12-4 「結城君、ありがとう!」
月曜日の放課後に、水仙女学院高等部へと向かった舞は、遂に敷地内に立ち入ることを許されなかった。金曜日に起こった怪物騒動以来、警備の目が厳しくなっていて、一見無害そうな他校の制服を着た少女もまた警備員に止められてしまったのだ。悪いことに、警備員はあの金曜日に市立桜花中学の制服を着た少女たちがこの辺りをうろついているのを覚えていて、仲間うちにも情報を回していた。舞は姉に用事があるのだと言い張ってみたが、半ば舞に同情していなくもない警備員に、だったらこの場に呼んであげるからお姉さんの名前を言いなさい、そういう決まりになってしまったのだから我慢してほしい、と言われてしまい、そこまでしてもらうほどでもないと辞退して、待ち伏せ作戦に出た。姉にまた水仙女学院に来たことがばれたら一大事だ。舞は六時半ごろまで立ち尽くして、閉ざされたアーチ型の門をその都度開けてもらって不安げな面持ちで学校を飛び出してくる少女の顔を一人一人吟味し続けたが、ついにルカの姿を見つけることはできなかった。
翌日も結果は同じであった。翌々日も。翼と奈々は、舞に同情して自分たちも一緒にルカを探すと言ってくれたけれども、舞は断った。これは私が責任を持ってやらねばならないのだと。二人には、鈴が鳴ったときにすぐさま駆けつけられるようにしておいてほしいと、舞は言った。そして四日目の木曜日に、舞はあることを思いついた。
「あの、姉を呼んでいただけますか?」
すでに顔なじみになった舞に、警備員は呆れたような、けれどもほっとしたような微笑みを浮かべてくれた。
「やっと諦めたな。この強情っぱりめ。いいよ。それで、『お姉さん』は何年何組の誰かな?あと君の名前も、一応」
舞はちょっと気恥ずかしそうに笑ってから、
「えーと、一年……何組だろ?とにかく一年の北条院香苗を呼んでくださいますか?生徒会副会長の。私の名前は、きょ……ま、舞です」
ルカを呼んでもらうという手もあったけれど、きっとルカは怪しんで来てくれないだろう。三日間も校門の前に立ちつづけている舞の前に、ついに姿を現さぬほどであるから。ならば、香苗に事情を聞いてみよう。舞は懸命に頭を働かせてみて、そこまで思い至ったのである。警備員がトランシーバーで校内に連絡を入れてくれている間、舞はちらりと空を見上げた。参ったな、曇り始めてきた。今日は傘を学校に忘れてきてしまったのだけど。帰るまでに上手く持つといいなぁ……
十分ほど待ったところで、香苗が校門前に姿を現した。舞は「お姉ちゃん!」と勢いよく香苗に飛びついたのち、香苗の手を引っ張って、にやにやと見守っている警備員から遠ざけた。それから、何やら浮かぬ顔をしている香苗に向かって何度も頭を下げた。
「すみません、香苗さん……!急に呼び出したりして」
「舞さん……いえ、構わないのだけれど。でも、わたくしに一体何の用?」
香苗の口調は変わらず柔らかかったが、どことなく態度がぎこちないのは気のせいだろうか。それでも舞は構わないと、香苗の問いかけに対してぱっと顔を上げた。
「香苗さん!お願いです、ルカさんに会わせていただけませんか?大事な、大事な用があるんです……!お願いします……!」
舞は再び深々と頭を下げる。予想はしていたのか、香苗は驚いた素振りも見せぬ。香苗は少し
「舞さん、わたくしだってお力になりたいわ。本当に。でも、会長は月曜日から学校にいらしてないんです。チェロのコンクールの稽古のためと言って……」
避けられているのだと、舞にはすぐさま分かった。傷ついたように瞳を揺らす舞の頬に、香苗が慰めるように触れる。
「ごめんなさいね、舞さん。本当に、お力になりたいのだけど…………それにね、舞さん、前も言ったけれど、わたくしとしては、しばらく会長をそっとしておいていただきたいの」
香苗は行きかけて立ち止まった。三つ編みにした
「……会長は大切な方を失われたばかりなのです」
「えっ……」と舞は聞き返す。香苗はなおも振り返らなかった。彼女はただ、彼女一人の物思いに
「会長は大切な方を失われたのですわ。お心の傷がまだ癒えていらっしゃらないのです……舞さん、どうか会長を静かな世界で憩わせて差し上げて。いつかまた、傷の癒える時もくるでしょうから。その時は……」
その時は――香苗は続きを語らずに警備員の開く門のうちを潜り抜けていく。舞は止めることも出来ずに、香苗が去りゆくのをただ茫然と見ていることしかできなかった。ルカさんが大切な人を失った……?それは一体どういうことなの?それが、舞たちと共に戦ってくれぬ理由と関係があるとでも……
