現世編―芙蓉の巻―

第十一話 白き風の人

11-1 「ボクに何の用なの?芙蓉お姉ちゃん?」

 拝殿の焼け落ちた苧環おだまき神社のがらんどうの境内には先ほどから、ぽん、ぽん、という軽やかな音が響いている。それを不思議に思う人もいないのはこの神社の不幸であるが、 煌々こうこうと光るまどかな月を見上げても、巡らされるその白い光の差すうちを見渡しても、音の源はどこにも見当たらぬのである。芙蓉はそこに十二単の裾を降ろして、軽やかな音の彼女をまわりをからかうように回るのにも、瞳をただ真正面のたぶの森の暗闇にじっと凝らしていた。すると、ふと音が途絶えて、宙高く跳ね上げられた鞠が芙蓉の足元に落ちてころころと転がって現れる。それでも芙蓉は眉ひとつ動かそうとせず、鞠にも視線を落とそうとはしない。


 くすくすと子供の笑うような声がした。


「いやだなぁ、芙蓉お姉ちゃんったら、全然びっくりしてくれないんだもん」


 背後にあらわれた人影に、芙蓉はようよう物憂げそうにも見えるゆるやかな動きで振り返った。


「馴れ馴れしくってよ」

「ふふ、お気に障った?」


 相手が無邪気に笑いかけるのにも、芙蓉は唇を緩ませもしない。相手が幼い子供であるにも関わらず――いや、厳密にいえば。子供の姿をとっているだけなのだが。芙蓉はそれを知っているから微笑さえ浮かべようとしないのだ。


「まあ、いいや。仲良くしようよ、ねっ?」


 鞠を拾い上げて、にこりと芙蓉に微笑む幼い少年。年のころは七つほど。月明かりに雪原のようにきらめく髪、雛のように白く小さな顔、ちょっと釣り目気味な赤味がかった褐色の瞳、尖った小さな鼻と薄い唇。小柄な身には蒲公英たんぽぽ色の水干すいかんを纏っている―― 一見するとさほど奇異には見えない少年の姿ではあるが、第一にかわいらしくは見えるけれどもその実表情の読めないことが少年に油断ならぬ印象を与えており、第二に白銀色の髪の間から突き出た二つの尖った耳と、腰元に気まぐれそうに揺れているふさふさとした筆のような尻尾とがこの少年の異形の者であることを示している。芙蓉がなにも返さぬのにも少年は不遜にも見える笑みを浮かべたきりで、それから再び鞠をつきはじめた。


「ところで、ボクに何の用なの?芙蓉お姉ちゃん?」

「……お前はなぜ螺鈿に手を貸したの?」

「そんなの簡単だよ。螺鈿お姉ちゃんには何百年も封印されてたところを助けてもらったんだもん。恩返しの一つもしなくっちゃ。狐の恩返しってね。コン、コン。稲妻を起こすぐらいならお安い御用さ」

「そう。でもお前は螺鈿を見殺しにしたわね」


 鞠をぽんと頭で弾いて、狐の耳の少年は宙に浮かび上がる。


「あったりまえじゃない。ボクがなんで命がけで螺鈿お姉ちゃんを助けなきゃいけないのさ。もう十分恩義は返したっていうのにさ」

「……そういうことね」


 その時、芙蓉の口元に初めて笑みらしきものが浮かんだ。空中で丸まったり伸びたりしながら、鞠を落とさぬ遊びに興じていた少年もようやく不思議そうに芙蓉の顔を見遣る。


「そういうことなら気に入ってよ。篝火かがりび、お前が螺鈿なんぞよりずっと力の強い、古い歴史を持つあやかしであることは知っていますわ。わたくしたちにお前の力を貸す気はなくって?無論、見返りはあってよ。一つには……」


 「これ」と言って、芙蓉は袖の内より包みを取り出してその場で広げてみせる。篝火が思わず鞠を落として興味深く見守る中で芙蓉は包みの中の重箱の蓋をとった。途端に篝火は飛び上がって歓声をあげた。


