第十二話 花と狐

12-1 「……守って、姫様を」

 桜花市の東部を北から南へ、寄り添うように流れる東雲しののめ川の水は、やがて東京湾へと出て海水に紛れ、太平洋上に浮かぶその小さな島にも白い波頭の欠片となって流れ着くやもしれぬ。その島の人々は最低限の力と最小限の人口を以ってして、何とか文化的な社会生活らしきものを営んでいたのである。取り残されることを彼らは厭わなかった。却って取り残されれば取り残されるほど、彼らは頑なに先祖以来――そしてその先祖というのが、彼らの中ではなによりも貴く崇めるべきものであった――守ってきた旧式な、原始的な、けれどもそのために一種すがすがしい美しささえある生活にかじりついた。遠い社会から彼らの生活を見下ろす人々は、消えゆくものの儚さをそこに見出しては、そんなものをおが屑のような粗野な人々の生活の中に見出せる自分自身に満足し、それを喧伝しようと躍起になった。


 けれども、消滅の時は、島民たちの、そして島民たちを「見守って」きた賢いはずの人々の予想よりもずっと早く訪れた――


島の中央にはさして高くはないけれども、人の手がさほど入っていないせいで未だに険しい容貌を保っている山があって、その頂きは命ある人は無暗むやみに立ち入れぬ決まりになっていた。そこは、死者の土地、先祖の土地であったのである。死せる人は、旧盆明けの最初の子の日になると、皆、あの頂きに集まって、一晩中自分の子孫たちの行いについて話し合い、あまりにも行いの悪い者には罰を下し、行いのよい者には幸福を授けるのだと、島民は考えていた。だから、その前夜には、先祖へのお供え物をことこと煮る音、立ち働く女の足音、食器の触れ合う音、男の酒を酌み交わす音で、この孤島も賑わったものだった。翌朝になると、それぞれの家の男主が膳を掲げて並び、山頂の小屋にその前夜に女たちの作った煮物やら、混ぜご飯やら、魚やらを供えて、自らの一族の潔白を宣言して、山を下っていく。その夜には誰もが戸を固く閉ざして決して山の方を見ようとしない。うっかり先祖の集まりから漏れる灯りを見てしまうと、「お呼び出し」がかかってしまうからだ。だから人々はその夜は暗くなる前から布団に入ってしまう。この行事のことを、素朴な人々はただ「まつり」と読んでいた。


 彼はまつりの夜のことを思い出した――じめついた夜に寝付かれずに、草木も眠る夜のしじまに身を溶かそうとして、裏庭をぐるぐると歩き回り始めたとき。山の頂に灯りがちらちらと二度ほど点滅して見えたとき。それから彼は暗闇の中で目を凝らすべく、必死に目を擦って、すっかり青ざめた。足腰に震えがくるのを感じた。とんでもないものを見てしまった――それが七十年この島から離れず、まるでこの地に種を蒔かれた草花のように根を張って生きてきた彼の最初の感想だった。彼の血管は恐怖に凍りついた。「おまつり」の灯を見てしまった。「おまつり」の灯を見た者は呼び出されてしまう。あの世に連れていかれてしまう。


 それから、翁はふと思い出す――しかし、今日は「おまつり」の日ではない。「おまつり」の日ではないのになぜご先祖様が山に集まるのだ。ご先祖様がお帰りになるのは八月の十五日と決まっているではないか。それとも、なにか。あの山の頂にいるのはご先祖ではない者だというのか……


 ともかく誰かに知らさねば。あの場所に誰かが無断で入り込んでいることだけは確かなのだから。翁が裏庭を横切って、隣家の婆さんのところへ駆けこもうとしたその時だった。翁の視界が途絶えたのは。そうして、島はたちまち阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのだ。





「あぁっ!おかえりなさい!」


 水仙女学院高等部で謎の怪物騒動が起こった日のその夕方のことだった。物思いに耽りながら、執事の開く扉より広大な玄関ホールに踏み込んだルカにいきなり弾丸のように飛びついてくる者があった。ルカは慌てて飛びついた人を抱きとめたが、その次の瞬間に、その人はもうルカの腕の中より抜け出して、娘の肩を激しく揺さぶっていた。


「ルイ!もう心配したのよ!大丈夫だった?!怪我はない?!怖くなかった?!」

「一体なにを……」


 母は今にも泣きそうな顔で叫ぶ。


「知らないの?!学校で事件があったのよ!今テレビでやってたんだから!ママ、心配で心配で……!」


 肩の上で切りそろえたワンレングスの金色の髪。すらりと伸びた長身と、アイスグレーの瞳、よく通った鼻筋、その肌の透き通るような白さなどは、確かにその娘にも受け継がれている。けれども、長い睫毛の下に宿る子供のような無垢な光や、引き締まりつつも丸みを帯びた体のラインは、いまだ娘の持ち得ぬものであった。どこまでも心を開け放して、相手にぶつけていく、その直球で天真爛漫な態度も、また。