「やっぱり降ってきたー!」
香苗と別れた後、なんとなく煮え切らない思いのままに帰宅の途についた舞であったが、ぽつりと額の上に冷たいものが触れたのを感じると、空を仰ぐ暇もないとばかり慌てて駆け出した。もう少し早ければ、桜花中学まで引き返して傘を取ってこられたものの、もうすでに交差点付近まで差し掛かっている。とにかく走り抜けるより他にない。
ところが、舞が交差点にまで行き着くより早く、雨足が強まって、スコールのような雨が家々の屋根を叩きはじめた。「嘘でしょっ?!」と叫びながら、舞は鞄を頭の上に掲げて走り、コンビニエンスストアもない住宅街の中、雨宿りにちょうどよさそうな軒下を見つけるなり、そこに飛び込んだ。
それは、お稲荷さんを祀っている小さな祠であったのだが、民家と民家との間にいかにも追いやられたように身を狭めて収まっている。それでも、丹塗りの鳥居と、使いの狐たちは小ぶりながらもさすがに威厳を保ち得ていて、舞は鳥居をくぐる時思わず足を止めて左右の狐に一匹ずつ頭を下げなければ気が済まなかったほどだ。それから、ようやく祠の屋根の下に身を屈めて、びしょ濡れになった制服を見下ろしながら、舞ははあと溜息を吐いた。安堵の溜息でもあり、意気消沈の溜息でもある。
「姫様、大丈夫ですか?」
「あーあ、びっしょびしょー。もうー!お母さんに怒られ……」
と、小さなくしゃみを続けざまに二つ三つして、舞は鼻をすする。本当についていないなあ。体育ではまた体育館の窓をバスケットボールで叩き割って怒られるし、ルカさんには会えないし、雨には降られるし……ところでボールのことは本当に気を付けよう。どうも京姫として覚醒してから、腕力が増しているみたいだから。どうも大人一人ぐらいなら平気で運べそうなんだよなぁ。でも筋肉がついた訳ではないよね?と舞は思わず肘を折り曲げたり伸ばしてみたりする。大丈夫。筋肉はついていないみたい。これも霊力の仕業かしら?
もう一つくしゃみをして、舞はティッシュペーパーで鼻をかんだのち、ふと周囲を見渡してみる。鳥居の側を除く祠の三方と民家との間は、舞の腰元ほどにも及ばない低い竹垣に囲われていて、その竹垣の内側にはまだ淡い色合いではあるけれども、紫陽花が溢れ、激しい雨に花弁を揺さぶっている。もう少し雨が静かならば、風情のあるものを。狐たちにしてもそうだ。その石の体をずっしりと薄墨色に濡らしても尚、雨は降り注いでその皮膚の上で白く弾け、赤い前掛けもぐっしょりと重たげに見える。花と狐にこの雨がどうも似つかわしくない。
「……お腹空いたなぁ」
舞は思わず呟く。無論とりとめのない呟きといえばそれまでだが、左大臣が反応してくることを期待してそう言ったのである。と、舞は鞄の中から、左大臣がごく小さな声で必死に
「どうしたの、左大臣?」
舞が尋常の声音で言うと、左大臣は口元に手をあてて静かにするように合図した。舞はますます不思議がって、鞄に耳を近づける。
「姫様!人が!人がおります!」
「う、嘘っ?」
舞は祠に向かって頭を下げてから、右手側に張り出している屋根の下にそっともぐり込ませてもらっていたのだが、左大臣が必死に指さすのは、祠の正面からみて裏側に当たる部分、今の舞からすれば左側である。気がつきもしなかった。人がいるだなんて。本当だろうか?音をひそめてそっと覗きこもうとすると、制服の布地が石の祠のざらついた壁にひっかかって微かに音を立てた。それさえも、舞には雷のように轟く音のようだった。
祠の裏側と、民家の物置らしきものとの間を隔てている竹垣との間は人一人がようよう入れるほどの隙間しかない。舞が覗きこんだ時、その人はすでに祠を挟んで舞と反対側、すなわち向かって祠の左手の屋根に逃れたらしかったが、その人の革靴ばかりが跳びはねるのを、舞は確かに見た。と、誰かが駆け出そうとしている物音を聞いて、舞は慌てて屋根の下から飛び出して、鳥居へ向かわんとしているその人の腕を捉えた。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待って!逃げないで!」
「離せ……っ!」
「ダメ!こんな雨なのに!私に遠慮なんてしないでよ!」
「誰が遠慮するか。僕はただ、