「お揚げだ!」

「ふふ、お前の好物でしょう?一つにはこれをやりますわ。もう一つには……」


 と、芙蓉は袖よりもう一つ包みを取り出すと、素早くそれを解き、その中身をほんの刹那だけ篝火に示すとすぐさまに袖の内に押し隠した。篝火の目が赤く鋭く光ったのを、芙蓉は決して見逃さなかったようであった。


「……もう一つにはこれをやりますわ。但し、これは今すぐやる訳にはいかなくってよ。私たちの命を果たせたらその時に褒美としてやりましょう。私の命令を果たせるごとに、一つずつ……」

「……約束、してくれる?」


 篝火が鋭い目をそのままに尋ねるのに、芙蓉はますます満足したように口の端を歪めた。


「えぇ、もちろん」


 芙蓉の返答を聞いて、篝火はすっと地面に降り立った。水干の膝を地面につけ、芙蓉に深く頭を垂れて、尾を地に寝かせる。それが篝火の服従の証であった。


おおせのままに……芙蓉様」


 芙蓉は袖の中の包みより取り出したものを、篝火の前に転がした。それは傍目にはなにものとも思えぬただの石の欠片ではあったが、篝火は恭しくそれを押し戴くと、胸の内にしまいこみながら、新たな主の目に見えぬところに笑いの波をひろげていった。それは、おおよそ無垢な少年のそれとも思えぬ、獣のような残忍性に満ち満ちたものであった。




「しかし、白虎びゃっこ殿はなぜ……」

「だから、わからないったらー!」


 六月に入って早三日、桜花市では雨は降らぬが晴れもせぬというようなもやもやした、湿っぽい天候が続き、そこに中間テストの返却が重なってきているから、桜花中学の生徒はますます気分が冴え返らない。平然としていられるのは、翼などの成績優秀者か、あとは全く成績など気にしなくてもよい奈々のようなごく一部の者だけで、舞などは授業ごとに肝を冷やし、下校時には足一歩進めるのも恐ろしいといった有様なのである。今日は翼の家で今後の作戦会議が行われているから、なんとか帰宅時間を延長できてはいるが、しかしあの数学の点数……さぞかしお母さんの雷が落ちることだろう。それを思うと、舞はこうして世界の命運にかかわるようなことを話していても、どちらが重大か決めかねるようになってくる。


 左大臣はむむと言って、テディベアの腕を組んだ。何度も繰り返し同じ議題を持ち出す左大臣にうんざりし始めている舞に対し、翼は左大臣の問いにうなずいてみせる。


「でも、やっぱり変よね。あのまま姿を消したりして。怪我して気絶してたのが、左大臣たちが駆けつけたときにはもういなかったなんて」

「なんか事情があるんじゃないの?」

「事情って?」

「いや、それは知らないけどさ」

「もう……!」


 無責任な奈々の言葉に、翼は肩をすくめる。奈々は暢気のんきに頭の後ろで腕を組んで壁にもたれかかり、翼の母が出してくれた緑茶をすすっている。まるで自宅のようなくつろぎ様だ。螺鈿との戦いが終わって一段落してから、彼女たちが繰り返し話し合っているのは、あの戦いの折に京姫を助けに参じながら、戦いの後で忽然と姿を消してしまった白虎と思しき人物のことである。白虎はその後も姿を見せようとしない。この数週間の平穏をかの人も最後の憩いに宛がおうというのか。それとも、何か馳せ参じることのできない事情があるというのだろうか。このような解決のつかぬ問題がこれまで延々と語られてきたのだ。


「残る四神はあとお二方……白虎殿と朱雀殿。早く見つけ出さなければ、また奈々殿の時のようなことになりかねませぬ。白虎殿は恐らく覚醒しているから身を守れるとしても、朱雀殿の身が危ぶまれます。今度は敵の方とて鈴を奪ってからなどという生ぬるい手に出てくれるかどうか。見つけ次第殺すということも考えられます。敵より先に、なんとしても白虎殿と朱雀殿を……」


 白虎――舞が先ほどから膝を抱えてふてくされているような素振りをしているのは、テストの点数が悪くて落ち込んでいるためとか、左大臣の話題に飽き飽きしているためとか、そうした理由からばかりではない。


