10-7 「ついていきます、姫様」

 治癒を終えた玄武が振り向くと、桜色と紅蓮の色との応戦が交わされていた。京姫は舞うように優雅にしなやかに、けれども燕のように鋭い動きで螺鈿に向けて仗を突き付けている。黒地の着物に蜘蛛の巣模様をぬめぬめと赤く浮かび上がらせて、螺鈿はまるで彼女自身が蜘蛛であるかのように姫と対峙している。玄武は弓を構えてはみたけれど、二人の位置の入れ替わりの早いこと、炎と桜色の光とがぶつかり合い、行き交うさまを見ると、螺鈿に命中する見込みは薄いと思われた。それでも玄武は弓を構えて、時を待つ。


 仗を向けて駆け出した京姫を炎の壁が阻む。足を止めた京姫の目を、炎の壁を通り抜けてきた螺鈿の簪が狙う。京姫は咄嗟に螺鈿の腹を仗の先で突いた。螺鈿の体が炎の中に押し込まれる。


 笑いと共に宙に躍り上がった螺鈿の体には失った打掛のごとく炎が纏わりついていた。螺鈿はその裾をはためかせて、京姫の元へと急降下してくる。京姫は桜人の嵐で敵を寄せ付けなかった。


(そうよ、私が守るのよ……!)


 京姫は駆けだす。


(私がこの世界を守るの。私が螺鈿を倒すの。なんとしても生き延びてやる!だって、私は……)


『桜吹雪!』


(だって、私は、京姫なんだもの……!)


 桜吹雪を交わして、螺鈿が簪を無造作に地面に投げつける。京姫は空中でそれらを弾いたが、そのうちの一つは姫の仗を逃れて地面に落ち、巨大な蜘蛛の姿へと変わった。蜘蛛が糸を吐き出して京姫を捕らえようとするのを、姫は避けようとして車の上に飛び乗ったが、途端にその車が燃え上がった。京姫は慌てて隣の車へと飛び移ったが、その車も炎上しだす。姫が地面に降り立とうとしたところを、蜘蛛の糸が絡めとった。京姫は地面に引き倒された。蜘蛛はそのまま糸を手繰り始めたが、京姫はその頭を小突き、それから蜘蛛が眩暈を起こしている隙を狙って桜吹雪を食らわせた。蜘蛛の姿は掻き消える。と、京姫は螺鈿の姿の見当たらぬことに気がつく。先ほどは後ろから来た――京姫は咄嗟に後ろを向いたが、螺鈿の気配はない。その刹那、京姫の周囲が燃え上がる。


「しまった……!」

「とうとう捕まえたよ、姫さん」


 螺鈿が燃え残った桜の木の枝に腰を下ろして、身をじらせて顔だけを京姫の方に寄越しながら言う。


「もう、さっきみたいに逃がれることはできまいねェ……今度こそ、あちきの勝ちだ」


 螺鈿が目を細めた途端に、京姫の姿を炎の柱が覆い隠した。勝った、と螺鈿は口の中でつぶやく。炎の中から悲鳴も聞こえない。声をあげる暇もなかったと見える。炎は一瞬で、京姫の喉をも焼き尽くしたのだ。


(これで面倒ごとが一つ片付いた……)


 螺鈿はほくそ笑む。替えの煙管を懐中より取り出して、火を灯すと、唇にはさむ。


(鈴を一つなくしたのは惜しいが、仕方あるめぇ。四神というからには、あともう三つ鈴を持っている奴らがいるはずなんだ。そいつらのを分捕って、このつまらねぇ世の中を燃やしつくしてやらなきゃあ気が済まねぇ。漆と芙蓉へのお礼参りも残ってる。そうして……)


 螺鈿は再びこめかみの痛み始めたのに、手を遣った。柄にもなく煙に噎せこみはじめる己に気付くと、痛みはますます強くなる。柄にもなく?本当に?


(そうして、あたしは……どうしようと……)


 煙管がその手から零れ落ちる。煙管の地面に叩き付けられた音が高く響いたとき、螺鈿の胸を一本の矢が刺し貫いた。矢は螺鈿の心臓から桜の幹までを射抜き、均衡を失って枝から滑り落ちかけた螺鈿は桜の木に打ち付けられていた。汚れた素足が宙に揺れる。


「なっ……!」


 唇から伝う血が口紅を赤黒く染める。螺鈿がカッと見開いた目で見据えた先に弓を構えた姿勢のままの玄武の姿があった。


「おの……れ……っ!」


 と、螺鈿の目の前でもう一つ意外なことが起こった。京姫の体を焼き尽くし、尚も燃え盛っていると思われていた火柱が途絶えて、京姫が中から姿を現したのである。彼女の周りには絡んだ蔦の燃えた跡が散らばっていった。京姫は不思議そうにきょろきょろと周囲を見渡して、命を救ってくれた植物の燃えた残骸を拾い上げる。


「私、一体……?」

「姫!今だ!今のうちに……!」


 京姫が玄武の示す方を見たとき、螺鈿は桜の木を燃やし尽くすことでどうにか打ち付けられた体を解放しようと試みているところであった。やるしかあるまい……!