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
舞はつい先ほどまで舞を悩ませていた剛腕で以ってなんとか少年を引き戻した。先客が司であることに気がついたのは、走り出した少年の後ろ姿を見た瞬間ではあったけれども、舞にはあの靴を見たときから、予想していなくはなかったのだ。この少年の息遣いを、どこかで感じ取っていた。幼馴染だから分かるのかもしれない……舞は屋根の下に、司を引き入れてから、手首を掴んでいた手を振り払われて、ぱっと自分の行動に気付き、両頬に手を充てて赤らめた。司は疲れたように額に手を遣った。
「わあっ!ごめん……!」
「まったく……なんでよりによってお前なんかと……」
「えっ?ええっと、その、結城君は、私のこと、嫌い?!」
「……あぁ」
「……やっぱり、この間のこと、怒ってる、よね……?」
「この間のこと?」
聞き返す司に、舞はためらいつつもなんとかごくりと唾を呑みこんで、言った。
「この間のこと……変なこと言っちゃって。あの、ごめんね!ほら、『あなたは司なんかじゃない』とか、何とか……訳わかんなかったと思うけど……ごめん」
「……あぁ」
司は聞えるか聞こえないかの低い声で唸った。その宵闇のような瞳が途端に翳りを帯びたことを、舞は知らない。舞は両手を合わせる。
「ごめんね!ほんとに!あの時、私、なんていうかなー、その……!」
司は声だけでふっと笑った――思い返せば、一月近くも前のことではないか。
「あんなことは気にしていない。そもそも、あれより前からお前のことは嫌いだ」
「そんなぁ」
舞は萎れて鞄を取り落とし、その場にへたり込む。司はフンと鼻を鳴らしつつもちらりと舞の方を見たが、急にぱっと顔を赤らめると、腕を組んで慌てて舞の方に背を向けた。落ち込む舞はそんな司の様子に気がついていない。夏服が雨に濡れて透けてしまっていることにも。
「私たち、幼馴染なんだよ……」
「知るか、そんなこと。互いに覚えてもいなかったのに幼馴染なんて言えるか」
「でも、私は覚えてたもん……!」
振り向きかけて、司は慌ててそっぽを向いた。
「ぼ、僕は覚えていなかった……!」
二人の沈黙を沈黙と呼ぶことが躊躇されるほど、雨は激しく降り注ぐ。急な雨に人々も足止めされているためか、住宅街の道路を通り過ぎる人も車もない。遠くで唸り始めた黒雲に、舞と司とは不安げに空を見上げた。まるで夏の夕立のようだ。けれども雨の止む気配はない。舞は心を紛らわすために紫陽花の色を眺めてみる。熱帯の艶やかな葉の上を叩くのには相応しいかもしれない雨は、紫陽花を悪戯に痛めつけるばかりである。舞は憐れに思って花に手を伸ばした。雨は花に触れようとする舞の指先を針のように刺した。
くしゅん、と舞はまたくしゃみをした。六月だからまさか肌寒いという事はないけれども、皮膚に張り付いた夏服はじわじわと舞の体温を奪っていく。髪から滴る雫が、襟の内から忍び込んで、首筋や背中を伝わっていく感触もなんだか気持ち悪い。風邪引いたらどうしよう。もう、本当についていないなあ、今日は……
舞はまず視界の端に紺色のものを認めて、それから、右肩の上に載せた視界の中央で紺色のなにか柔らかそうなものを認めた。ふっと顔を上げると、司がなぜだか頑なにこちらを見ようとしないまま、鞄の中から取り出したらしい、丁寧に丸められた男物の夏用カーディガンを舞に向かって突き出している。舞はそのカーディガンと司の顔とを交互に見た。すると、司はじれったそうに舞の方へと紺色の布を投げつけた。「わっ!」と言って、舞は落とさぬように慌ててそれを受け取った。
「こ、これ……!」
「寒いなら着ろ。風邪でも
「で、でも、セーターが濡れちゃ……」
「知るか!他人のものを濡らしたくないなら着なければいいだろう……!」
司はそのまま祠の前を突っ切って、舞とは反対側の軒の下へと逃げていってしまった。案外照れているのかもしれない、と、舞は思った。すると、なんだか司がちょっと可愛らしく思えてくる。両手で抱えているカーディガンからは石鹸のよい香りがした。舞は思わず笑った。
「なにがおかしい……?!」
と、司が舞の背中側、祠の向こうから尋ねる。舞はカーディガンを抱きしめ、肩の上から羽織ってのち、また我が身を抱きしめると、言った。
「なんでもないっ!結城君、ありがとう!」
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