15-6 月宗寺本堂地獄絵巻

 芙蓉の鞭の先を交わした白虎の剣が閃いて、唐衣の袖に描かれた薄色の蝶の文様を引き裂いたと見えた。蝶は葡萄えび色の絹の内を羽ばたいて刃を逃れ、袖を抜け出すと白虎の鼻先に妖しくきらめく鱗粉を振りまいた。白虎は今度こそその翅を破った。と、蝶によって一瞬視界を塞がれたその隙に乗じて、天井高く飛び上がった芙蓉の鞭が白虎の足首を捕らえた。白虎の身は容易く宙に持ち上げられ、壁にかかった曼荼羅と、床とに叩き付けられた。もう一度振り上げられたその時に、白虎は剣で鞭を断ち切った。白虎は仏像の台座の上に投げ出される。


「あれを御覧なさいましな」


 芙蓉が破れた袖で示した先には、月宗寺創建の方、お清の方が御手ずから織ったとされる曼荼羅が掲げられているはずであった。全三幅。いずれも縦一丈六尺、横一丈余りにも及ぶ巨大な曼荼羅まんだらであり、本来であればそこには優美な御仏の姿が佇んでいるはずであった。けれども、白虎がうめき声さえ押し殺しながら見遣った先にあったものは、地獄の悪鬼どもが罪人どもを釜で煮詰め、鋸で引き裂き、棒で以って針山に追いやり、刃で以って皮を剥ぐおぞましい惨状であった。彼らは織り込まれたなかでうごめき、声をあげていた。緋牡丹のように鮮やかな血の色が飛び散るさま、肉や骨が断たれあるいは砕かれる音、罪人たちの泣き喚く声と悪鬼の怒声、地獄の業火の燃え立つ熱までもが、忌々しいほど精密に織り込まれ、繰り広げられている。下手な演出をしてくれるものだと、白虎は芙蓉を睨みつける。芙蓉は玉虫色の紅を歪ませた。


「まだ足りませんの?」


 芙蓉が鞭を振り上げる。白虎はそれを避けるべく立ち上がるが、立ち上がったその身を何者かが背後から羽交い絞めにした。堅く冷たいその腕の感触に慄き、わずかに首を振り向かせれば、そこに祀られていた観音菩薩像が、以前の姿とは似つかぬ、目を剥き口角を引き攣らせた鬼のような形相で白虎の身を押さえつけていた。驚いて見遣る間に、菩薩像は青い肌に角と牙とを生やした悪鬼へと姿を変えた。


 芙蓉の鞭が振り下ろされる。悪鬼が白虎の肩に牙を立てる。その痛みに白虎は歯を食いしばりながら、悪鬼の像を背負い投げの要領で投げ飛ばした。鞭は白虎を避けて悪鬼の背にあたり、悪鬼は声をあげて砕け散った。


「ほほ、そうでなくっちゃ面白くありませんわ……!」


 芙蓉が高らかに言い放つ。白虎は到底笑うような気分にはなれない。我が身を抱え、地獄絵図が奏でる阿鼻叫喚の旋律を聴きながら、白虎はすでに相当に体の痛めつけられていることを、毒が体にじわじわと回り始めてきたことを感じ始めていた。不審な動悸がする。血管を通る血が冷たい。頭が重たく、なんだか霞みがかってしまったようだ。それに、視界もぼやけてきたような。


 さっさと蹴りをつけなくてはいけない。焦りが身を震わせ、呼吸を加速する――駄目だ。そんなに息を吸っては、毒の回りが速くなってしまう……


「さあ、どうしたんですの?早くここから出なければ毒がまわりますわよ?」


 芙蓉は白虎の心の内を見透かしたように挑発してみせた。


「それとも、死んであのようになりたいんですの?」


 白虎は台座の影から頭をもたげはじめたものに気がついた。それは、先ほど無残にも芙蓉に殺された者たちの遺骸であった。異様なほどに早く腐敗が進んだ彼らは、もう男か女とも、若きか老いたるかも見分けがつかぬ。そして、黒ずみ、腫れあがった、朽ちかけた体で台座を昇ろうとして、その身を食らう野犬のような怪物どもに引きずりおろされていく。怪物どもの牙が彼らの脛や腹に齧りつくと、皮膚が破け、腐肉と煮詰められた血のにおいが漂い出し、一瞬間、芙蓉の香のにおいをも圧した。白虎は不意に吐き気を催した。食らわれる彼らの姿は、伯父の机の上にあった九相図に描かれていた死骸そのままの姿であった。ただ、彼らが食われながら悶えていることを別とすれば。


