために歪んでいる。


「質問が難しすぎたか?お前には」

「結城君……!」


 司は鼻を鳴らす音で、またもや舞を遮った。


「まあ、答えたくないのなら無理に答えてくれないでもいい。だが、はっきり言っておく。僕は僕だ。赤の他人の幻影を僕に押し付けるのはやめろ。それからもう一つ。二度と、僕に関わろうとするな。いいか?二度とだ」

「ゆ、結城君、ちがっ……!」


 そびらを返そうとする人は、最早笑いさえも崩して、流し目で以って舞を見捨てようとする。


「馬鹿の一つ覚えみたいに、僕の名前を呼ぶのはやめてくれ。不愉快だ」

「ま、待って……!私……!」

「駄目だ。時間は十分に与えただろう。いいか、京野?……裏切ったのは、お前の方だ」

「…………結城君ッ!!」


 舞が必死に呼び止めるのも虚しく、司は立ち止まろうとはしなかった。追いかけることは、舞には出来なかった。司の最後の言葉が舞の胸に突き刺さっていて――裏切ったのは、お前の方だ。


 舞はプレゼントの箱を抱えたまま崩れ落ちる。なんてバカなのだろう、私……結城君は私のことを信頼してくれていたのだ。私がきっと答えてくれるものと、信じて。ああ、結城君……!舞はなりふり構わずアスファルトの上に伏した。


   「あなたは司なんかじゃない!結城司じゃない!」


   「許して!許して!!司っ!!!」


 その言葉を口走ったのはほとんど無意識だった。それでも、結城君の耳にはしっかりと届いていて、しっかりと胸に刻み込まれていて。気付いていたんだ。そして、ずっと苦しんでいたんだ、もう一人の結城司の幻影に――やっぱり私は答えてあげればよかった!たとえ正気を失われたとしても、信じてもらえなかったとしても。だって、そうすれば少なくとも、結城君は裏切られずに済んだのだから……私という卑怯者に。


 今から駆けていって、全て話したい。私の知っているだけのことでも、せめて……でももう叶わない。二度と関わるなと言われてしまった。結城君は二度と私の話を聞こうとはしないだろう。


「姫様……」


 荷物のなかから抜けてきた左大臣が舞の肘に手をかける。だが、舞は顔を上げることもできなかった。数分後、舞の帰りの遅いことを案じた姉が、道路でうずくまっている妹の姿に気がつくまで、舞は道路で声もなく泣き続けていた。




    紫蘭――紫蘭って誰…………?

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