現世編―芙蓉の巻―
第十一話 白き風の人
11-1 「ボクに何の用なの?芙蓉お姉ちゃん?」
拝殿の焼け落ちた
くすくすと子供の笑うような声がした。
「いやだなぁ、芙蓉お姉ちゃんったら、全然びっくりしてくれないんだもん」
背後にあらわれた人影に、芙蓉はようよう物憂げそうにも見えるゆるやかな動きで振り返った。
「馴れ馴れしくってよ」
「ふふ、お気に障った?」
相手が無邪気に笑いかけるのにも、芙蓉は唇を緩ませもしない。相手が幼い子供であるにも関わらず――いや、厳密にいえば。子供の姿をとっているだけなのだが。芙蓉はそれを知っているから微笑さえ浮かべようとしないのだ。
「まあ、いいや。仲良くしようよ、ねっ?」
鞠を拾い上げて、にこりと芙蓉に微笑む幼い少年。年のころは七つほど。月明かりに雪原のようにきらめく髪、雛のように白く小さな顔、ちょっと釣り目気味な赤味がかった褐色の瞳、尖った小さな鼻と薄い唇。小柄な身には
「ところで、ボクに何の用なの?芙蓉お姉ちゃん?」
「……お前はなぜ螺鈿に手を貸したの?」
「そんなの簡単だよ。螺鈿お姉ちゃんには何百年も封印されてたところを助けてもらったんだもん。恩返しの一つもしなくっちゃ。狐の恩返しってね。コン、コン。稲妻を起こすぐらいならお安い御用さ」
「そう。でもお前は螺鈿を見殺しにしたわね」
鞠をぽんと頭で弾いて、狐の耳の少年は宙に浮かび上がる。
「あったりまえじゃない。ボクがなんで命がけで螺鈿お姉ちゃんを助けなきゃいけないのさ。もう十分恩義は返したっていうのにさ」
「……そういうことね」
その時、芙蓉の口元に初めて笑みらしきものが浮かんだ。空中で丸まったり伸びたりしながら、鞠を落とさぬ遊びに興じていた少年もようやく不思議そうに芙蓉の顔を見遣る。
「そういうことなら気に入ってよ。
「これ」と言って、芙蓉は袖の内より包みを取り出してその場で広げてみせる。篝火が思わず鞠を落として興味深く見守る中で芙蓉は包みの中の重箱の蓋をとった。途端に篝火は飛び上がって歓声をあげた。
「お揚げだ!」
「ふふ、お前の好物でしょう?一つにはこれをやりますわ。もう一つには……」
と、芙蓉は袖よりもう一つ包みを取り出すと、素早くそれを解き、その中身をほんの刹那だけ篝火に示すとすぐさまに袖の内に押し隠した。篝火の目が赤く鋭く光ったのを、芙蓉は決して見逃さなかったようであった。
「……もう一つにはこれをやりますわ。但し、これは今すぐやる訳にはいかなくってよ。私たちの命を果たせたらその時に褒美としてやりましょう。私の命令を果たせるごとに、一つずつ……」
「……約束、してくれる?」
篝火が鋭い目をそのままに尋ねるのに、芙蓉はますます満足したように口の端を歪めた。
「えぇ、もちろん」
芙蓉の返答を聞いて、篝火はすっと地面に降り立った。水干の膝を地面につけ、芙蓉に深く頭を垂れて、尾を地に寝かせる。それが篝火の服従の証であった。
「
芙蓉は袖の中の包みより取り出したものを、篝火の前に転がした。それは傍目にはなにものとも思えぬただの石の欠片ではあったが、篝火は恭しくそれを押し戴くと、胸の内にしまいこみながら、新たな主の目に見えぬところに笑いの波をひろげていった。それは、おおよそ無垢な少年のそれとも思えぬ、獣のような残忍性に満ち満ちたものであった。
「しかし、
「だから、わからないったらー!」
六月に入って早三日、桜花市では雨は降らぬが晴れもせぬというようなもやもやした、湿っぽい天候が続き、そこに中間テストの返却が重なってきているから、桜花中学の生徒はますます気分が冴え返らない。平然としていられるのは、翼などの成績優秀者か、あとは全く成績など気にしなくてもよい奈々のようなごく一部の者だけで、舞などは授業ごとに肝を冷やし、下校時には足一歩進めるのも恐ろしいといった有様なのである。今日は翼の家で今後の作戦会議が行われているから、なんとか帰宅時間を延長できてはいるが、しかしあの数学の点数……さぞかしお母さんの雷が落ちることだろう。それを思うと、舞はこうして世界の命運にかかわるようなことを話していても、どちらが重大か決めかねるようになってくる。