 憤りのあまり青ざめる白虎に、芙蓉は愛おしげにさえ見える表情で笑いかける。


「懐かしくはなくって、ルイ?」

「貴様……ッ!」


 白虎の剣を持つ手がわなないた。


「よい表情かおですわよ、ルイ。とても、とても……えぇ。わたくしに対してもっと憤ればいい。もっといかればいい。もっともっとわたくしを憎めばいい。けれども、絶対に。そう、決して……!わたくしの憎しみには、はるか及ばなくってよ!」


野分のわき!!』


 吹き荒れる風が芙蓉に襲い掛かる。けれども、芙蓉は泰然として風に髪を靡かせていた。煽られた袖から紫色の蝶が無数に飛び立って、芙蓉の身を包む紫色の眉となって、主を守った。風が止むと、蝶は紫色の粉となってぱらぱらと剥がれ落ちた。その向こうに、芙蓉の姿はない。


 ゆらめく蝋燭がはためくものの影を白虎に投げかけた。芙蓉の鞭を素早く交わし、台座の淵に立った白虎は、台座の下より足首を掴んできた死者の手を切りつけると、その頭を蹴って宙に高く飛びあがり、サーベルを振り上げる。


「遅いですわっ!」


 芙蓉は刃の先を避けて勝ち誇るが、白虎は着地するより早く氷の足場を作って蹴りだすと、再び芙蓉の身に斬りかかった。逃れようとした芙蓉の、破れた袖から露わになっていたその腕を、氷柱つららが刺し貫いて留めた。白虎の刃は、芙蓉の左肩を断ち切った。


 降り立った白虎に群がる牙と死者の腕は、白虎が剣の先で床を突くなりたちまち凍てついて砕け散った。その白いマントの肩に滴る赤い雫に気付いて、白虎は飛びのいた。床を鞭が弾く音が高く響いた。


 白虎は飛びのいた先で思わず片膝を突いた。やはり体は少しずつ毒に蝕まれていくようであった。そんな白虎を見下ろして、片腕を切り落とされた芙蓉は、失われた袖のあるべきところから紅の滝を流しながらも、痛みに顏を歪めるでもなく、不思議なほど静かな瞳をこちらへ向けていた。傷ついた肩を庇うでもない。芙蓉は右腕に鞭をさげて、何事もなかったかのように冷然としている。却って白虎の方が毒のために息を荒げている始末だ。


 芙蓉の背後には蠢く地獄絵図が飾られている。悪鬼どもは罪人を打ち、罪人は喚き、泣き叫び、許しを乞いあるいは悪罵する。永劫かと思われる時間に繰り返される彼らの営みの前に立ちはだかる、無言で血を流す芙蓉は恰も地獄の女王の如く。悪鬼どもの女帝の如く、あるいは苛まれながらも威厳を保ち続ける悪徳の妃のごとく。


 芙蓉はふっと微笑んだ。


「……続きを」


 眉をひそめる白虎の目の前に、芙蓉は鞭を打ち付けた。


「さあ、続きを……!」


 敵に促され、白虎は立ち上がらぬ訳にはいかない。床から突き出た氷の剣を、芙蓉はあるいは交わし、あるいは鞭でその尖端を薙ぎ払って避けた。白虎はその砕かれた氷の破片から身を守りつつ、氷柱ひょうちゅうの影に紛れて、芙蓉に向かって駆けていく。芙蓉の背後に回り込んだ白虎は、氷の橋を宙に築いて駆けあげ、その背に斬りかかろうとする。ところが、不意に眩暈めまいに襲われて、白虎の足ははからずも氷の橋を滑り落ちた。