 駆け出した京姫は地面を蹴り、続いて宙を蹴って、月夜に高く舞い上がると、仗の先で螺鈿の胸を突いた。仗は螺鈿の胸に深く沈み込み、京姫と螺鈿の顔が間近に迫る。螺鈿が吐きかけた血が姫の衣装を赤く汚す。血走った目で螺鈿は能う限りの憎しみを込めて姫を睨みつける。だが、おののかずに京姫は叫んだ。


『……桜花爛漫おうからんまん!!』


 水晶玉から放たれた光が螺鈿を包む。螺鈿の衣装、髪飾り、化粧、そして肉体――それらは花弁となってはらはらと崩れ始めた。花魁の華やかな衣装が古いくすんだ色の着物へ、美しいその手足が傷だらけの痩せこけた手足へ、豊かな髪が抜け落ちて艶のない汚れた髪へと変わり、間近に見つめていた白粉おしろいと紅とを厚く塗りこめた花魁の顔が剥がれ落ちて、花魁井戸の中で認めた焼けただれた女の顔が現れる。京姫は、驚きはしたが、喉元でぐっと声を抑えた。女は不思議そうに舞の顔を見上げていたが、やがてぐいと自分の顔を京姫の方へと近づけた。その汚れた手で、京姫の頬を包んで。


 その時、京姫にはすべてが分かった。流れ込んでくる。この救われる魂がどのような地獄を見て、どのような最期を遂げたのか。そして、花魁井戸で彼女の顔を見た際に悲鳴をあげたことを激しく後悔した。そうだ、このひとはやっぱり螺鈿ではなかった。この女はただ……


「大丈夫よ……」


 京姫は女の体を抱きしめた。痩せさらばえて骨が痛々しく腕に突き刺さったが、それでもかまわなかった。京姫は黴臭かびくさい女の着物に唇を押し寄せるようにして言う。


「大丈夫、あなたは綺麗なままだから……」

「綺麗じゃなかったよ」


 女は愚直なまでの無知をうかがわせる声でそう言った。しかし、女の声には螺鈿の声音には見られなかったある種の清らかな印象があった。


「あんたの瞳は綺麗だから、よくあたしの顔が映ったよ。でも今となってはどうでもいい……」


 と、女はもつれた髪に挿していた赤い櫛を外して、京姫の手に押し付けた。


「これで小させぇ墓作ってさ、あたしのこと弔ってくれよ。あたしはおえいっていうんだ」

「約束する……」


 京姫が強く頷くと、女は不器用ながらに懸命に微笑んだ。二人の周囲で夥しい桜の花が舞っている。その花の一つが、女の髪に引っかかると、女は嬉しそうに、見えもしないのに見上げてみようとする。


「ありがとよ……」


 女の姿は桜の花となって散った。その花たちを見送って、京姫はすっと目を瞑る。仗もまた桜の花弁と化して消えていく。薄れゆく意識のなかで、京姫は司の声を聞いた気がした。


「舞……よくやったな」


 京姫は微笑む。唇に触れた温かな感触――彼からの褒美。最初にして、そして最後の。京姫の頬を涙が伝う。支えを失った姫の体は地面に落下していった。


「京姫!」


 慌てて走る玄武だが、京姫の着地まで到底間に合いそうにない。その時、玄武の首に巻かれていた領巾ひれがひとりでにほどけて小さな白い蛇となり、やがて風を切るうちに大蛇となって京姫の体を、とぐろを巻いたその上に受け止めた。後からやってきた玄武は、蛇が思慮深げな黒い目を京姫に向けている光景に一瞬度胆を抜かれたが、ひとまず姫の元に跪いてその様子を窺ってみる。静かに胸が動いているところをみると、単に気を失っただけであるらしい。それでも外傷が目立つので、玄武はその傷痕をあめねく治癒した。それからほっと一息を吐いた玄武に、白い蛇がほめてほしいとでもいいたげに頭を突き出した。玄武が手の甲でその美しい頭を撫でてやると、蛇は嬉しそうに頬ずりまでしてみせる。


