15-7 「白虎、ただ今参上いたしました」

 その瞬間、ドーンというすさまじい音がして、堂内が激しく震えた。土煙が立ったために、蝋燭が掻き消えて白虎は間近にあった芙蓉の姿を見失う。煙を透かしてほのかに光が差し入っているように見えたように思われたのは気のせいだろうか。いや、間違いではないようだ。


 白虎は渾身の力を振り絞り、風を起こして煙を薙ぎ払った。現れたのは、破られた壁と、積み上げられたその瓦礫と、戸外の光を背後に立ちはだかり、噎せこむ二人の少女のシルエットであった。その顔を判別できぬうちから、白虎にはその正体が分かった。思わず喉が詰まる。


「ひめさ……!」

「白虎!!」


 麗しい鈴の音のような声に名を呼ばれ、白虎は感激のあまり身が震える思いであった。駆け寄ろうとする京姫の姿を見て、白虎は慌てて彼女を留めようとした。まだこの堂内には芙蓉の毒の香が漂っているのである。ところが、白虎が京姫を止めるより早く、京姫は地面に倒れかけた。玄武がその肩を急いで支える。


「姫、大丈夫?!やっぱり霊力を……」

「平気……!玄武、それより、白虎を……!」


 玄武は京姫と白虎とを交互に見て、それから、姫を案じつつもこちらへ向かって駆け出して来た。地面に座り込んでしまった京姫にはテディベアが付き添っているのが見える。ところで、芙蓉の姿が見当たらないのはなぜなのか――


 駆けてくる玄武の足元で何かが弾けた。玄武は咄嗟に跳躍すると、降り立った先で弓を構えてみせた。ちょうど、白虎の上の辺りに向けて……白虎の額に生温なまあたたかい雫が垂れてくる。縄状のものが首を絡めとるのを感じる。芙蓉は白虎の肩を貫いている氷の先端に降り立って、その鞭の先でしっかりと白虎の首を絞めつけているのであった。


「芙蓉……!」

「その矢をおろすことですわね、もし白虎の命が惜しいというならば」


 芙蓉は歌うように鷹揚に言った。玄武は白虎を一瞥して後、弓をおろしながらも、敵を唾棄する不遜な態度を一層露わにしてみせた。


「お前たちの遣り口っていっつも一緒なんだね!人質をとるような卑怯な真似ばっかり。進歩っていうものがまるでない!」

「進歩しないのはお前たちの方でしょう、玄武?お前たちがいつまで経っても同じ手に引っかかるからですわ。それに、面白いのですもの……人質をとられたときのお前たちのその表情かおが」


 芙蓉は自らの手首に鞭を巻き付けて、指を失って血を流し続けるその手を見せつけるようにぐいと持ち上げて、白虎の首を締め上げる。「やめてっ!」と玄武の肩越しに叫んだのは京姫であった。芙蓉は立ち上がろうとして再び崩れ落ちる京姫の姿にくすくすと笑う。


「その表情ですわよ、京姫。お前が一番上手よねぇ?人質をとられた時の表情は…………」


 芙蓉は間一髪で飛び上がった。そうでなければ、敬愛する京姫への侮辱に怒り狂った白虎の氷の剣で、その鞭と同様にその裳に包んだ足首を切り落とされていたかと思われる。白虎の攻撃を逃れて天井高く浮かび上がった芙蓉の右胸を、玄武の矢が射抜いた。芙蓉の一瞬怯んだ隙に、玄武は白虎の元へと寄っていく。


「白虎!」

「玄武……私の剣で、この氷を……!」

「オーケー!」


 桐一葉を拾い上げて、玄武は慣れない手つきながらに剣を握ると、氷柱を切りつけた。床に転がり落ちた白虎の体を、玄武は膝の上にその上半身を抱くようにして支え、氷の先端の突き刺さった右肩に手をかざした。氷が溶けて消えていくとともに白虎の傷口も塞がっていく。白虎は深く息をついた。


