11-2 「私、ちゃんと司のこと覚えてました!」

 ああは言ったものの、舞は走らなかった。走って転ぶ可能性が高いことは今までの経験上よく分かっていたし、それに走るほどの雨でもない。夏服の袖から突き出した肌に弾かれて雨が小さな雫を結ぶのを、舞は眺めてみたりする。この雨はきっと咲き初めの紫陽花を染めていくのだろう。こうして季節が変わっていく。春から夏へと。この町もいずれうだるような暑熱に煮詰まっていくだろう。でもその兆しは、今はこんな小さな雨の粒。


「姫様、よろしかったのですかな?」

「なにが?」

「傘のことでございます。濡れてお風邪を召すやもしれませんぞ」

「大丈夫!私、体は丈夫なんだか……」


 言いかけて、舞が口を噤んだのは、ちょうど曲がり角で人と鉢合わせたためであったが、その人が、灰色がかった紫色のワンピースの肩あたりから傘をもたげると舞は足を止めた。それは向こうの人も同じであった。


「舞ちゃん」

「お、おばさん……!」


 言ってから、舞はいきなりあまりに失礼だったのではないかと慌てたが、紙袋を下げた司の母親は少しも気にする様子はなく、嬉しそうに瞳を輝かせた。まるで少女のようだった。


「こんにちは。今学校の帰り?」

「は、はい!」

「あら、傘持ってないの?」

「ちょ、ちょっと、色々あって。あはは……」

「ふふ、だったら入って頂戴。家まで送るわ。あれから引っ越ししてなければ、そんなにうちと遠くはないはずだもの」

「いえ、でも……!」

「あっ、そうだ。せっかくだし、よかったらうちにいらっしゃいな!ちょっとお茶でもしましょうよ。どうかしら?」


 結城家に行ける……!舞はどぎまぎしてしまって、返事をするにもぱくぱくと口を動かすばかりであったが、そんな舞の様子に首をかしげている司の母親を見ると恥ずかしくなってうつむいた。行ってもよいのだろうか?行きたい気持ちはやまやまだけけれど。司が嫌がりはしないだろうか。それに、なんだか緊張してしまう。結城家に行くなんて、以前の司の時も近年では少なくなっていたから。すると、舞の気持ちを見透かしたように、司の母親が笑って言った。


「ああ、司なら今いないわよ。私が追っ払っちゃったから」


 へっ?と、きょとんとして顔をあげる舞に、司の母親はラベンダー色の傘を被せる。


「まあ、とりあえず一緒に行きましょう」



「ほら、って言っても覚えてないと思うけど、もうすぐ司のやつ、誕生日なのよ。それでプレゼントをこっそり買いにいってたの。あの子、私が一人で遠出するとすぐ心配して付いてこようとするんだけど、さすがに誕生日の買い物はそういう訳にはいかないでしょ?だから、塾の体験教室にでも行ってきなさいっていって追い払っちゃったの。八時ぐらいまでは帰ってこないと思うわ」

「そうなんですか。あっ、じゃあ、これがプレゼント……!」


 舞は傘に入れてもらう代わりに預かった紙袋を少し持ち上げてみる。確かに上から覗いてみると、青いプレゼント用の包装紙とリボンとが見える。司の母親は声をたてて笑った。


「そう。でも、あの子、呆れちゃうぐらい物欲がないから、なに買っていいかわからなくって。だから、万年筆と、本と、それとね、サッカーボール」

「さ、サッカーボール?ゆ、結城君に?」

「そう。あの子がサッカー部に勧誘されてるの、知ってる?東野君っていうとっても親切な子がいてね、司を誘ってくれてるんだけど、司は入りたがらないの。理由はわかるわ。部活で忙しくなると、私の面倒みられないからなのよ。病院にも付き添えないし」


 少し切なげに司の母親は瞳を揺らした。狭い傘の中であるから、その横顔は余計間近に見える。


「でも、本当は入りたいんだと思うのよ。入った方がいいと思うの。あの子、友達、全然いないんだもの……」

「おばさん……」

「だから、そのボールは、私のことを気にせずにはいりなさいってメッセージ。あの子が受け取ってくれるといいんだけど」


 司の母と舞とは、篠川しのがわの鈍色の川面に渡された橋を過ぎて、町の最南西へと向かっていった。橋を過ぎて川辺に繁茂した草草の影を眺め遣る時、舞はついおののきそうになる。かつてはなんの気兼ねもなく訪れていた結城家なのに――今はなんだかその門をくぐると思うだけでも恐ろしく思われてしまって。見慣れた景色すらこうも違ってみえるのかと。


 結城家は、橋を渡ってからしばらく川沿いを川の流れと逆行して進み、通りを一本中に入って左手の六軒目。他の家と比べるとやや小ぶりな、けれども洒落た家である。門から家までの間には白いタイルの階段が続いていて、階段の両端と踊場とを花壇に植えられた植物や陶器の動物たちが飾っている。壁の色はくすんで少し灰色がかったごく淡い紫色で屋根は黒く、全体的には横よりも縦に長い印象である。


