12-6 「玲子をどこにやった?!」

「おかえりルイ!今日は学校行って偉いわね!おやつ用意したわよ!あのね、プリャーニク作ったんだけどね、これがすっごく美味しく出来て……!」

「後にしてくれ……!」


 帰宅するなり飛びついてくる母親を振り払って、ルカは足早に防音室へと向かう。四日間の休暇を経て登校してきたルカを、水仙女学院の生徒たちは喜んで迎えた。「ルカ様!」「会長!」と感涙に咽ぶ声が後を絶たなかった。ルカはそういう少女たちの言わば王子様であった。彼女たちを慰めつつ、そんな地位に甘んじている自分を、ルカは時々虚しく思ったが、香苗が少女たちに囲まれているルカを遠巻きに嬉しそうに微笑むのを見つけると、そうした虚しさを押し殺しても登校してきた甲斐があったと思った。香苗はルカにとって誰よりも頼れる、大切な後輩であった。来年には生徒会長というこの仕事も引き継いでもらわねばならない。彼女なら心配はないが、前任者としての引き継ぎは重大である。


 「ありがとうございます、会長。来てくださって……嬉しいですわ」


 しかし、ルカはその放課後の生徒会の集まりに関しては、延期してくれと言わざるを得なかった。放課後にだらだら残っていれば、それこそ舞に捕まってしまう危険性が増す訳だ。香苗が何か言いたげにしているのに、ルカは残念ながら気がつかないでいた。それに、ルカは今日一日が終われば、また玲子との二人きりの静かな時間に戻れるということを、心待ちにしていない訳ではなかった。母親が非常に魅力的な話題をひらひらとかざしているにも関わらず、歯牙にもかけぬ態度をとったのは、ひとえにそういう理由からであった。


「もうルイったら!」


 膨れる母を一階の階段に置き去りにして、ルカは四階へと駆けのぼり、「お帰りなさいませ」と頭を下げるメイドへの返事もおざなりに、防音室の鍵を開けようとして、はっと凍りついた。よもや扉の向こうの冷気がルカを固まらせた訳ではあるまい。鍵が開いている。ルカしかこの部屋の鍵を持っている者はいないというのに。ルカとミーチャおじさんしか。ミーチャおじさんが来ているというのか?しかし、ここしばらくは来なくてよいと、言っておいたはずなのだが……


 ルカは手の震えももどかしく、扉を開いた。もう周囲を憚ることなかった。風はルカの金色の髪を靡かせて、その耳朶に霜を結び、睫毛を凝らせた。ルカは唇を潜り抜けて、冷気が舌の表面を乾かして引き攣らせるのを感じた。それは見開いたアイスグレーの瞳においても言えることであったが。


「玲子!!」


 ルカが扉を開けた途端、この部屋に合わせてオーダーメイドで注文した二台のスピーカーが、グランドピアノの両脇から、耳の痛くなるほどの大音量で、ムラヴィンスキー指揮、レニングラードフィル演奏、チャイコフスキー交響曲第6番――所謂いわゆる「悲愴」――第一楽章、展開部の激しいアレグロ・ヴィーヴォを奏で始めた。その音に交じって、くすくすと子供の笑う声が部屋に響く。ルカが蒼白な顔で見遣る先に、ベッドの上に、玲子の姿はない。床と壁とに飛び散っているのは、赤黒い血……


 部屋の中に飛び込み、駆け込む勢いのあまり寝台を倒して、ルカははっと振り返った。見慣れぬ姿がそこにあった。銀色の髪に狐の耳を生やし、筆のような豊かな尾を楽しそうに振っている、水干姿の少年。少年は空中で寝そべって頬杖を突くような姿勢をとりながら、ルカの慌てふためく姿を面白そうに見下ろしている。ルカは瞬時に学ランの裏に隠し持っていた銃を抜いた。しかし、少年は動じることもなく、小さな手を銃口に充ててそれを制す。驚きにも足をとられることなく、間髪入れずにルカは怒鳴りつけた。


「玲子に何をしたっ?!」

「まあまあ、落ち着いてよ、ルカお姉ちゃん……それとも、ルイお姉ちゃんって呼んだ方がいいのかな?」


 ルカの指が引鉄にかかるのを見て、篝火はひらりと高く飛び上がった。ルカの真上でくるくると宙返りをして、篝火は言う。


「いきなり乱暴はよしてよ。玲子お姉ちゃんがどうなっても知らないよ?」

「玲子をどこにやった?!」

「大丈夫。まだ生きてるから。とりあえず、この音楽消そっか。余興になると思ったんだけど、うるさくてたまらないから」


 音楽が止まる。見かけからして尋常の者ではないとは分かっていたが、やはり、あやかしの類のようである。それも性質の悪そうな……一瞬たりとも気を抜いてはいけない。銃口も、決して奴の影を離れることのないように。ルカの警戒心を見取ってか、篝火はにやりと口の端を吊り上げた。その姿は、古い絵図に見る化け狐によく似ている。


「……貴様は何者だ?」

「まずはその質問?まあいいや。ボクは篝火かがりび。見ての通りの気まぐれな野狐さ。いろいろ理由わけがあって、玲子お姉ちゃんをさらわなきゃいけないことになってさ。まあ、つまり、雇い人がいるんだな。あははっ」

うるしか……」


 忌々しげに呟いたルカに、篝火は首をかしげてみせる。


「んー、それがねぇ、違うんだなぁ。近いんだけどね。もっとルカお姉ちゃんに恨みを持ってる人。簡単でしょ?まっ、とにかくその人に命令されて、ボクはこーいう面倒な事態に巻き込まれてるんだけどっ。だからね、今この場でボクを殺してもなんにもならないってこと。分かってくれた?」

「……何が望みだ?」


 篝火はグランドピアノの上に腰を下ろして胡坐あぐらをかいた。ルカは敵の言わんとしていることを理解して、渋々ながらも銃をおろす。しかし、その鋭いまなざしは、篝火のどんな微細な一挙一動も見逃さぬという構えだ。まるで、虎が獲物を睨みつけるかのように。


「とりあえず、付いてきてよ、ルカお姉ちゃん。そしたら玲子お姉ちゃんに会わせてあげるよ……」




 その頃、白崎家の門の前に、一人の翡翠色の瞳をした少女が、不安げに立ち尽くしていた。

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