「すまない、玄武……」

「いいってことよ!」


 玄武は親指をぐっと立てて笑うと、白虎にサーベルを手渡した。その次の瞬間に、二人は素早く飛び上がって、芙蓉の鞭先をかわした。


「玄武、姫様を!」

「了解!援護するよ!」


 玄武は芙蓉に矢を向けつつも巧みに後退しながら、京姫を庇うように芙蓉の前に立ちはだかった。


「芙蓉……そろそろ、堪忍しなよ……!」


 放たれた玄武の矢を鞭の柄で弾いて、芙蓉は尚も不敵に微笑む。


「堪忍?堪忍しろと?それはわたくしの台詞ですわよ……!」

満身創痍まんしんそういのくせに、往生際の悪い……!」


 白虎の氷柱つららが頭上から芙蓉に降りかかる。芙蓉はそのいずれにも身を触れずに済んだかと思われたが、再び浮遊しようとしたその裾を、氷柱の一つが床に打ち付けていた。離れようと芙蓉は身を捩るが、その間にも、白虎は剣を構えていた。


紅葉狩もみじがり!!』


 空を切った剣から絢爛たる紅葉の錦帯が現れて芙蓉の身を包み込むと、突如として嵐がその場に吹き荒れて、見る者の目にはその鮮やかな色を変化させながら、不浄の敵に襲い掛かった。見つめる白虎の波打つ金色の髪と白いマントとがなびく。白虎は尚も慎重に剣を下ろさぬまま、嵐の鎮まるのを待った。


「終わった……の?」


 風がやんだ。乱れた髪にも構わずに、京姫はゆっくりと立ち上がろうとして、玄武に支えられた。玄武の二の腕に手をかけてなんとか立ち上がった京姫は、玄武がほっと息をついてすくめたその肩越しに、秋の姫君が脱ぎ捨てた衣装のような、おびただしく降り積もった紅葉の小山を見た。芙蓉の姿は見当たらない。


「姫様、まだ油断されませぬように」


 白虎は紅葉の小山から目を離さぬまま忠告すると、左手をそっと前に突き出して、何かを払うような仕草をしてみせた。わずかに風が起こって、色づいた楓や銀杏の山がゆるやかに均されていく。京姫、玄武、左大臣とが息を詰めて見つめる先に、やがて芙蓉の人差し指を失った手が血に濡れて力なく横たわっているのが現れた。京姫は思わず玄武の腕をぎゅっと掴んだ。


 長い沈黙があった。その間、誰もが瞬きもせず、呼吸さえも忘れていた。ようやく白虎が動いて風を起こし、薄色の長い髪に葉をもつれさせて、うつ伏せになった芙蓉の姿を曝け出させた。それは、色鮮やかな紅葉に塗れ、世にも華麗な衣装を纏った、おぞましいほど清らかな女の遺骸であった。しかし、こんな遺骸もいずれは……やめよう。白虎は首を振って空想を掻き消した。この遺骸は、私の手で浄化させる。


 振り仰いでみれば、曼荼羅も仏像も元の清らかな厳かなお姿を取り戻していた。全ては悪い夢であったかのように。ただ、乙女たちによって破られた壁だけは変わらずそのままであるけれども……


「白虎!危ない!」


 京姫が叫ぶ。次の瞬間、白虎は何者かの猛烈なタックルを受けて投げ飛ばされ、台座に頭をしたたかにぶつけた。呻きながら開いたぼやけた視界の中に、変身が解けて桜花中学の制服姿で床に倒れ込む舞の姿が映る。そのうずくまった背に髪を振り乱し、牙を剥いた般若の面の芙蓉が飛びかからんとしていた。


「姫!」


 玄武が矢を放つ。矢は芙蓉の背に突き刺さったが、芙蓉は最早もはや怯もうとはしなかった。玄武は咄嗟に蘆垣の技を用いて舞の体を蔓状の植物で包んで守ったが、ひらりと方向転換をして飛来してきた芙蓉を防ぎきることはできなかった。芙蓉の鞭に弓を構える腕を打たれて、玄武は仰向けに倒れ込んだ。