 舞は躊躇しない訳ではなかったけれど、もうここまで来てしまったからと、司の母親の招きに応じて結城家の門を潜った。扉を開けると、見慣れた光景が飛び込んでいる。吹き抜けになっているせいでなんだか妙にひろすぎて見える玄関。リヤドロの少女の人形は舞が覚えていたのとまったく同じ位置でスカートをひろげている。舞は胸が打ち震えるのを感じた。思わず靴を脱ぐのも忘れて、舞はその場に立ち尽くす。


「舞ちゃん、どうぞあがって」


 濡れた傘を軒先で振るってから、司の母親は荷物をひとまず置いて靴を脱ぎ、舞にスリッパを勧める。舞はお邪魔しますと小さな声で言って頭を下げる。居間へと案内された舞は、記憶と違って寂しげなその部屋にやや驚く。真っ白い壁紙の、片付ききった、というよりは散らかしようがないほどの物のない部屋である。扉を抜けてすぐ右手には食卓の白いテーブルに、親子が差し向かいになって座るための椅子が二つ、あとは食器をしまっていると思しき白い棚と、台所に続いている扉ばかり。左手の床にはグレイのカーペットが敷き詰められ、モスグリーンの二人掛けのソファが置かれている。ソファの正面にはテレビが置かれ、ソファとテレビとの間にはガラスのローテーブル、テレビのすぐ脇に木製のアンティークらしい棚。庭に通じているガラス戸にはベールのカーテンがかかっている。ここで寛ぐこともあるのだろうか。こんな殺風景な部屋で?


「まあ、よかったら、かけて頂戴」


 司の母親は、食卓の方の椅子を舞に示し、礼を言いながら舞の手から紙袋を受け取って、自分は荷物をどこかにしまうためか部屋を出ていってしまった。舞は座れもしないでぐずぐずしていたが、戻ってきた司の母親はその様子を見て改めて舞に椅子を勧めると、今度はキッチンの方に消えていった。再び現れた司の母親は、アイスティーを入れたグラスとクッキーの缶をお盆の上に載せていた。


「ごめんなさい、こんなものしかなくて。ジュースでもあればいいんだけど、うちになくって。今温かい紅茶をれてるからね」

「いいえ、とんでもないです……!ありがとうございます」


 舞は恐縮しながらグラスを受け取って、ミルクを断って一口飲んだ。アイスティーの味よりも、舞にはしみひとつない食卓ばかりが気になって仕方がない。ここで食事をしたことがあるのか疑わしく思われるほどだ。というより

――この家で本当に生活というものが営まれているのだろうか。まるで人がここで暮らしていることを慌てて物を寄せ集めて演出したとでもいうような雰囲気である。しかし、司の母親はこんな家の中の光景にも慣れきっているらしく、舞を改めて見据えて嬉しそうに笑った。


「嬉しいわ。舞ちゃんがまたこの家に来てくれるなんてね。何年ぶりかしら……もう十年ぐらい経つのね。舞ちゃんは小さい頃からかわいい子だったけど、まさかこんなに綺麗なお嬢さんになるなんて。いよいよ将来が楽しみね。ねっ、舞ちゃん?」

「そ、そんな……!」


 舞は頬を赤らめる。なんだか司の母親にかわいいと褒められると、以前の司に褒められているような、妙な気分になる。


「司も舞ちゃんのこと大好きだったものね。お嫁にもらうんだって、よく私には言ってたのよ。あら、真っ赤になって。ごめんなさい、気にしないで、子供の頃の話じゃないの。もう、舞ちゃんったらずいぶんと純粋なのね。あっ、ほら、クッキー食べて」


 司の母が手をつけようとしない舞にクッキーの缶を押しやった。舞は遠慮がちに一つを指でつまんで口に運ぶ。その味もよく分からないままに。


(あ、あの結城君が、私を……?!)


「そういえば、お姉ちゃんは元気?今おいくつかしら?」

「あっ、はい!今高校生一年です。水仙女学院に通ってますけど」

「まあ、すごい」

「そ、そんなこともないです……!それこそ、結城君だって。どんなテストも大体学年一番だし。先生たち、みんな結城君のこと褒めてます。桜花中なんかじゃ勿体ないってクラスのみんなも言ってますし……」


 舞の褒め言葉に、司の母親は喜んでいるのやら切ないのやらどこかわからない微笑を浮かべた切りだった。舞は自分が危ないところを踏み抜きそうになっていることに気がついた。


「あっ、あの、おばさんと結城君はどうしてこの町に……」


 言ってから、舞ははっと口を噤んだが、司の母親はたおやかな微笑みのうちに言葉を含ませて、やかんの火を止めに立ち上がった。司の母親が戻ってくるまでの、舞には永遠とも思われた時間、舞は自分を呪い、罵り、責めたが、ティーカップに紅茶を注ぎ込むときの司の母親はかえって舞に対する親しみを一層深めたようにみえた。なにも言わずに紅茶を差し出すその瞳の伏せ方に、その伏せ方で必死に示そうとしている寂しさに、そうした親しみが表れていた。舞はまるで話を切り出されたかのように司の母親をじっと見つめ始めた。


