11-4 「北条院香苗と申します」

「まーい!今日空いてる?」


 帰りの会が終わるなり美佳が背中に飛びついてきたので、舞は「うわっ!」と叫びながら前のめりになって危うく倒れそうになった。翼がその顔面を片手の掌で支えてくれたので、舞はなんとか転倒を免れた。ただし、舞の鼻は完全につぶされたが。


「お前、ひっでーなぁ。仮にも人の顔面に向かって。それでも女子かよ」

「うるさいっ!」


 その様子を眺めていた恭弥が漏らした言葉に、翼が怒鳴る。なんとか体勢をたてなおした舞は尚も背中に引っ付いている美佳に鼻先を抑えながら、涙目で言った。


「もう、美佳ったら危ないじゃない……!」

「ごめんごめん。でっ、今日空いてる?」

「ごめんね、今日はちょっと……」

「うっそー、なんでよ?!理沙たちと買い物いくのよー!ついでに新しく出来たかき氷屋さんに行くのに!」

「そうだよ、舞ちゃん行こうよ!」

「ほらー、優美がこうやってお願いしてるのよ!」

「京野さん、ちょっと……」

「佐々木!今私たちが舞に大事な話してるのがわからないの?!」

「ねぇ、舞ー!」

「えーと、ちょっと、用事があって……」


 白崎ルカを探すために、とは言えない。その日の昼休み、舞は翼と奈々とに白虎の正体を発見したことを打ち明け、校内新聞の写真を示したのである。白虎の目撃者である奈々はすぐに写真の少女が白虎であることに気がついてくれた。そこで、三人は相談して、兎にも角にも今日の放課後に水仙女学院へと向かい、白崎ルカを探し出すことに決めたのである。美佳、間島、優美、楓、理沙、学級委員の佐々木、それに翼と恭弥という、いつぞや舞が保健室に運ばれた際のメンバーに囲まれて、皆が口ぐちになんやかやというのをやり過ごしている間(翼と恭弥は二人でなにやら口論していたのだが)、ふと、舞は自分の横顔をまっすぐに見据えている何者かの視線を感じて、そちらを見遣った。と、舞の胸は大きく跳びはねそうになる。結城君……?目が合った瞬間、司ははっとして顔を背けた。一体なんだというのだろう。そんな意味ありげに見られると、なんだか落ち着かない。


 と、司が心を決めたかのように、突如舞に向かって歩き出してきた。


(?! 一体なに……?!)


 美佳たちの抗議も耳に入らぬ舞が唖然としていると、司が鞄の中に手を差し入れ、見慣れたうさぎのキャラクターが描かれたクリアファイルを取り出して、舞の方へとつと差し出した。舞はそれを見下ろした後、一瞬間を空けて「ああっ!」と叫んだ。司は舞の顔をまともに見ないまま、背けた顔で冷やかに鼻を鳴らした。


「こ、これ……!」

「忘れ物だ……もう少しまともな点をとったらどうなんだ」

「う、嘘……ま、まさか見た、の…………?!」

「……見えるようになっているのが悪い」


 司はさっさと言い捨てると、舞の前の机にファイルを置いてくるりと踵を返し、足早に去っていった。その後を、恭弥が追いかけていく。舞は絶望の面持ちで机に手を突いた。信じられない。まさかあのテストを結城家に忘れていくなんて。よりよってこんなテストを。せめて、国語であったらまだよかったものを。


 もう少しまともな点をとったらどうなんだ――舞は司の言葉を反芻はんすうして思わずうめいた。司の母親にも見られただろうか?


「えっ?なんで結城君が舞ちゃんのテストなんて持ってるの?」

「なによー、いつの間にそういう関係?」

「そ、そういう関係っていうのはどういう意味だね、間島君?!」

「黙んなさい、佐々木」

「しっかし、ほんとひどい点数ねー」


 言われなくとも分かっておりますとも……舞は美佳の言葉に涙ぐみながら胸中ひそかに呟いた。翼が呆れて溜息をつくのが聞こえる。


「まったく……」




「では、翼殿は図書館を捜索、奈々殿は校門前で待機、姫様と私は高等部の校舎を捜索、ということでよろしいですな?」

「りょーかいっ!」


 水仙女学院高等部の校門前でそれぞれの健闘を祈り合った少女たちは、左大臣によって言い渡されたそれぞれの持ち場へと向かうべく別れていった。舞が高等部の校舎の捜索にあたることになったのは、姉を訪ねるという絶好の口実があったためで、あとは奈々が校門前で下校しようとするルカを待ち受け、翼が、舞がルカとの邂逅を果たした場所である大学図書館を探すという分担になった。しかし、彼女たちはルカが見つかったとして、どう話しかけたらよいものかということはまるきり分かっていなかった。とにかく行動あるのみだという信念に突き動かされて、はるばる桜花中からここまでやってきたのである。