左大臣はむむと言って、テディベアの腕を組んだ。何度も繰り返し同じ議題を持ち出す左大臣にうんざりし始めている舞に対し、翼は左大臣の問いにうなずいてみせる。
「でも、やっぱり変よね。あのまま姿を消したりして。怪我して気絶してたのが、左大臣たちが駆けつけたときにはもういなかったなんて」
「なんか事情があるんじゃないの?」
「事情って?」
「いや、それは知らないけどさ」
「もう……!」
無責任な奈々の言葉に、翼は肩をすくめる。奈々は
「残る四神はあとお二方……白虎殿と朱雀殿。早く見つけ出さなければ、また奈々殿の時のようなことになりかねませぬ。白虎殿は恐らく覚醒しているから身を守れるとしても、朱雀殿の身が危ぶまれます。今度は敵の方とて鈴を奪ってからなどという生ぬるい手に出てくれるかどうか。見つけ次第殺すということも考えられます。敵より先に、なんとしても白虎殿と朱雀殿を……」
白虎――舞が先ほどから膝を抱えてふてくされているような素振りをしているのは、テストの点数が悪くて落ち込んでいるためとか、左大臣の話題に飽き飽きしているためとか、そうした理由からばかりではない。
金色の長く波打つ髪、アイスグレーの眼差し、美しい肢体と凛々しい表情、それに、手の甲に落とされたキス。それらを思い出す度に、胸がとくんと高鳴るのである。舞の中ではその人が、いつしか
一体どちらに?そう思って、舞はどきっとした。私は白虎に会いたいの?それとも水仙女学院で会った人に?それは、白虎に決まっている。白虎はかつての仲間、四神の一人なんだもの。一刻も早く再会して……そう、そうに違いない。だって私には司がいるんだもの。他の人に、心変わりなどするものか。
「……舞?舞!」
舞ははっとした。翼が呼びかけている。ついぼんやりしていたようだ。もう、つまらないことばかり考えているから……
「あっ、ごめん!」
「もうっ、しっかりしてよねっ!とにかくこれからもっと活動範囲をひろめてみなきゃ。敵がこのところ何もしてきてない今が絶好のチャンスなんだから!とにかくはやく白虎と朱雀を見つけなきゃ。朱雀はとにかく、白虎については顔が分かってるんだから、見ればわかるはずだもの」
一同が同意したところで翼の稽古の時間となり、話し合いはお開きとなった。奈々は弟の悠太のお迎えがあるというので、舞は途中までの道のりを並んで帰った。空は変わらず白く鈍り、今にも降りだしそうな素振りを見せつけており、風はほのかに雨の匂いを
「あっ……」
舞がつぶやくと、奈々は立ち止まった。
「どうかした?」
「今、降ってきたなって」
「ありゃ、ほんとだ」
見上げた額に雫を浴びたらしく、奈々も言う。奈々はあの戦いで失ってしまって以来、眼鏡をかけなくなっていた。舞はあの眼鏡が伊達眼鏡などと知らないから、密かに不思議がっていたのだけれど。奈々は頭を掻いてみせた。
「まずったなー。つい油断して傘持ってないんだよなー」
「ひとまず、私のに入ってください」
と、舞はピンク地にうさぎの模様のついた傘を広げて奈々の方に差し出した。
「おっ、ありがと!」
舞より背の高い奈々が傘の柄を持って、二人は歩みを進めていく。その間に、ぽつりときたものが初夏らしからぬしめやかな霧雨となり、亡霊のような
「ねぇ、舞ちゃん、白虎と朱雀のこと覚えてる?」
何気ない会話を交わしているなかで、突如奈々が尋ねたので舞は不意を突かれる。
「えっ……?」
「前世のこと。あたし、前世の記憶ってやつはさっぱりでさ。まあ、時々、舞ちゃんとか翼ちゃんに似た人の顔はぼんやり夢に見るんだけど。どんな人たちだった?」