「……ねぇ、舞ちゃん。あの子、上手くやってるかしら?」


 口を開かぬ舞は、決して返答を渋った訳ではなかった。


「心配なの。あの子、あんな性格だから。友達だってろくにいないでしょうし……毎朝つまらなさそうに学校に行くの。愚痴こそ零さないけれど、きっと楽しくないんだろうなって分かるの。親バカだと言われるかもしれないわね。あの子が人を寄せ付けないで、見下したような態度をとってるのがいけないことは、私もよくわかってるのだけど……それでも、なんだかつまらなそうに学校に行くあの子が、なんだかかわいそうで。ああ、あの子には居場所がないんだって。この家の中にも、学校にも。でも、どうしたらいいかわからないの。どうしたら、あの子、小さいときみたいに笑ってくれるのかしら……」


 司の母が指先で抱えている、琥珀色の水面が震えている。


「京都からこの町に戻ってきたのはね、舞ちゃん。京都でも上手くいかなかったからなの。あの子ね、あっちの中学でいじめっていうか……うとまれてたのね。あんな性格で、同級生は寄せ付けないくせに、それでいて先生受けはいいでしょう?だから、色々といやがらせを受けたり、無視されたり。それでもあの子、私にはなにも言わなかったわ。気付いた担任の先生が教えてくれて、やっと知ったのよ。私ったら、もう……!自分が情けなくて仕方なかったわ。問い詰めても司はいじめられてるなんて絶対認めようとしなかったけど、でも、もうわかり切ってしまっていていたもの――あの子の上履き、ボロボロだったの……!先生と面談しに行ったとき、私、初めて気づいて……っ!」


 舞はできるだけ静かな何気ない動作で鞄を探り、クリアファイルを退けてハンカチを取り出すと、司の母親に差し出した。司の母は小さな声で礼を言いながらそれを受け取った。


「ごめんなさいね、こんな話をして……それで、決めたのよ。司をこの学校にはいさせられないって。どこかに転校させなきゃいけないって。もちろん京都の他の学校でもよかったのだけど、でもね、ふっと思ったの。桜花市に戻ろうって。だって、この町でのあの子はあんなに笑っていたんだもの。懐かしさでも、ただ単に住む場所が変わったっていう珍しさだけでも、とにかくなんでもよかったわ。この町なら、あの子は変わるかもしれない。そう思って引っ越してみたの。でも、結局は……」


「……結城君のこと、好きだって人もちゃんといます」


 はっと目を上げた司の母親から揺らぐ目元を隠すために舞は紅茶の上に覆いかぶさった。ミルクも砂糖もまだ入れていない、濃い液体を一口飲んで、舞は声の揺らぐのを、茶の熱かったせいだと思い込む。


「東野君はずっと結城君をサッカー部に誘ってます……きっと一緒にサッカーしたいから。この間、一緒に社会科の授業で発表をしたけれど、結城君がとてもきれいに資料をまとめてくれるから、グループのみんなも大助かりでした。結城君はすっごく頭もいいし、あまりしゃべらないし、一人でいることが好きみたいだから、クラスのみんなもちょっと怖いとは思ってます。でも、本当に嫌いなわけじゃないんです、みんな。少なくとも私はそうです。結城君は、一度、私のことを守ってくれました……」


 それからようよう舞は顔を上げた。水を吸って崩れかけていた心の地盤を意志の根で以ってぎゅっと縛りなおして。


「おばさん、私、ちゃんと司のこと覚えてました!昔、二人で道に迷ったときに手を引っ張って連れて帰ってくれたこと、ちゃんと覚えてました!司の笑顔も……私にもできることがあれば、協力しますから!大丈夫ですよ!結城君の笑った顔、また見られるように、二人で頑張りましょう!」

「舞ちゃん……」


 司の母親は舞のハンカチを目に押し当てて、桃色の布の端の影で微かに笑った。


「ありがとう、舞ちゃん。嬉しいわ。なんだか元気が出たみたい……」

「……っていっても、私もなにができるか」

「いいのよ、その気持ちだけで十分嬉しいわ」

「あの、あんまり思い詰めないでくださいね。きっと結城君もおばさんがつらそうな顔してるのが、一番つらいはずですから」

「えぇ、そうね。まずは私が笑顔にならなきゃね」


 二人は笑い合う。互いの顔に認め合っているこの笑顔が、一人の少年の顔にもいつしか描かれる時があることを願いながら。舞の胸のなかで一度は枯れ果てたと思われた希望が芽生えていく。またあの司に会えるかもしれない。だって、司は司だった。だからきっと、いつか、笑顔があの結城少年の顔に戻った日、舞は司と再会できる――

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