 金色の長く波打つ髪、アイスグレーの眼差し、美しい肢体と凛々しい表情、それに、手の甲に落とされたキス。それらを思い出す度に、胸がとくんと高鳴るのである。舞の中ではその人が、いつしか水仙女学院すいせんじょがくいんで出会った白薔薇の人と重なっている。もしや白虎はあの人――確かに容貌は瓜二つであったけれど。でも、あの戦いの中では舞も無我夢中であったし、それほどはっきりと白虎の顔を見つめられた訳ではないし。しかし、あんなに美しい人が二人といるだろうか。ああ、もう一度会えたら……


 一体どちらに?そう思って、舞はどきっとした。私は白虎に会いたいの?それとも水仙女学院で会った人に?それは、白虎に決まっている。白虎はかつての仲間、四神の一人なんだもの。一刻も早く再会して……そう、そうに違いない。だって私には司がいるんだもの。他の人に、心変わりなどするものか。


「……舞?舞!」


 舞ははっとした。翼が呼びかけている。ついぼんやりしていたようだ。もう、つまらないことばかり考えているから……


「あっ、ごめん!」

「もうっ、しっかりしてよねっ!とにかくこれからもっと活動範囲をひろめてみなきゃ。敵がこのところ何もしてきてない今が絶好のチャンスなんだから!とにかくはやく白虎と朱雀を見つけなきゃ。朱雀はとにかく、白虎については顔が分かってるんだから、見ればわかるはずだもの」


 一同が同意したところで翼の稽古の時間となり、話し合いはお開きとなった。奈々は弟の悠太のお迎えがあるというので、舞は途中までの道のりを並んで帰った。空は変わらず白く鈍り、今にも降りだしそうな素振りを見せつけており、風はほのかに雨の匂いをはらませている。舞は母親に言われて傘を持ってきてはいたけれど、結局はこの数日余計な荷物になりさがっていたのが、今日この日、奈々と並んで帰る道で、初めて汚名返上の機会を得た。翼の家を出て数分ほど歩いたところで、ぽつりと肩を濡らしたものがあったのである。


「あっ……」


 舞がつぶやくと、奈々は立ち止まった。


「どうかした?」

「今、降ってきたなって」

「ありゃ、ほんとだ」


 見上げた額に雫を浴びたらしく、奈々も言う。奈々はあの戦いで失ってしまって以来、眼鏡をかけなくなっていた。舞はあの眼鏡が伊達眼鏡などと知らないから、密かに不思議がっていたのだけれど。奈々は頭を掻いてみせた。


「まずったなー。つい油断して傘持ってないんだよなー」

「ひとまず、私のに入ってください」


 と、舞はピンク地にうさぎの模様のついた傘を広げて奈々の方に差し出した。


「おっ、ありがと!」


 舞より背の高い奈々が傘の柄を持って、二人は歩みを進めていく。その間に、ぽつりときたものが初夏らしからぬしめやかな霧雨となり、亡霊のような薄墨うすずみ色の影が二人の周りを彷徨い始めた。民家のブロック塀は濡れて色を沈ませ、木々は雨滴を受けて白くひらめき、時折二人の横を行く車が小言でも呟くように波のような音をたてて通り過ぎていく。舞はなんだか目に見えぬ膜に覆われているような錯覚にも陥った。


「ねぇ、舞ちゃん、白虎と朱雀のこと覚えてる?」


 何気ない会話を交わしているなかで、突如奈々が尋ねたので舞は不意を突かれる。


「えっ……?」

「前世のこと。あたし、前世の記憶ってやつはさっぱりでさ。まあ、時々、舞ちゃんとか翼ちゃんに似た人の顔はぼんやり夢に見るんだけど。どんな人たちだった?」

「それが、私もあまり思い出せなくて」


 前世のこと。もっと思い出してもよさそうなのに、舞はあまり思い出せないでいる。断片的な記憶しか残っていなくて、そのどれもが、平穏な日常の些細なことからの切り取りであることが多い。奈々と思しき人が最近それと判別できるようになったのだが、しかし、その人は現代の奈々とはあまりに雰囲気が違いすぎている。青龍はほとんどそのままの印象であるというのに。眠りの中に見るこうした前世の夢は、そのほとんどがさして深い感情を呼び起こさないものであったけれど、最近はつまらなくも美しい前世での日常の中で、自分が誰かを恋うている、と思う時がある。けれども、そこに白虎も朱雀の姿もない。


