11-3 「白崎ルカ……」

「ただいま!」


 元気な声で帰宅した舞に、リビングのソファで雑誌を読んでいた母親と、その足元で寝転がり携帯電話をいじっていた姉とは珍しそうに顔をあげる。今日のテストは上手くいったのだろうか。しかし、母と姉の脳裏には同時に同じ言葉が横切る。まさか、それは在り得ない。ともあれ、舞は晴れ晴れとした顔をのぞかせた。


「おかえりなさい。どうしたの?妙にご機嫌じゃない」

「あっ、お母さん!今日ね、結城君の……!」


 舞の言葉が止まった。友達からの返信がきたために再び携帯電話の画面の方に目線を戻していたゆかりは、自分の肘のあたりに妹の目線を感じて、怪訝そうに舞を見遣った。舞の目は事実、ゆかりの肘の下に敷かれている水仙女学院高等部の広報誌に釘付けになっている。ゆかりはちらりと視線を落として納得した。


「お姉ちゃん、その人……!」

「一目ぼれするなよ、舞。女だぞ」


 なあに?と不思議がっている母親に、ゆかりはややしわの寄った広報誌を手渡した。舞が急いで駆けてきて、母の背後からその一面に食らいついた。そこに掲げられていたのは、チェロを奏でる美しい波打つ金色の髪の、アイスグレーの瞳のひとの写真――いつしか舞に白い薔薇を捧げ、その手の甲に唇を落としていったひと。そして今度こそ紛れもない。螺鈿との死闘のなかで、舞を救いに駆けつけてくれたひと――白虎――記事の見出しに大きくその名が記してある。



 白崎ルカ、金賞――アンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールにて

 本校二年生の白崎しろさきルカさんが4月10日にモスクワにおいて行われたアンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールにて金賞をとるという快挙を成し遂げました。アンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールは、ロシア(当時ソ連)の女性チェリスト、アンナ・スルツカヤ(1922~1987)の功績を称えて死後10年にあたる1997年から始まったコンクールで、現在では若いチェリストの登竜門とも呼ばれ、毎年世界各国か集まった多くのチェリストがその技を競いあいます。白崎さんは日本人初の入賞者となり、本誌のインタビューにおいて「大変光栄です」とコメントされました。白崎さんは4歳の時よりチェロを習い始め、8歳の時に全日本ジュニアコンクールで入賞、10歳で……



「白崎ルカ……」

 その名前を呟いてみる。そして再び写真に目を戻す。琥珀色の優美な楽器をその開いた脚の間に抱え込み、瞳をなにか恍惚とさせたように静かに伏せて、まるで己の奏でる音楽に聴き入るかのように、ほんの心持顔を突き出している。タキシードを着ているから、姉の忠告がなければ女性であると気が付けなかっただろう。そうか、この人、女性だったんだ。きれいな女性ひと……舞はなんだか落ち着かぬ気分を覚えなくもなかったが、同時にほっとしてもいた。司に対して膨らみはじめた新たな期待と、この女性に抱いていた感情はどうやら両立し得るようであったから。


「まあ、きれいな子ねぇ。これで高校生なの?」

「あったりまえでしょ。お母さんがロシア人なんだって。これで性格がまた男前なもんだから、もうモテてモテて仕方ないんだから」

「お姉ちゃん、この人と知り合いなの?」

「一方的に知ってるだけよ。殿上人だもん。お父さんはほら、あの白崎ホテルの取締役。ほら、桜花小学校から道路はさんで少し入ったところに大豪邸があるじゃない?あそこに住んでるんだって」

「そうなんだ……」


 手の甲に触れた柔らかくて温かな感触を懐かしまない訳ではない。あの瞳に見つめられたときのことを思い出すと、やはりどきどきしてしまうのは、どうしようもないけれど。白い薔薇をいつまでも指先で愛でていたときの煩悶はんもんは、忘れようがないけれど。でも、もうきらきらしい思い出に固執してもいられない。舞は進まなくてはいけないのだ。そう決めたのだ。司の笑顔を取り戻すため、ただ一人の想い人と再び会うために。


(みんなに言わなくちゃ)


 舞の心は固まった。


(みんなに言おう。この人が白虎だって。また水仙女学院に行かなくっちゃ。そして、なんとしても、見つけ出さなくっちゃ。白崎ルカさんを)


 舞は母親の両肩をぽんと軽く押して、階段を駆け上っていく。母親が数学のテストを見せるよう求める声は、都合よくも舞の耳には届かなかった。




「……ただいま」


 扉の閉ざした音の後で、息子の小さな声が聞こえる。「お帰り」と言いながらわざわざ出迎えてみたのは、今日はそんな息子の声の小ささもいとおしく感じられるが故に。あの少女が思い出させてくれたのだ。息子をかわいいと思う気持ちを。


 背が伸びていく。いつの間にか越されてしまった。その母ですら知らない知識をたくさん身に着けて、振りかざされることさえないけれど、そうしたものが息子の頭の触れる度に微かに音をたてるのが分かる。なんだか妙に大人びているこの息子に、気圧されてしまって、今までは頼る事しかできなかった。まるで自分の方が子供であるかのように。でも、司はまだ私の小さな司のままだから……玄関に顔を見せた母親に、司は少し驚いた顔をした。