「うっわー、大きい門。なんか緊張するなあ」


 一人で大きな声でつぶやいている奈々を、水仙女学院の生徒たちが振り返って見つめている。舞と翼は肩をすくめつつ、舞は校門の中へ、翼は大学への入り口の方へと回るべく別れて手を振りあった。舞は深呼吸して、水仙女学院高等部の敷地内へと踏み込んだ。校門脇に立っている警備員は、見慣れぬ制服姿の女子生徒をじろりと横目で見たが、なにも言わなかった。学校見学にきた中学生だとでも思ったに違いない。


「どうしよう、左大臣……なんか、緊張してきた」


 舞は鞄の中にこそっと囁きかける。姉の通っている学校だといっても、水仙女学院高等部の敷地に入ったのは、これが初めてである。校門をくぐると、白い敷石で舗装された幅の広い道が校舎に向かって真っすぐ進み、その道の両脇から先の見通せぬほど密に体を寄せ合った白樺の林が続いていた。その林と道との際にあって、等間隔に設置されている電灯は、明治期のガス燈をイメージしたような妙に凝った洒落たデザインで、その下を、まだ電灯の恩恵は受けぬまま、清らかな白い頬を、自然の光線と、それから持ち得る限りの若さで以って輝かせて歩く少女たちは、まるで天上の天使たちのように、些末な苦労さえ知らないような笑声をさざめかせていた。


「しかし、姫様、猶予はありませぬぞ。一刻も早く白虎殿を見つけ出さなければ……!」

「そんなことはわかってるけど……!」


 とにかく姉にさえ見つからなければいいのだ。そうすれば、道に迷ったふりをしていくらでも白崎ルカを探すことができる――舞はすれちがう少女たちの顏をいちいちうかがった。その視線に気付いて、この可愛らしい訪問者に微笑みを向ける者も幾人かはあった。舞は思わず赤くなって目を逸らしたが、そうした少女たちのいずれもが、純白の、袖と襟に紺色と灰色のラインの入った、紺色のリボンの飾りのあるセーラー服を着ている少女たちであった。白い学ランを纏っている者は一人もいない。


 中央に尖塔のある真っ白い壁の校舎にたどり着いた舞は、尖塔より零れてきたあの無機質なチャイム代わりの鐘の音に思わず顔をあげた。舞の目に、白い壁を駆け下りてきた淡い日差しがぶつかって砕けた。舞が思わず目を細めたその時、背後から何者かが舞の背中を小突いた。この悪意ある児戯を受けたその直後から、舞は振り返る前より犯人がわかってしまった。聞きなれた声が降ってきたためである。


「まーいー…………なーんであんたがここにいるのかなあ?」


 思いがけず妹の姿を見出したゆかりは、ぐっと固めた拳に浮かぶ血管を見せつけながら、目元にかげりのある晴れやかな笑顔という矛盾しきった表情を以って妹への歓迎の意志を示していた。舞は思わず後ずさる。