「玄武!」


 歯と歯のぶつかりあうような音さえも交えた耳障りなけたたましい笑い声をあげて、芙蓉が眼球の零れ出るかと思われるほどに見開かれた血走った目と、真っ赤に染まった口腔と突き出した牙の白さも露わに、残された腕の残された指に光る鋭い鉤爪を突き出して、白虎の方に迫りくる。白虎はサーベルへと手を伸ばしたが、舞が白虎を庇うべく突き飛ばしたときの衝撃で、剣は白虎の手を離れ、到底届かぬ位置に転がっていた。仕方がない……白虎は腹を決めた。


 白虎の名を呼んではっと顏をあげた舞の制服に、紅の血が飛び散った。見開かれた翡翠の瞳に映り込んだのは、芙蓉の後ろ姿と、その首筋に食らいつく美しい一頭の獣である。


 雪のように白く輝く毛並、その全身を飾りたてる王冠を象嵌ぞうがんしたような金色の縞模様、芙蓉の身を抱え込んでいる爪のある逞しい前脚、しなやかな輪郭、太く、かつ引き締った長い尻尾――舞が思わず見とれる前で、その巨大な美しい虎は、薄灰色の瞳に野性を光らせて低く唸り、牙をますます深く芙蓉の首に突き立てると、芙蓉の背に回していた前脚をその肩にかけてぐいと押し倒した。舞は目を閉じて、降り注ぐ鮮血の雨を凌いだ。獲物の体に前脚をかけ、咥えていたその首を床に落として、白虎は吼えた。それはまさしく勝利の咆哮であった。


「白虎……!」


 舞は獣の傍に赴かんとする。その時、床に転がり落ちていた芙蓉の首が、長い髪を引き摺ったまま浮かび上がり、舞に鋭い歯を剥いた。その形相のすさまじさに、舞は凍りついて声も出ない。


走井はしりゐッ!』


 舞の肩を冷たいものが駆け抜けていく。濁流が芙蓉の首を押し流して、床に染み入って消え去った。聞き馴染みある声に振り返った舞は、崩れた壁に手をついて荒く息を吐きだしながら、額の汗を拭って、無理やりながらに微笑む青龍の姿を見た。


「随分、派手に、やったみたい、じゃない……!」

「青龍!」


 喜びの声をあげて、玄武が起き上がり、青龍の元へ駆けつけた。


「大丈夫?!」

「うん。こまちゃんが大分助けてくれたから……!」


 と、白虎も猛々しい獣の姿から、金色の髪の中性的な少女へと戻った。床にへたり込んだままただ青龍の到着を喜んでいる舞の元へ、ルカは寄っていってその傍らに膝を落とした。


「姫様……」

「ルカさん……!」


 舞はひしとルカの体に抱きついた。ルカはやや戸惑いながらも、小柄な少女の華奢な背に触れる。


「申し訳ありません。私のせいで……」

「よかった!ルカさんが無事で!」


 舞はルカの胸のうちで感涙にむせんでいる。


「姫様……」

「ほんとに、ほんとに、よかった……!」


 舞の落ち着くのを待って、ルカはそっと舞から身を離すと、改めてひざまずき、その右手の甲に唇を落とした。舞は涙に濡れた目で、頬をほんの少しだけ赤く染めて、雪山のようなルカの高貴な鼻梁が、自分の小さな手に触れる光景を、疲れのせいなのか、なぜだかぽーっとするような、湯の中にいるような、不思議な心地で眺めていた。


「遅ればせながら、白虎、ただ今参上いたしました」


 手の甲から唇を離し、恭しく舞の手を押し戴いてからその膝の上に返したルカに、舞はまた抱きついた。


「ルカさん……!」


「姫!宝物!」


 慌てたように玄武がやってきて怒鳴る。舞はルカの腕の中で小さく身を返してみた。玄武は首のない芙蓉の遺骸を遠慮も躊躇もかなぐり捨ててまさぐり始めた。



「た、宝物……?」

「篝火との約束だよ!あいつにあいつの宝物を渡せば、青龍の毒を消す薬をくれるって!芙蓉が持ってるはずなんだ!探さないと!」

「姫様、芙蓉の毒の香は全て処理し終えましたぞ……!」

「左大臣も探して!」


 玄武にならって、舞、ルカ、左大臣も芙蓉の遺骸の元へと集まった。青龍は瓦礫の傍に座り込んでほとんど倒れかけている。一瞬凪いだ海が再びざわめきはじめる。

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