第十三話 雨と月

13-1 白崎邸へ

「うわあ……うわあ、うわあ」

「他になにかおっしゃってください、姫様」

「だ、だって、こんな豪邸だと思わなくて……!」


 白崎ホテルの開業の歴史を紐解いていくと、その発端は明治年間に遡る。長崎にてかのシーボルトに教わり、蘭学医として一通りの成功を収めた白松徳玄しらまつとくげんを祖父に持つ白松清三郎しらまつせいざぶろうは、大学卒業後、その放蕩三昧の日々を嘆いた父の命令で洋行。ヨーロッパ各地ならびにアメリカを回り、三年後、西洋式の高級ホテルの構想を持って帰国した。三男とはいえ、いい加減にまともな職に就いてほしい父親は息子の考えをなにを馬鹿なことをと跳ね除けたが、結局そのまま洋行前と同じ遊蕩の日々を送っていた清三郎は、半ば追い出されるようにして婿に入った白崎家で気運を掴むこととなる。白崎家は、江戸時代には、この宿場町の中で最も栄えた宿・楓屋かえでやを営んでいた家で、一代前に家業を改め、今は一人娘・しまの代になったという訳であった。若いしまは美しく、意欲があり、気力もあった。そしてなにより、彼女を育んだ楓屋を懐かしむ心があった。そうした妻の助力と、人は好いが流されやすい義父の財産、そして清三郎の機知と粘り強さとがあって、楓屋(であった建物)が大幅に改築がされ、まずはこの桜花市に楓ホテルが開業したのが、一九〇七年。その後、火災によって楓ホテルは消失し、清三郎もその三か月後に死去する。楓ホテルの再建にあたっては、清三郎の生家である白松家の斡旋もあって、銀座の地への移転が決まり、未亡人となったしまとその息子は、外国人設計士を招いて、楓ホテル再興に大きく尽力した。新しく建てられたホテルの名は、白崎ホテルとされた。


 戦後、しまの孫・貞一郎ていいちろうとその子らの手によって、白崎ホテルは東京、札幌、京都、大阪、那覇の国内の五つの都市と、ロンドン、ニューヨーク、パリ、香港の国外の四つの都市に展開され、ホテル経営の他、幅広く関連企業を営むShirosakiグループが創設された。ルカの父、白崎総一郎そういちろうは、貞一郎の孫にして、そのShirosakiグループの取締役なのである。


 幾代にもよって築かれた莫大な白崎家の財産(の一部)は、楓屋のあった場所に、西洋風の豪奢な邸宅となって聳えている。舞は門の前に立ち尽くして、門の奥はるか遠くに見える、ロココ様式を模した城のような屋敷を呆然と眺めやった。インターホンは確かに舞の目の前にある。白崎と書かれた大理石の表札も見える。だが、そのインターホンを押すことは、一介の中学生に過ぎない舞にはためらわれた。当たり前の感情であろう。


「さ、左大臣……む、無理……私には無理……!」

「姫様!勇気を出されるのです!姫様が前世でお暮らしになっていた桜陵殿おうりょうでんに比べれば、まだ小さい方ですぞ!」

「そんなの覚えてないもん!無理!」

「仮にも前世で国を治められていたお方がなにを仰いますか!」

「だって、現世では関係ないじゃないー!!」

「ええいっ!かくなる上は、この左大臣が、姫様に代わって……!」


 舞の手は一瞬遅かった。左大臣は言うなり、鞄から飛び出してテディベアの手でインターホンのボタンを押すと、舞の手が空を掻いている間に鞄の中にしゅっと吸い込まれるように戻ってしまった。ベルの音が鳴る。舞が今頃騒いでももう遅い。いっそ、このまま逃げるか、と舞は一瞬考えた。でも、それって、所謂ピンポンダッシュというやつでは……こんな豪邸にピンポンダッシュなどかましたら……!舞は青ざめた。もう遅い。覚悟を決めなくては。