 白崎ソフィア――元の名をソフィア・ドミトリエヴナ・パブロワ――通称ソーニャは、二十歳までは、横浜のロシア料理屋で働く、素朴な、学のない娘であった。高齢の両親は生まれて間もなく他界したので、年の離れた兄がその面倒を見たのだが、その愛する兄のドミトリーがいくら説得しても、ソーニャは大学にはいかないと言い張った。元々勉強はさほど好きではないらしいのも理由の一つだったのだが、とにかくソーニャはこれ以上兄の厄介になりたくない、少しでも早く自立して家計を助けたいと考えていたのである。ソーニャは人好きがする、明るい、素直な娘であったから、ある時、Shirosakiグループの御曹司に見初められて、めでたく結婚する運びとなり、今はこのちょっとした城のような大豪邸の女主人の座に収まっているのである。しかし、財産も社会的地位も、この世にも稀な純真さを持って生まれた女性にはなんの感化も及ぼし得ないことは、既に証明されている通りである。ルカはなんとか母親の手を肩の上から引きはがすと、低く溜息を吐いた。


「そんな騒動知らないさ。怪物なんている訳ないだろう」

「でも、テレビでは……!」


 食い下がる母親に、ルカはやや露骨なぐらいに肩をすくめてみせた。


「いいかい、母さん。テレビなんて面白そうなことから突っつきだしていくものなんだ。信用してると今にバカを見る。どうせ集団ヒステリーかなにかに決まってるさ。怪物なんて姿も形もなかったよ」

「そうなの……」


 ソーニャは子供にすげなくされたというより、親に道理を説かれたというようなあどけない表情を浮かべて、玄関ホールを抜けていこうとする娘の後ろ姿を見守っていた。と、突然、その表情がボールをひっくり返したようにくるりと変わった。ぽんと手を打って、母親はルカの後ろ姿に叫びかける。


「あっ、ルイ!ミーチャがね、来てるわよ!柏木かしわぎさんも一緒!お部屋にお通ししておいたからねー!」


 柏木の名に、思わずルカは立ち止まりかけたが、母親の手前歩き続ける。玄関ホールを抜けて扉を一つ潜ると、長い廊下が横たわり、その正面には応接間へと続いていく扉が立ちはだかっている。ルカは進路を右にとった。そのまま進んでいけば、防音室のある四階へと続く階段に突き当たる。


「おかえりなさいませ」

「……ただいま」


 ルカの姿を見つけてしずしずと頭を下げるメイドに、ルカは軽く手をあげて応える。何を案じていたのだか。そうだ、柏木のことだ。よりによって奴が来ているとは。しばらく部屋に行くのはそうか?と、考えて、ルカは自嘲気味にふっと笑った。なぜ家主が遠慮する必要がある?思えば奴に玲子に対するどんな権利があるというのか?私は前世からずっと彼女を見守っていたのだ。前世の、ごく幼いとき――柏木が彼女に懸想するずっと前から――同じ四神として、傍にいた。命を救ってくれたものとして、敬い続けた。そして、彼女を愛し続けた。死がその体を蝕む瞬間でさえも。


 あの辛い別離の時が、二度も訪れるとは想像もしなかった……




 「私の体を頼むわ」

 四月十二日月曜日――ルカの身はモスクワのホテルのベッドの上にあった。その微睡みのうちに、玲子は現れた。滅多なことでは微笑まぬ彼女は、その時も一抹の寂しさも悲しみもほのめかさず、己自身のうちできちんと始末をつけた通りの感情と覚悟とを、ただルカの目が彼女の瞳を射る故に、日に照らされた月のように、輝かせるだけであった。


「玲子、君は一体……!」

理由わけはいずれ話すわ……守って、姫様を」


 その明後日に帰国する予定だったのを、急遽その日の便で東京に戻った時、玲子は寝台の上に冷たい骸となって横たわっていた。柏木はただその傍らで途方に暮れていた。彼らしくもなく……ルカとて許されるなら見つめ続けていたはずだ。見慣れた、けれども決して見飽きはせぬその頬に見知らぬ温度が宿るさまを。しかし、呆然としている暇はなかった。とにかく困るのは、傍目には既に事切れているとしか見えない彼女の体を、いかに人目に、そして敵の目に触れさせずに、守るかということであった。柏木は自宅で預かると言い張ったが、激しい議論の末、ルカが玲子を勝ち取った。ルカはその夜、柏木と伯父・ドミトリーと共に玲子の体を白崎邸へと運び込み、敵の偵察が及ばぬようにと風の力で結界を張った。そうして待ちつづけている日々が、かれこれもう二月ほど。


 時折恐ろしくなる。玲子はもう二度と目が覚めぬのではないかと――そんな恐怖が胸にのぼるたび、ルカは自分自身を蹴り飛ばしたくなる。そんなことがあるはずはない。玲子は必ず目覚めるに決まっている。たとえ這い上る事が不可能と見える死の白い絶壁の下からでさえも、玲子は必ず舞い戻るであろう。けれども……それはいつなのだ?そもそもなぜ彼女はこんな仮死の水底に身を沈めてしまったのだ?