「よしよし、よくやった、と」


 それから、玄武は夜空を見上げる。京姫が気を失い、螺鈿が消え果ても尚、花弁は降り積もっている。炎はもう跡形もない。桜の花弁はしんしんと降り続け、炎が残した著しい傷痕を覆っていく。ふと、玄武は桜の花弁が降り積もったところから、目の前の桜の木が蘇っていくのを目撃して目を擦った。はっと立ち上がって見渡してみると、焼け落ちた木々や物、家々が再生していくのがわかる。その焦げ跡さえも残さずに。玄武は呆気にとられた。これが京姫の力だというのだろうか――だとすれば、京姫はなんと偉大な巫女であろう。しかし、目の前で眠る少女のなんとあどけなく、可憐なことか。玄武は驚き呆れていた口元を緩める。


「ついていきます、姫様。あなたがいる限り、きっとこの世界は守られる……」


 呟いた傍から、声が聞こえてくる。左大臣が、翼を背負った兄を連れてこちらへやってくるところであった。夜風が心地よい。奈々は笑顔で、大きく手を振った。






 あの夜の出来事は、その後、ちょっとした騒ぎを巻き起こした。町を焼き尽くした火事のことを誰もが覚えていたというのに、その証拠はどこにも残っていないのである。焼けたはずの我が家はすっかり元通りであるし、火柱に燃えつくされたはずの桜花神社は何事もなく由緒正しき姿を守っていた。ただし、京姫の力を以ってしても癒し得なかったものがあって、それが人の命であった。だから、舞たちは悲しい想いもしたけれど、絶望的な悲劇だけはどうにか避けられたのであった。


 舞はあの戦いの夜と次の一昼夜眠りつづけて目が覚めた。ということで、舞は戦いの夜の翌日にあった体育祭に参加できず、後から美佳にこってり絞られたのであった。翼の方はすぐに回復して、きちんと徒競走、選抜リレーにおいて一位をとり、美佳、恭弥、司らと共に赤組を優勝に導いたらしい。舞はクラスの祝杯モードに加われなかったことだけが少し寂しかった。


 赤い櫛をどこに埋めようかと迷った末、舞は結局花魁井戸の跡地に埋めることにした。長い間閉じ込められていたところだから嫌がるものかと思ったが、結局彼女に馴染みのある場所はここしか思い当たらないのであった。それに、多分、ここなら滅多に人に荒らされないだろう。彼女の受けて来たあまりにも酷い仕打ち、きらびやかな世界に憧れ必死で日々を耐え忍んできた彼女の生き様、そんななかに訪れた一夜の思い出、生涯を賭けた恋、強すぎた思い故の犯罪とその罰。それらに思いを馳せながら、舞は左大臣と共に手を合わせた。と、立ち去りかけた舞の革靴の上に、一匹の小さな蜘蛛がぴょこんと飛び乗ってきた。舞は驚いてのけぞりかけたものの、やがて優しく微笑みかけるのであった。蜘蛛ってなんかかわいいかも……大きいのは怖いけど。




「舞!おっはよ!」


 通学路を英語のテキストを広げ、ぶつぶつと呪文のように英単語を呟き歩いていく舞の肩を、翼がぽんと叩く。舞は「うわあっ!」と声をあげて教科書を取り落とした。


「なにしてんの、もう……」

「だって、翼がいきなり声かけるから……!」

「そんなもん読みながら歩いてる方が悪いんでしょ。で、ちゃんと勉強したの?」

「したよ!したけど……」

「聞いてくだされい、翼殿!姫様ときたら、昨日も結局漫画本に読みふけって……」

「ちょっと、左大臣は黙ってて!」

「こら!舞!再テストなんてやってる暇ないって言ったでしょうがー!」

「ほらー、翼が怒ったー!」

「当たり前でしょっ!」

「やあやあ、諸君。おはよう!今日もいい天気だねー」

「ああ!奈々さん!おはようございます!助けて!」

「えっ、なになに?」

「翼が怒るんですよー!怖いんです!」

「舞がちゃんと勉強しないからですっ!」

「えー、勉強なんてあたしもしてないけど……」

「ほ、ほら、ねっ?」

「ねっ、じゃない!奈々さんもちゃんと勉強してください!!」


 五月の終わりの空に少女たちの明るい声が響いている。天変地異が起こったとして、この明るい声ばかりは到底やみそうもない。



【第一章 終了】

To be continued…


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