12-5 「……そんなところじゃ、寒いじゃない」

 舞と司とは祠を隔てて背中合わせになって、お稲荷様の屋根に守られながら、雨をやり過ごした。雷は結局遠くにくすぶっていただけで、桜花市を訪うことはなかった。水溜りを車のタイヤが跳ねる音、雨にはしゃぐ家の中の子供たちの声なども、舞の耳はいつしか捉えられるようになっていた。舞はたった一枚羽織ったカーディガンの温かさに包まれて、微睡まどろみにも似た心地よさの中、太腿の上に頬杖を突いて、薄紫の鞠のような花弁のゆるやかな球形を世にも清らかな虫のように巡っている雨滴を眺めていた。どうかしていると、本当にこのまま眠ってしまいそうだ。どうしてこんなに安堵しているのだろう。雨にやり込められて、行き場もないというのに。それでも、雨は幾分、小降りになってきたようだ。少なくとも、花と狐とによく似合う……




 雨滴が紫陽花の花弁からついに滴り落ちた。そのひらめきに目を閉じた舞は、遠い日の雨の音を聞いていた。仄暗く狭い木のうろの中は、じめついてはいるけれど温かい。舞は嗅ぎなれぬ香りに包まれている。男の人はこういうこうを使うんだ、と舞は感心している。そうして肩にかけられた衣を胸の上で掻き合わせる。薄目を開けてみると、かの人は馬の傍らに立って、ただ舞を守っている大樹の重なる枝と葉の下とで、気休めのような雨宿りに甘んじていた。その人の薄紫の衣を纏った腰の辺りが、舞からは見えるばかりである。なにか小さな声で時々口ずさんでいるのは、馬に語りかける言葉であろうか。けれど、やはり外では寒かろう。かの人の髪もやはり雨に濡れていたのだから。舞はそっと洞の入り口へとにじり寄ってかの人の袖を取った。


「ねぇ、あなたも入りなよ……そんなところじゃ、寒いじゃない」




「京野」


 舞は夢より醒めて、司を見上げた。夢の中の人が振り返ったその顔を、夢の中では遂に舞は見られなかったけれども、見上げた司の顔にそれを見つけ出したような気がしたのは、見られなかった故の物足りなさを知らずにいられたのはなぜであろう。かの人の前髪にも雫が結ばれていなかったっけ。その瞳も、一人ぼっちの子供のような寂しさと、深い憂いに沈んでいなかったっけ……かの人は誰?舞はまだ夢の中にいるような気がする。司は祠の裏側から、顔を覗かせていた。


「そんな、ところじゃ……」


 呟いた舞に、司は怪訝そうに眉を寄せる。舞はそれを見て目が覚めた。


「なんだ?」

「あっ!ううん、なんでもないっ!夢の中の……」


 「夢?」と、司は呆れきったようだった。


「寝てたのか?暢気のんきな奴だな……それより、雨が少し止んできた。今日はもう止まないらしいが。母親にでも迎えにきてもらうならこれで連絡しろ。使わないならいい。僕はもう帰る」


 携帯電話を投げ渡されて、舞はまた、司の顔と渡されたものとを交互に見た。そんな舞の素振りはもう見飽きたとでも言いたげに、司は露骨にいらつきを示した。


「使わないならいいと、言ってるだろう……っ?!」

「……結城君、本当に私のこと嫌い?」

「なっ、急に何を……!」

「だって、こんなに優しくしてくれるじゃない。ほんとに、嫌いなの?」

「あ……当たり前だ……!お前はすぐ踏み込もうとするから嫌いだ……他人の心にも、事情にも」

「えー……」


 司はそれからやや口ごもりつつ、


「ひ、一人ぐらいお前のことを嫌いな人間がいたっていいだろう!……お前はいつも誰かしらに囲まれてるんだから、寂しくもないはずだ……!」

(あっ……)


 舞は新たな発見の驚きの示し方を、口元を微かに開くだけに懸命に留めた。司に分かってしまったことを知られたくなかった。ただでさえ、舞は司に踏み込み過ぎなのだと言われるほどなのだから、こんな司の内奥に触れてしまったことを知られれば、ますます遠ざけられてしまう。しかし、司は気付いていないのだろうか。あんなに賢い司だというのに。司が舞を遠ざけようとして、本当は自分に近づけさせていることを。少なくとも、今この瞬間には――思い返せばいつも司はそうだった。傷口を庇う仕草に、その人の痛みを知る。司が舞の手を振り払い、舞から逃れようとする度に、舞は司の痛みを、その傷の在処を知ってしまっていたのである。そして、十分に司のことで傷つき尽くしたと思われる舞は、今、司のどんな言葉にも動じずにいられた。舞が司の携帯電話を見つめながら、落ち着き払った声で司に次のように尋ねたのは、そのような心の次第があったためだった。