「お、お姉ちゃん……!」

「どうして、桜花中学二年生のあんたが水仙女学院高等部にいるのかしら?ねぇ、舞ちゃん?」

「えっ、えっと、学校見学、とか……?」

「ほーう。それで見学はごゆっくりできましたかねぇ?」

「ま、まだこれからだよ!あはは!お姉ちゃんに案内してもおうかなあ、なんて」


 ゆかりは舞の肩に手をぽんと置くなり、母親が怒っているときによく浮かべるあの独裁者的微笑みを浮かべて、校門の方を指さした。


「そりゃあ、もちろん喜んで。お帰りはあちらです」


 と、ゆかりは途端に笑顔を崩して舞の方にぐっと顔を近づけた。懸命に目を逸らす舞に、姉の低い声が囁きかける。


「あんた、まさかと思うけど、白崎先輩に会いにきたんじゃないでしょうねぇ?」

「な、なんで、そんなこと、私が……」

「私の校内新聞持ってったの知ってんのよ?いい?姉に恥かかせたくなかったら、とっとと帰れ。今すぐに」

「だ、だから、違うって……べ、別にいいじゃない!お姉ちゃんの学校見学したって!」

「よくない!どうせろくでもないことしかしないくせに」

「ひどい!いくらなんでもひどすぎる!お姉ちゃんだって……!」


「あら、妹さん?」


 優しい声にびくっとしたのは舞よりゆかりの方らしかった。共に校舎の方、階段を数段のぼった昇降口のあたりを振り仰いだ京野姉妹は、そこに薄紫色の髪を一つにまとめた三つ編みを左肩に流した、見るからに優雅でやわらかな物腰の女子生徒を認めた。階段を降りてくる彼女の周りに咲き誇る薔薇の幻影を、舞は目をこすって掻き消した。けれども、幻の花の香りは確かに彼女のさやさやと揺れるスカートの裾のあたりから漂ってくる。

「か、香苗かなえ……!」

「ごきげんよう、ゆかり……こちらは妹さん?」


 姉が稚拙な虚偽を弄するより早く、舞は「はい」と答えていた。


「は、初めまして!妹の舞です」

「初めまして。お姉さまのクラスメートの北条院ほうじょういん香苗と申します。以後お見知りおきを……まあ、かわいい妹さんね」


 香苗が舞の頭を撫でるのを見て、ゆかりは、まるで昆虫館の最奥部のガラスケースの前に突き出されたときのような顏をしてみせた。


「やめてよ、香苗……そんな丁寧に挨拶せんでも……」

「あら、だってゆかりの妹さんだもの」

「妹じゃないわよ、そんなの」

「なによー、その言い草!いくらお姉ちゃんより出来が悪いからってねぇ、そんなこと言う資格、お姉ちゃんになんか……!」


 怒って両手を振りあげる舞を、香苗は優しく制した・


「ふふ、舞さん、落ち着いて。まあ、本当にかわいいわ。お姉さまがあんなにひどい言い草をするんですもの。いっそ、わたくしの妹にならなくって?」

「えっ……えぇ?!」


 香苗が舞を抱きしめるのにも、ゆかりは勝手にどうぞ、とでも、とんでも物好きがいたものだ、とでも言いたげな表情を浮かべてみせる。姉が完全に妹を放任することに決めたらしいので、かえって香苗は気楽になったように、こまごまと舞の面倒を見始めた。


「舞さん、今おいくつなの?」

「え、えっと、中学二年生です」

「まあ。この学校に進学するのね?」

「えっと、あの、そ、そういう訳ではないと……思うんですけど……」


 無理無理、とゆかりが首を振っているのが見える。舞はむっとして姉をにらんだが、香苗はもうすっかり舞はこの学校に入るものと思い込んで、計算をしていた。


「舞さんは今中学二年ということは、私たちが三年生の時に一年生ね。一年だけでも一緒にいられるわ。楽しみね。そうだわ。せっかくだから見学していったらどうかしら?案内してさしあげる。ゆかり、妹さんをお借りしてよ」

「そりゃ、構わないけど……それよりあんた生徒会の仕事はいいの?」

「平気。もう終わらせちゃったもの。そうだ、舞さん。せっかくですもの。生徒会室に案内してさしあげるわ」


 「えっ?!」とゆかりが飛び上がる。


「ゆかり、どうかして?」

「いやいやいやいや!まずいでしょ。仮にも他校の生徒を生徒会室にいれちゃあ……」

「大丈夫よ。副会長特権だもん」

「だもん、ってあんたね……いや、でもやっぱ……!」

「ほら、参りましょう、舞さん。手を繋いでいてね。迷子になると危ないから」

「は、はあ」

「こら、待て!香苗!」


 ゆかりの必死の制止も届かず、香苗は舞の手を引いて校舎のうちに消えて行ってしまう。運動部のゆかりの脚を以ってすれば追いついたであろうが、ゆかりはなんだかあまりのことにふらふらと気が抜けてしまって追いかける気にもなれなかった。舞が生徒会長に、白崎先輩に会ってしまう……なんてこと……ゆかりはその場に手足を突きかねない勢いだった。舞のやつ、くれぐれも変なことをしでかさなければいいのだけれど。


「生徒会長に睨まれたら、あたしの学校生活はおしまいよ……」

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