「塾、どうだった?」

「ああ……別に」

「面白かった?」

「……いや、つまらなかった。知ってることばかりで」


 素直なのだかなんだかよく分からない。靴を並べなおすと、司はそう言って二階へと上がって行ってしまった。息子の白いシャツの背中が完全に消えてしまった後で、司の母親は溜息をつく。せっかく芽生えた勇気が挫けそうになる。あの子の、冷め切った横顔が綻びて、微笑みらしきものが浮かぶ日がくるというのだろうか。それすら想像できない。息子の顔は、いつごろからか氷の下にとざされてしまって。


 塾なんて、よくよく考えれば息子にとっては苦痛でしかないだろう。あれほど人嫌いなのだから、集団で勉強する場が、学校に加えてもう一つできるなんて、息子には苦行以外のなにものでもないはずだ。だから、つまらなかったなんて――それとも私に気を遣っているのかしら。自分が塾に行くと、病院に付き添えなくなると思って?しかし、それは母として思い上がりが過ぎやしないか。いっそ家庭教師でも付けてみようかしら。でも、それもそれでうまくいく気がしない。きっと司のことだ。一対一の濃密な関係を嫌がって、きっと相手をずたずたにしてしまう。それに、塾や家庭教師などなくとも、あの子は十分に勉強ができるのだもの。


 ともかく、お腹は空かせているだろう。人の子だもの……司の母親は気を取り直して、明るい居間の方へと向かい、魚焼きグリルの中に放り込んだ塩鮭の様子を見にいった。ちょうどよく焼けている。火を止めて、味噌汁を温めなおす。あとはこれにご飯と、マカロニサラダと、かぼちゃの煮物、あと生姜焼きも昼の間に作ってあるし、デザートには林檎も買ってある……


 息子が降りてきた音がした。折しも湯気を立てはじめていた味噌汁とご飯とをよそって居間の方に出てみると、息子が何やら拾い上げて、怪訝な顔で見つめているのに気がついた。あれは……


「どうして京野のテストなんかがここにあるんだ?」


 あっ!と司の母親は声をたてた。と、続けざまに笑いがこみあげてくる。


「あら、いやだ!舞ちゃんったら、忘れていったんだわ」

「……京野が来てたのか?」

「えぇ。買い物にいった帰り道にたまたま会ってね。傘忘れたみたいだったから、家まで来てもらって傘を貸してあげたのよ。そのついでにちょっとあがってもらってね」

「傘……?傘ならあいつ、ちゃんと持ってたような」

「あら、よく見てるのね。やっぱり気になる?かわいいものね」


 母親が珍しくからかうと、司はほんのりと頬を染めた。


「ち、違う。ただ帰り道、目の前を歩いてたから、嫌でも目に付いただけで……」

「ふふ、そういうことにしてあげる」

「母さん……!」

「ごめん、ごめん。ほら、座って。お味噌汁冷めちゃうわよ」


 司は椅子に腰かける前に再度改めて舞のテストを挟んだクリアファイルを見遣った。


「しかし、ひどい点数だ……」

「人のテストを勝手に見るんじゃありません」

「見えるんだから仕方ないだろう。32点……」


 一瞬唖然としてみせた司の母親は、慌ててこほんと咳払いをして、サラダと他のおかずを取りにいくべく息子に背を向けた。


「それ、明日返しておいてね、舞ちゃんに」

「ぼ、僕が?」

「当たり前でしょう」


 司はげんなりしたが、そんなことも知らずに鼻歌をうたって台所へと消えていく母親が妙に機嫌がよさそうに見えるのに、文句を言う気がつい失せた。なぜだか今日の母親はいつもより明るく見える。なぜだろう。京野舞の訪問が関係しているのだろうか。でも、まさか――あいつが母さんに何を出来るっていうんだ。しかし、司もつい思い出さずにはいられない。あの少女が周囲にふりまいている笑顔に、あるいは驚いた顔に、怒っている顔に、がっかりしている顔に、なぜだかクラスメートたちは微笑みかけるのだ。あの少女は誰もに好かれ、愛されている。自分とは対照的に――32点。彼女はテストの点数以上に、人生を明るいもので満たしてくれるものを知っている。舞は人から大切にされる術を、しかもそれを媚態と呼ばせることなく、ごく自然に知っていた。


 砂の城の尖塔が崩れる時、その変化は傍目にはごくわずかではあるけれども、塩辛い水と幼い手によってならされた城壁は、その上を流れていくものを確かに感じるだろう。司は表情にすらも表われ得ない心の変化を、その時確かに感じていた。なにが彼をかくも気弱にさせたのかは分からなかった。ただ、少年は砂の城ならぬ氷の城をそびえさせる心の内にも、陽だまりの生まれる余地があることを見抜いてしまったのである。


 自分も母も、あの少女の絶えず変化する表情に振り回されて、つい笑い合うこともできたらいいのかもしれない。あの少女の優しさに頼ってみることもできたら。あの幼馴染の少女に……



「なにも知らないくせに!」



 頭の中で鳴り響いた悲痛な叫び声に、司は思わずファイルを取り落とす。



「あなたは、あなたは、私のことなにも知らないじゃない!知ったような口きかないでよ!」



「あなたは司なんかじゃない!結城司じゃない!」



 駄目だ。司はズボンの裾をきつく握りしめて、それからふと肩をすくめる。一瞬の諦念のうちに、氷の城はかくして矜持きょうじを保った。自分は、あの少女にさえも拒絶されてしまっている。誰もに微笑みを振りまいているような少女にさえ。どうして自分は、人に嫌われる術しか知らぬのだ。どうして、あの少女のように……

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