「それが、私もあまり思い出せなくて」
前世のこと。もっと思い出してもよさそうなのに、舞はあまり思い出せないでいる。断片的な記憶しか残っていなくて、そのどれもが、平穏な日常の些細なことからの切り取りであることが多い。奈々と思しき人が最近それと判別できるようになったのだが、しかし、その人は現代の奈々とはあまりに雰囲気が違いすぎている。青龍はほとんどそのままの印象であるというのに。眠りの中に見るこうした前世の夢は、そのほとんどがさして深い感情を呼び起こさないものであったけれど、最近はつまらなくも美しい前世での日常の中で、自分が誰かを恋うている、と思う時がある。けれども、そこに白虎も朱雀の姿もない。
白虎のこと――思いだせたらどんなにいいだろう。せめて夢の中だけでも会えたら。舞は慌てて首を振った。まるで水を浴びた子犬のごとく。奈々が不思議そうに舞を見る。やめなさい、舞、不純な考えは捨てなければ。
「しっかし、考えてみれば変な話だよねー」
奈々はもはや雨に濡れるとか濡れないということを気にしていないらしく、頭の後ろで組んだ腕の肘が傘の外に突き出しているのにも平気である。
「前世で会った人たちと、また生まれ変わって出会うなんてさ。そりゃもちろんロマンチックだけど……自分でもしんじらんない」
「それが
左大臣が鞄からぴょこんと顔を出して口を挟んだ。
「姫様と四神は深い縁でつながっていらっしゃるのです。人と人との縁は永久に途絶えるものではありませぬ。人が何度死に、生まれ、世界が何度滅び、また再生して、どれだけ長い歳月が経とうとも、縁は途絶えぬのでございます」
「わー、左大臣、めずらしくポエミーなこというね!」
「ぽ、ぽえみー?ぽえみーとはなんでございますか……」
「しっかし、そうかー。あたしたちの前世の世界で、一回漆に滅ぼされてるから、相当前のことなんだよねー。つまりさ、歴史の教科書で習うやつより前ってことでしょ。だから、つまり……」
奈々がポエミーの語義についてろくすっぽ説明もしないで自分の世界に浸っている間、縁というその言葉を舞は胸の中でつぶやいてみる。京姫と四神たちは縁でつながっている。だから、きっと、白虎にもまた会えるだろう。それに、朱雀にも。
司は?突然尋ねだす自分に、舞は
「あっ、じゃあ、あたし、ここで!」
十字路に差し掛かって奈々が言う。奈々は保育園に向かうため、これからこの十字路を南の方に行かなくてはならない。奈々がもう傘をするりと抜け出ているのを見て、舞は慌てる。
「奈々さん、傘……!」
「へーき、へーき。雨にあたるの気持ちいいもん!シャワー代わりになったりして」
「え……えぇっ?!」
「冗談だよ。もう、舞ちゃんかわいいなー」
と、奈々は舞の頭をがしがしと豪快に撫でる。撫でるというより髪をぐしゃぐしゃにされて、舞はまたふるふると首を振って髪をなおした。
「でも、悠太君お迎えにいくんでしょう?濡れちゃいますよ」
「あっ、そっか。でも、舞ちゃんだって傘なかったら濡れちゃうよ」
「私は大丈夫です!もうそんなに距離もないですし。走ったら、ほんとすぐですから!」
「そう?でもやっぱ悪いよ。あたし、やっぱりどこかで傘買って……」
「ほんと、私は大丈夫ですから!はいっ!じゃあ、奈々さんまた明日!」
無理やり奈々に傘を押し付けて、舞は颯爽と身を翻し、丁度青に変わった信号を走って渡っていく。その勢いたるや、いつもの舞からは想像もできないほどだ。奈々は押し付けられた傘にぽかんとした後、「あっ、ちょっと!」と舞を止めかけたが、舞はすでに横断歩道を渡りきって、こっちに笑顔で手を振っていた。奈々は仕方ないと肩をすくめ、そこからにっこりと笑って手を振り返した。
「ありがとー!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます