11-5 「ルカさん……会いにきました」


 掃除の行き届いた明るい校舎の中を香苗に手をとられて歩く舞に、天使たちの好奇の視線が投げかけられた。すれちがう人は、誰もが香苗に向かって「ごきげんよう」と挨拶をして軽く会釈をしていった。姉も普段はこんな風に挨拶を交わしているのだろうか。想像した舞は、思い描いたものの不気味さを、首を振って追い払った。あまりにも恐ろしすぎる光景だ。


「どうかして?」

「いえ……あの、姉もあんな風に優雅に挨拶してるのかなって思うと、なんかおかしいっていうか、気持ちわる……」


 舞が最後まで言いきらずとも、香苗はくすくすと笑った。


「まさか。ゆかりはあの通りだもの。いつもわたくしの肩を思い切り叩いて挨拶するわ。先生方には怒られているけれど、一向になおる気配はないわね」

「それを聞いてちょっと安心しました……」


 舞は心からほっと安堵の息を吐いた。またもやすれ違った一団が香苗に挨拶をする。そうして舞に親しみと好奇の目を向ける。彼女たちは舞の顏よりも、結ばれた二人の手により長く視線を浴びせるのである。舞はいよいよ手を繋いでいるのが恥ずかしくなってきた。なんだか自分がひどく子供になったように思われて。ただでさえ、高校生に比べると中学生の自分は子供っぽく見えるのに。それにこの学校の生徒は異様に大人びて見えるから、舞はますます幼い未熟な自分を思い知らされるようだった。舞は香苗の手足が鹿の四肢のように均整がとれていて美しいことに気がついた。この清潔な廊下を歩むには、こんな長い脚が必要じゃないのかしら……そういえば、ルカさんの手足も美しかった。学ランの袖と、ズボンの裾とに包まれてはいたけれど。


「舞さんは、何の教科がお好き?」


 香苗が訊いたので、舞ははっと顏をあげた。


「えっ、わ、私はその……家庭科、とか」


 あら、かわいらしい、と香苗は微笑む。


「ゆかりの妹さんだもの。きっと優秀でいらっしゃるのね」

「いえ、全然。私、姉とちっとも似てなくて、勉強、本当に苦手で……お姉ちゃんは本当にどんな教科でもできるけど……」

「あら、ゆかりにも苦手教科が一つあることを知らなくって?」


 不思議そうに顔を上げる舞に、香苗は片方の指をぴんと立ててウィンクしてみせた。


「ゆかりが意地悪だから、教えて差し上げるわ。ゆかりはね、音楽だけは苦手よ。特に歌がね」

「歌……」


 音楽に関しては、舞はなんとも複雑な地位を保っている。桜花中学の音楽の先生は、舞のリコーダーのひどさには毎回崩れ落ちずにはいられないのだが、その歌声の美しさには涙を流して絶賛の拍手を惜しまない。そんな舞の姉であるゆかりが、歌が苦手だなんて。

 舞は思わず笑いだしてしまう――知らなかった。姉にも苦手なものがあるなんて。


「秘密にしてね、舞さん?」

「はい!」


 二人の笑いが四階の廊下に音楽のように響いていく。その挿話が、舞を向かうべき場所へ辿り着けるように押し上げていたことを、舞は知らない。気がつくと、舞とは生徒会室の前に立っていて、香苗がその扉に手をかけている。


「さあ、ここが生徒会室よ」



 香苗が扉を開けた瞬間、舞ははっと息を呑んだ。生徒会室の奥、窓辺に立ち尽くしている後ろ姿――学生帽をその頂きに載せた長い金色の波打つ髪、白い丈の長い学ランに包んだすらりと伸びた体、ズボン越しにも薄らと筋肉を纏っていることがわかる長い脚。かの人は、何か物思うように窓の外を眺めている。その手に握られているのは……眼鏡?


 と、香苗の手が舞の手をはらりと取り落とした。だが、舞もまた、かの人の後ろ姿を眺めることに夢中になっているので気がつかない。香苗の瞳は激しく震えを帯びているのに。


「会長……」


 香苗の声に気付いて、ようやくその人は他人の存在に気がついたようだった。まるで寝起きの人のような鈍さで「あぁ」と低い声を発して、かの人は疲れたように振り返り、そして舞の姿を認めた。途端にアイスグレーの瞳が大きく見開かれ、薄い唇から声ならぬ声が発せられるのが分かる。衝撃と苦痛の調べであると、舞の鋭敏で音楽的な耳は悟った。舞はここに来て傷ついた。よもや、自分の姿を認めたルカが、そんな声を発するものとは思わなかったのである。


 白崎ルカは逃れたそうに一歩後ろの方に退こうとして、窓と壁とに行き先を遮られた。帽子がその頭から転がり落ちる。


「会長?」

「どうして……どうして、貴女あなたが……」


 ルカの声は掠れていた。今度は衝撃に苦痛が立ち勝っていた。舞の心はますます砕かれたが、この場を繕うような力のあるものが此処では何一つ生まれる見込みのないことを、ルカの目に見取ってしまっていた。舞が身を翻したとしても、倒れた花瓶を戻したところで零れた水の元にはかえらぬように、ルカの苦しみは癒えないのであろう。そして、また、舞の傷口も……


 こうなっては仕方がない、と舞は一瞬爪先に落とした目を毅然と掲げ、ルカの方に向かって一歩踏み出した――私は京姫だ。だから大丈夫。私には四神を集め、漆を倒すという使命がある。


「ルカさん……会いにきました」


 舞は首から下げた鈴を外して、ルカの方に突き出して見せた。香苗がなにがなんだか呑みこめないという様子で眺めているのも、舞はもう気にしなかった。


「ルカさん、一緒に戦ってください。私たちにはルカさんの、いいえ、白虎の力が必要なんです」

「し、しかし……」

「螺鈿との戦いのとき、私を助けてくれましたよね?どうしてあの後でいなくなっちゃったんですか?だって、私たち、一緒に戦えるじゃないですか……!どうして覚醒しているのに、すぐに会いにきてくれなかったんです……?私たち、ずっと、ルカさんを探してたのに……」


 舞は自分の手の先で揺れている鈴の向こうに、激しい葛藤を浮かべているルカの瞳を見た。青ざめた顔で立ち尽くすルカの足元は、その心の揺動に全神経を傾けているせいかよろめいてすらいるというのに、ただ眼鏡を握り締める手の力だけがますます強くなっていくようで、手の甲が紙のように白くなっている。なにをそんなにこの人は迷っているのだろう。戦うことへの恐怖ではない。躊躇ためらいではない。この人は剣をひらめかせて、颯爽と戦場に現れたではないか。なにが、この人を私たちから引き離そうとするのだろうか……この人の深い敬愛を、舞はもうその手に受けて知っている。


「白虎……」


 呟く舞の目が潤みを帯びてくる。咄嗟にそこから目を逸らしたルカは、それを機にようよう心を立て直せたかのように窓辺にもたれかかっていた身を起こし、床に転がり落ちていた帽子を拾い上げて少し払うと、頭の上に被せた。そのつばで深く目元を覆ったルカは、椅子の上に置かれていた自分の鞄を持ち上げると、すたすたと歩いて舞の横を通り過ぎていく。香苗の傍らまでやってきたところでルカは前を見つめたまま、ただ通り過ぎ様にその学ランの肩に微かに触れていった温もりに心の全てを課そうとして、それを必死に堪えるかのように、苦しげに口を開いた。


「人違いです……」

「ルカさんっ!」


 舞の声は上ずった。それでも、ルカは振り向かない。


「私にはなにを言っているのか、さっぱり……」

「嘘っ!」


 舞の叫び声に苦悶する肩を見たのは、香苗ばかりである。


「……では、失礼」


 ルカは足早に廊下を去っていく。「待って」と後を追おうとする舞を、香苗の手が引き留めた。そこで改めて香苗の存在に気付いた舞は、香苗の胸にぎゅっと閉じ込められる。


「香苗さん……!」

「いけません、舞さん」

「でも……!」


 香苗はますます舞をきつく抱きしめると、舞の頭に頬を宛がった。


「お願い、舞さん……会長をそっとして差し上げて……」

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