「……結城君は、お母さんに連絡しなくていいの?」

「……僕はいい。母には頼れない」


 頼れないのはなぜ?――甘えられないと思っているから。甘えてはいけないと思っているから。


「早く電話を済ませてくれ。僕はさっさと帰りたいんだ」


 また嫌われるかもしれない。お節介だと言われるかもしれない……でも、司のお母さんと、おばさんと、あんな風に約束したのだもの。


 舞は電話をかける。二度、三度……呼び出し音がして、ようやく「母親」は出た。


「もしもし?あっ、お母さん?私、私!舞!あのねっ、今、傘忘れちゃって雨宿りしてるんだけど、うん、司君と一緒!それでね、司君が家の人に傘でも持ってきてもらえって、携帯電話貸してくれたの!だから、傘届けてくれない?場所はね…………」




「……どういうことだ?」


 「母親」はやってきた。満面の笑顔で、自分の差しているラベンダー色の傘の他に、黒い男物の傘と小さな折り畳み傘とを提げて。ただし、それは舞の母親ではなかったのだが。


「どうして、京野の母親に電話したはずが、僕の母親が来るんだ?」

「ごめんね、結城君。さっき、私、結城君のお家に電話したの……」


 憤る司が思わず舞に詰め寄る。


「一体なんの真似なんだ……っ?!」

「やめなさい、司」


 司の母親の声は、いつも静かでたおやかながらに息子を黙らせる力を持っていた。お稲荷さんに丁寧にお辞儀をして鳥居を潜ってきた司の母は、息子の方に歩み寄ると、その額をつんと人差し指で弾いた。それだけのことに、司はなにがなんだか信じられないといった面持ちをして見せた。舞は微笑みをそっと押し隠す。


「あんたが素直に傘持ってきてって言えないから、舞ちゃんが代わりに電話をくれたのよ。怒る前に感謝なさい」

「それが余計なお世話だって言ってるんだ!僕は一人で帰れた!雨だって小降りになってきてるし……!」

「それで、びしょ濡れになって風邪引いたら、誰が看病すると思ってるの?」

「か、風邪なんか引くものか……!」

「確かに、バカは風邪引かないっていいますけどね」


 司の母親は笑って溜息を吐いてみせた。


「司、母さんだって分かってるわ。私に面倒かけまいと思って遠慮したんでしょ」

「だって、病人に傘を持ってきてなんて頼めるか……!」

「たかだか、傘を持ってくる程度でしょう。大した距離でもないじゃないの。その心遣いは嬉しいけどね。まっ、とにかく帰りましょう。舞ちゃん、すっかり濡れてるけど、大丈夫?寒くない?」

「あっ、あの……結城君がカーディガン貸してくれたので……!」


 司は無言で舞を睨んで黙らせようと試みたらしかったが、それさえも母親に見透かされて、頭を軽く叩か

れていた。「そう」と、司の母親が笑いかけたところで、舞がくしゃみをした。舞は照れたように顔を赤くした。司の母は折り畳み傘の方を舞に差し出した。


「早く帰ってお風呂に入った方がいいわ。ほら、これ、舞ちゃんの分の傘」

「あっ、ありがとうございます……!すみません、わざわざ私の分まで。それに、勝手に呼び寄せたりしてしまって、ごめんなさい……おばさん、具合が悪いのに……!」

「いやねぇ、舞ちゃんまで。大したことないって言ってるでしょう。それに、ここ最近はなんだかとっても調子がいいのよ。舞ちゃんがこの間、家に来てくれたでしょう?あの日から、なんだか前向きになれた気がして。ありがとうね、舞ちゃん。このひねくれた息子の相手まで……」


 司の母親はそう言いつつも、傘を右肩と頬との間に挟んで、息子の両肩に手を置いた。司はすぐさまそれを払ったが、拒絶の意味よりは恐らく舞の前ということで照れ隠しの意味が強かったとみえて、司の母親は一層笑声を高らかにしただけだった。舞もつられて笑ってしまう。司は、怒っているというよりは、ねているようだ。まるで五歳の子供みたいに。


「……ねぇ、舞ちゃん。今度よかったら食事に来ない?そうね、よかったら、明日とか……」


「えっ、でも明日って……」

「母さん!」


 舞と司の声が重なった。二人は目を合わせ、それから互いに気まずそうに顔を背けた。司の母親は、そんな初々しい少年少女たちの姿をただ微笑ましいと思っているらしかった。


「いいわよね、司?二人の食事もいい加減寂しいし、偶にはお客さんが来なくっちゃ。じゃあ、舞ちゃん、明日お待ちしているわね」


 司の母親はそう言い残して、息子の肩をそっと押して促すと、舞に手を振って背を向けた。舞はなんとか司の母親を引き留めて、明日の招待を断ろうと試みたが、司の母親が何やら楽しそうに息子に語りかけているのを見ると、どうしてもそれを妨げることができなくて、あげかけた腕を下ろした。明日――金曜日――六月十一日――司の誕生日。舞は司の誕生日パーティに招かれたのである。



「姫様?」


 放心状態で立ち尽くす舞に、左大臣が鞄の中から声をかける。舞は結城親子の後ろ姿が完全に見えなくなってしまうまで眉ひとつ動かさないでいたが、急に首の辺りから赤くなってやかんの如く湯気を立てるまでになった。


「ひ、姫様!」


 熱帯のスコールは、もう小雨になっている。

 

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