 舞が恐怖のあまり真っ白になってインターホンの前に立ち尽くしていると、やがて咳払いがして、真面目そうな若い女性の声が聞こえてきた。


「はい。どちら様でしょうか?」

「あ、あの……白崎ルカさんに、お会い、したいの……ですが」


 震えながら舞が言うと、応対する女性が怪訝そうに聞き返す。


「失礼ですが、ルカ様のお知り合いでしょうか?」

「あっ、あの……は、はい……っ!」

「水仙女学院の方で……?」

「い、いいえ……じゃなくて、はいっ!」


 どうせすぐばれるかもしれない。けれども、ともかくここは嘘をつくのが得策だと、舞は気付いた。門前払いされるのがとにかく困るのだから。メイドらしき女性の声が段々と堅くなっていくのがわかる。


「お名前を伺っても、よろしいですか?」

「あっ、あの……京野、じゃなくて……北条院……」

「香苗ちゃんっ?!」


 突如、インターホン越しに聞こえる声が変わって、もう少し年配らしい、けれどもメイドのそれよりは一層明るくはきはきした、可愛らしい声が応じた。舞はびっくりして口を聞くのも忘れたが、相手の女性はもう一人で早合点してしまって、すっかり喜んでいる様子だ。


「北条院香苗ちゃんねっ!昨日電話でお話ししたでしょっ?!まあ、娘のために来てくれたのね!ちょっと待って、門を開けるから!今メイドに案内させるわ!」


 舞と左大臣とが呆気にとられている間に、インターホン越しの会話は終わったようだった。と、舞の目の前で、黒い鉄柵の門がひとりでに動き始め、舞のために邸宅までの道を示す。舞と左大臣とは屋敷までの距離を埋め尽くす一面の芝生の青さに目を奪われた。門から白崎邸までの距離は石畳の道で結ばれ、その左右には、それぞれ噴水と、季節の花々が全く対照に配置されている。ここからは屋敷の白い壁の中に豆粒のように黒く小さく見える玄関らしきところから、二人の女性が出てきてそのうちの一人が大きく手を振っているのが見えた。もう一人の、メイドらしき服装の女性の方が、舞の元へと歩み寄ってくる。


「香苗ちゃーん!」


 手を振っている方の女性がにこやかに叫ぶ。インターホンに出て来たのと同じ声。確か「娘のために来てくれたのね」と――では、あれがルカの母親にして、この家の女主人なのか。舞と左大臣とは顔を見合わせた。引き返すなら今しかない。だが、ここに来て戻ることはできないことは分かりきっている。舞は制服のスカートの裾をぎゅっと掴んだ。


(やるのよ、舞……!とにかく。今日はこれ以上の難問が待ち構えてるんだから――結城君の誕生日パーティに行くっていう……何てことない!頑張るのよ、舞!)


 こちらへ歩み寄ってきたメイド服の眼鏡をかけた女性は、舞の制服を見て何かに勘付いたようであったが、独断では行動しまいと決めたらしく、舞に向かって丁重に頭を下げた。


「先ほどは失礼いたしました。ようこそ、北条院様。奥様がお待ちです。どうぞこちらへお越しください」

「あっ……し、失礼します!」


 メイドの案内に従って、舞は玄関までの道を歩み進んでいく。本当は首を大きく振ってこの広大な庭を見渡したいのだけれども、さすがにそれははばかられるので、目だけをそっときょろきょろと回してみる。メイドは玄関に辿り着くまで無言に徹した。


 ルカの母親は、舞の両手を握りしめて激しく振ることで、舞(というより、北条院香苗だと名乗る少女)を歓迎した。きれいな人だと舞は思う。ルカさんにその面立ちはよく似ている。そうか、お母さんがロシアの人だったんだ。でも、雰囲気は全然違っているな。お母さんの方は、少女みたいな人だ。その笑顔がひまわりのようにまぶしい。


「香苗ちゃん、昨日はお電話ありがとう!おかげで、ルイ……あっ、ルカのやつ、今日はちゃんと学校行ったでしょう?!それでも、心配で来てくれたのね!嬉しいわ!あっ、あのね、ちょうどプリャーニクが美味しく焼けたところなのよ!食べていって!さあさあ、上がって上がって!」

「お、お邪魔します……!」


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