 白虎のこと――思いだせたらどんなにいいだろう。せめて夢の中だけでも会えたら。舞は慌てて首を振った。まるで水を浴びた子犬のごとく。奈々が不思議そうに舞を見る。やめなさい、舞、不純な考えは捨てなければ。


「しっかし、考えてみれば変な話だよねー」


 奈々はもはや雨に濡れるとか濡れないということを気にしていないらしく、頭の後ろで組んだ腕の肘が傘の外に突き出しているのにも平気である。


「前世で会った人たちと、また生まれ変わって出会うなんてさ。そりゃもちろんロマンチックだけど……自分でもしんじらんない」

「それがえにしでございます」


 左大臣が鞄からぴょこんと顔を出して口を挟んだ。


「姫様と四神は深い縁でつながっていらっしゃるのです。人と人との縁は永久に途絶えるものではありませぬ。人が何度死に、生まれ、世界が何度滅び、また再生して、どれだけ長い歳月が経とうとも、縁は途絶えぬのでございます」

「わー、左大臣、めずらしくポエミーなこというね!」

「ぽ、ぽえみー?ぽえみーとはなんでございますか……」

「しっかし、そうかー。あたしたちの前世の世界で、一回漆に滅ぼされてるから、相当前のことなんだよねー。つまりさ、歴史の教科書で習うやつより前ってことでしょ。だから、つまり……」


 奈々がポエミーの語義についてろくすっぽ説明もしないで自分の世界に浸っている間、縁というその言葉を舞は胸の中でつぶやいてみる。京姫と四神たちは縁でつながっている。だから、きっと、白虎にもまた会えるだろう。それに、朱雀にも。


 司は?突然尋ねだす自分に、舞は辟易へきえきしなくもない。司はどうなの?司とも前世からの縁で結ばれているのであろうか。だから、一度は永遠に失われたかと思った幼馴染としての絆も再び蘇ったのだろうか。思い出してみたいような、でもなんだか怖いような感じがする……


「あっ、じゃあ、あたし、ここで!」


 十字路に差し掛かって奈々が言う。奈々は保育園に向かうため、これからこの十字路を南の方に行かなくてはならない。奈々がもう傘をするりと抜け出ているのを見て、舞は慌てる。


「奈々さん、傘……!」

「へーき、へーき。雨にあたるの気持ちいいもん!シャワー代わりになったりして」

「え……えぇっ?!」

「冗談だよ。もう、舞ちゃんかわいいなー」


 と、奈々は舞の頭をがしがしと豪快に撫でる。撫でるというより髪をぐしゃぐしゃにされて、舞はまたふるふると首を振って髪をなおした。


「でも、悠太君お迎えにいくんでしょう?濡れちゃいますよ」

「あっ、そっか。でも、舞ちゃんだって傘なかったら濡れちゃうよ」

「私は大丈夫です!もうそんなに距離もないですし。走ったら、ほんとすぐですから!」

「そう?でもやっぱ悪いよ。あたし、やっぱりどこかで傘買って……」

「ほんと、私は大丈夫ですから!はいっ!じゃあ、奈々さんまた明日!」


 無理やり奈々に傘を押し付けて、舞は颯爽と身を翻し、丁度青に変わった信号を走って渡っていく。その勢いたるや、いつもの舞からは想像もできないほどだ。奈々は押し付けられた傘にぽかんとした後、「あっ、ちょっと!」と舞を止めかけたが、舞はすでに横断歩道を渡りきって、こっちに笑顔で手を振っていた。奈々は仕方ないと肩をすくめ、そこからにっこりと笑って手を振り返した。


「ありがとー!」


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