12-3 「買い物なんてひっさしぶりだなぁ!」

「んー!買い物なんてひっさしぶりだなぁ!」


 土曜日の朝は、六月とは思えぬほど爽やかに晴れわたり、桜花駅前の商店街にもいつになく人通りが多い。奈々は嬉しそうに日差しに向かって伸びをする。昨夜は遅くまでおしゃべりやら枕投げやらに興じていたにも関わらず、少女たちは元気いっぱいの様子である。付き合っていた左大臣の方がくたくたに疲れているのは、もしかすると何度か枕と間違われて投擲されたせいかもしれなかった。


 奈々は袖のない黒のタートルネックに、裾の広がったフレアパンツ姿で、シルバーのアクセサリーを合わせ、いつになく大人びて見えた。そんな奈々の服装と、自分の水色のワンピース姿を見比べてか、翼が尋ねる。


「奈々さん、普段洋服買う時どこにいくんですか?」

「んー、原宿とか?」

「は、原宿……!」


 目を丸くしている舞と翼の声が揃う。


「そうは言っても滅多にいかないけどねー。休みの日は、悠太たちと遊んでやらないといけないし。あっ、そうだ!久しぶりに『白のアトリエ』にいきたいなー!凛さんにも会いたいし!やっとお店再開したみたいだからね」

「じゃあ、お買い物して、あとで『プロムナード』にケーキ食べにいきましょうよ!ねっ、翼?」

「な、なんであたしに振るの?!」

「べっつにー」

「あっ、そうだ!奈々さん!」


 とぼけている舞の頭を引っ叩いて、翼は奈々の手をとって突如ぎゅっと握りしめた。突然のことに驚いて、奈々は先ほどまでの満面の笑みを崩しきれないまま、ほのかに頬を赤らめ、「へっ?」ととぼけた声を出して、長い睫毛をしばたかせた。


「つ、翼ちゃん?」

「あたし、奈々さんの眼鏡、弁償しないとっ!」


 そういえば、翼が螺鈿に奈々の眼鏡を投げつけてくれたおかげで、舞は螺鈿らでんを急襲することができたのだっけ……と、痛む頭を涙目で撫でながら、舞は思い出す。それにしても、翼はひどい……!


「ほら、螺鈿の戦いのときの!」

「あっ、ああ、そういえばいつの間にかなくなってたけど、あれ翼ちゃんが……いいよ、いいよ!あれ、実は伊達だてだったんだよね」

「が、学校に伊達眼鏡してきてたんですか?!」

「いやー、だって眼鏡は禁じられてないじゃない」

「明らかに不要物ですよっ!装飾品です!アクセサリー!!」

「もう、お堅いなぁ、翼ちゃんは……いや、まあ、そういう訳だからいいよ」

「よくないですよ!眼鏡以外のものでもいいですから!」

「えー、困ったなあ。ほんとに弁償とかいいよー、翼ちゃん」

「じゃあ、誕生日プレゼントで!」

「あたしの誕生日、十二月なんだけど……」


 翼が奈々の手を引っ張ってぐんぐんと進んでいくのを慌てて追いかけながら、舞はふと思い出す――そう言えば、来週の金曜日は司の誕生日だったっけ。誕生日プレゼント、かぁ。以前の司にもプレゼントなんて久しく渡していなかったけど……今の司にプレゼントを渡すと思うと、妙にどきどきしてしまって、舞は思わず立ち止まりそうになる。急に舞からプレゼントなんて貰っても、司も当惑するだろうし。当惑するだけならいいけど迷惑がられるかもしれないし……結城君が何が好きかなんてわからないし……でも、せっかく来週誕生日だってことを知ってるんだし……お母さんとああやって偶然に会ったのも何かの縁かもしれないし、それになんとなくプレゼントを渡してみたいような気も……いやいやいや、待って、待って。なんで私が……


「舞ちゃーん、はっやくー!」

「あっ、はーい!」


 その時、舞は左手に並んでいる店のうちの一つに目をめた。





 冷えた弦の振動が指に心地よい。心行くままに弓を動かしながら、ルカはただ眠れる乙女一人のためだけに音楽を奏で続ける。眠れる乙女と、そして己の孤独な魂のために――この音楽を共有しているのは自分と玲子だけなのだ。そのことが、ルカには不思議に嬉しくてたまらない。ずっとこうしていられたらよいのに。でも、一曲奏で終わったら、君からの讃嘆の言葉が聴きたいだなんて、私は我儘わがままが過ぎるだろうか。