 周囲を窺って、防音室の扉を開いたルカは、途端に背の高い男の影がその顔にかかったのを感じて、不愉快そうに後ずさった。年の頃は四十半ばごろ。黒いスーツ姿の、肩幅のひろい男性である。黒い髪をオールバックにした、いかにも精悍せいかんそうな顔つきの男性であるが、ルカを見た瞬間にその三白眼はごくわずかながらも軽蔑のために細くなった。柏木武かしわぎたける――前世では右大臣として政権を握っていた男である。先帝の信任厚く、畏れ多くも若い新帝の補佐を任され、権力をほしいままにした。ルカは柏木を睨みつけた。並の男ならば見上げないで済むものを。この男には見下ろされなければならない。それが気にくわない。この男は玲子の傍に常に付き添っていることができる。それも気にくわない。その顔つきも、その声も、その眼差しも……


「遅いお帰りじゃないか、ご令嬢」


 柏木はルカのために扉を開けておいてやるようなことはせずに、後ろ手で扉を閉ざした。或いは、部屋の中に生温い空気が入り込まないように。


「……また来たのか」

「お嬢様をお守りすることが俺の役目だ」

「図々しい奴だ。他人の家にずかずかと」

「安心しろ。もう帰るところだ」


 柏木がルカの傍らを通り過ぎて、入れ替わりにルカが防音扉に手をかける。廊下を歩みはじめていた柏木は、ルカが扉を開きかけているところでふと立ち止まった。


「また敵が現れたそうだな。しくも水仙女学院に」

「……姫様たちが倒された」

「それで、貴様は見ていただけか?手をこまねいて」


 ルカは部屋の中から漂い出てきた冷気に視線を凍らせて、柏木へと投げつけた。だが、柏木は嘲りの笑みを留まらせたままであった。


「扉を閉めろ。開け放したままにするな」


 扉を閉ざしたルカは、向けられた笑いの性質に近しいものをなんとか見つけ出して、その口元に繕った。


「柏木、今の言葉をそっくりそのまま返してやる。貴様こそ姫様の元に駆け参じたらどうだ?玲子のことは私が守る……!」

「それは少し無責任が過ぎないか?貴様は四神だろう。京を悪しき力から守護し、姫様に仕えるのが貴様の職務だ。女が祭祀まつりを司り、男がまつりごとを司る。男の俺はせいぜい政治を執り行うことしかできない……俺はただお嬢様のために現世にやってきた。無論、漆とは戦うが。だが、女である貴様とは、責任の重みが違う……」


「黙れ!!」


 ルカは声を荒げる。


「……貴様は昔からそういう奴だ!己の身のことしか考えない、唾棄すべき奴だ……っ!貴様には姫様の元に参上する資格はない!……玲子を守る資格もない!」

「どうとでも言え」


 柏木は冷然と吐き棄てた。


「貴様にどう罵られようと構わん」


「消え失せろ!!」


 怒鳴りつけて、ルカは防音扉の内に飛び込んでいく。荒々しく入ってきた姪を、腕を組みながら何事か考えていたらしいミーチャおじさんは驚きの表情で出迎えた。

「どうしたんだい、ルイ?」

 優しい伯父の言葉にも、今は応えるに気にはならない。ルカの胸のうちは憎悪と怒りとで満ち溢れていて、理性的な言葉が生まれる余地はなかったのだ。憎悪と怒り――それは柏木への?否、違う。それは自分自身への。柏木の挑発にまんまと引っかかった自分への。柏木の言葉には、ルカを逆上させるための細やかな罠が至る所に散りばめられていた。柏木は知っている。女として生まれてしまったルカの劣等感を。しかし、柏木は更に知っているのである。女であるとか、男であるとか、そんな問題がいかに些末であるかを。彼の、そしてルカの愛する人の生き様がそれを証明しているが故に。だからこそ、そんな些末な問題に躓いて、うずくまっているルカを、柏木は嘲るのである。


(私は愚かだ……!だから、いつも、あいつに先を越されてしまう……!)


「……ルイ?」


 頬が冷えると、ルカは少し落ち着いて、扉にもたせかけた身を起こすこともできた。ルカは眠れる乙女の傍らへと歩み寄ると、その力のない手をそっと握りしめる。冷え切ってしまった、青ざめた手を。


「ルイ、大丈夫かい?」


 ミーチャおじさんが尋ねる。ルイはおじさんには見えないところで、静かに笑った。


「おじさん、私はいつも負けてしまうんだ。柏木の奴に……どうすればいい?」

「争わないことさ」


 おじさんは針のような痩身を、ルカの隣に並べて、姪の肩に手を置いた。


「争わないことさ、ルイ。味方同士で争ってはいけないよ。同じ志を持つ仲間なんだからね」



 その頃、扉の向こうでは、柏木が床の上に屈みこみ、何かを拾い上げていた。部屋の冷気に凍てついて、ルカの背中から剥がれ落ちたもの――凍れる葛の葉と見えたものは、柏木が摘み上げるなり粉々に砕け散った。柏木はその粉を掌の上に弄び、体温に溶け行くその雫を払って後、立ち上がって表情を険しげに寄せた。嫌な予感がする。この予感が当たってくれなければよいのだが……

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