 身を翻した芙蓉はそれを見逃さなかった。芙蓉の鞭は蛇のごとく自由にしなって白虎の足首に巻き付いた。芙蓉がぐいと鞭持つ肘を引いたために、白虎の身は一度空中に固定されたが、たちまち鞭はほどかれて白虎の身を離した。と、白虎は腹部に鋭い一撃を食らって、床へと打ち付けられる。その右肩を、床から生えた氷柱が貫いた。


「……くぅっ……!」


 白虎の右手が剣を取り落とす。芙蓉はふわりと凍った地面に降下して、その白い清らかな面を踏み、氷柱の上に仰向けの姿勢のまま串刺しにされた白虎を見上げた。白虎は身を抜くべくもがいたが、己の身から突き出た不気味なほどに美しいままの氷の針の尖端と、肩を襲いくる激しい痛みとには、十分に白虎の戦意を鈍らせるための威力があった。芙蓉は屈みこんで氷柱を滴る白虎の血をちろりと舐めとると、今度は我が身の傷口に触れて、その血に濡れた手を白虎に向けて伸ばした。白虎は芙蓉の冷たい手に頬を触れられても、指先一つを以ってさえも抗えないでいた。


「無様ですわね」


 芙蓉は静かにそう呟いて、白虎の頬を汚すと、尚も赤黒く濡れた指で白虎の唇をまさぐった。


「でも、お前にはふさわしい死に方ね。そうではなくって、ルイ?」


 そう問われた直後、白虎の瞳に憤怒の炎が燃えた。白虎は芙蓉の指先に噛みついたが、芙蓉は今更手を引っ込めようともしなかった。指を噛みきられて、それが、床に吐き出されるのを見てもなおも。損なわれた指の先から垂れる血に白虎がせるのを見たとき、芙蓉の顏にようやく狂気の笑みが蘇った。そして笑声が堂内に高く響いた。


「指の一本!たったそれだけ!誇りを踏みにじられ、記憶の傷口に塩を擦りこまれ、その姿を嘲笑われて。それでもお前に傷つけられるのはわたくしの指たった一本だけなのですわ!それがどれだけ無様なことか、お前に分かって?!嗚呼、ほら、御覧なさい!この腕と、この指と!お前に奪えたのはたったのこれしき。もうこれ以上、お前はわたくしから何も奪えない!なにも!なにひとつとして!わたくしがお前をどうとでも出来るのにも関わらず、お前はわたくしになにもできない!これを望んでいたの!そのためにわたくしが払わなければならなかったのは、指の一本と腕一つ。たったこれだけ!!!!」


 芙蓉の笑声は白虎の鼓膜をつんざき、地獄のざわめきさえも制した。白虎は忌々しげに目を閉ざした。これこそ狂気である。この狂気の闇に呑みこまれゆくのかと思うと、あまりよい気分はしない。無論、自分はこんなところで死に絶えるわけにはいかないのだ。けれども、もうそろそろ意識が朦朧としてきている。一秒ごとに肩の痛みが薄れていくように感じるのは、恐らく毒のせいだろう。認めたくはないが、芙蓉の言う通り、無様な姿だ。己の氷に刺し貫かれて身動きがとれず。このままでは、芙蓉が手を下さずとも毒で死ぬ。無論、芙蓉は自ら手を下すだろうが。出来るだけ痛くないことを期待したいが、残念ながらきっと相当に痛い方法であることは確かだ……ならば、やはり死ぬことはできない。


 芙蓉は笑いの発作から抜け出すと、袖の内にひそめていた鞭を取り出した。鞭はひとりでに白虎の首に絡みつく。なるほど、そういう方法か、と白虎は思わず胸中呟いた。


「さあ、白虎。わたくしとしてはいくらでも長引かせたいのですけれど、もう終わりにいたしましょう。あんまり引き延ばしたためにまたせっかくの復讐の機会を失っては残念ですもの。でも、うんと苦しくして差し上げる。覚悟はよくって?」


「……いや、ちっとも」


 白虎の左手に白銀の刃がきらめいた。

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