 チェロは女の姿だという。チェロを弾く姿は女性を抱きしめる姿という。だからだろうか。ルカがバイオリンやピアノよりも殊にチェロを愛したのは。きっと現世に生まれた当初から、ルカの胸にはただ一人の女性の記憶があって、その女性を抱き寄せたいと切に願い続けた記憶があって、それがあの子供用の小さなチェロを初めて弾いたときの感慨にまで……それはややこじつけが過ぎるだろうか。


 三曲ほど続けざまに奏でた後、ルカは楽器を置いて立ち上がる。そして今日も、寝息も立てずに横たわる少女の胸に耳をてる。鼓動一つ、そうでなければせめて今奏でていたチェロの調べの最後の残響が、貝殻の渦巻きのうちに響く波の音のように、その胸にも留まっていないだろうかと、それを聴こうとして。その時、防音扉のノブを回そうとする小さな音がルカを捉えた。誰かが鍵を閉めていると知らずに部屋に入ろうとしている。柏木だったら追い返そう。ルカは半ば怒りながらも、鍵をまわして注意深く扉を開いた。立っていたのは母親だった。


「母さん……」


 ルカはすばやく扉の隙間から廊下へと抜け出ると、部屋を閉ざした。ルカの母、ソーニャは「まあ」と声をあげた。なんのための「まあ」かは、ルカにはよく分からなかった。娘が朝から食事をとりもせずに(実はルカはメイドに朝食を部屋まで運ばせていたのだが)、恰好だけは余所行きにでもできそうな、白いワイシャツに黒いズボンを着こんで、ろくに梳かしていない髪を却って風情ありげに垂らしている、そんな様であるための「まあ」なのかもしれない、とルカは思った。それとも連日眠っていないから、疲れた顔をしているのだろうか。けれど、母親の「まあ」の理由はルカの気付かぬところにあった。


「ルイ、あなた冷房かけてるの?!」

「ああ」

「でも、ちょっと寒すぎない?何度に設定してるの?まだ六月じゃないの!」

「寒い方が集中できるんだ。ところで何か?」


 何かじゃないわよ、とソーニャは握りしめた両手の拳を胸のあたりまで持ち上げて言う。


「ルイ、学校はどうしたの?今週は一度も行ってないじゃない!もう木曜日よ!えーと、だから、もう四日も!」

「コンクールが近いから、練習したいんだ」

「だって、次のコンクールは七月の終わりじゃない!それまで休むつもりなの?期末テストは?」

「テストは出るよ。どうせ授業なんて受けなくったっていい点はとれるさ」

「もう!ルイちゃん!あなたは仮にも生徒会長でしょ!全然模範にならないじゃないの!」

「仮にも元不良でもあるんだけど?」

「その話は持ち出しちゃダメッ!!」


 と、母親は、エプロンのポケットから携帯電話を取り出して差し出す。ルカの携帯電話である。大体連絡を寄越すのはろくでもない連中ばかりであるし、稽古中は邪魔になるので、いつしか居間で使ったきり、置きっぱなしにしていたのである。もう大分充電も少なくなってきているだろうが、母親がホームボタンを押すと、きちんと着信履歴が表示された。同じ名前がずらりと並んでいる。ルカははからずも不憫さを露わにしてしまった。母親も溜息をつく。


「昨日からずっとよ。あんまりかかってくるから、つい緊急かもしれないと思って、ママが出たの。そしたらね、この間の怪物騒ぎでみんなが動揺してるから、やっぱり会長にも学校に来てほしいんだって。香苗ちゃんがそう言ってたわ。あなたが来ないのは、怪物に襲われて怪我したせいだなんて、みんなが噂しているそうよ」

「そうか……」


 それは悪いことをした、とルカは香苗にすまなく思う。ただ、学校に行かないのは単なる気まぐれからではないのである。ルカはあの少女を避けているのだ――京野舞。彼女がまた、自分を訪ねてくるのではないかと思って。


(一体私は何を守ろうとしているのだろう。四神としての玲子を?それとも愛する人としての……)


「ルイ?」


 すでに防音扉の方へと向きを変えて、そこに額を凭れ掛からせている娘の金色の髪を、母が指でいてやる。それを手で軽く払いのけてから、ルカはまた扉のノブに手をかけた。


「……明日は行くさ。もし電話があったら、香苗にそう伝えてくれ」

「えぇ、そりゃあ、そうするけれど……」


 母がまだ何事かを言いかねている間に、ルカはさっさと防音室の中へと姿を消した。鍵を閉め、また冷気に満ちた世界に戻る。玲子と二人きりの世界――不意に切なくなったのは、こんな世界に身を浸せているのも、玲子があのように永久とも思える夢を見ているためなのだと思い出したから。


「玲子……」

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