10-5 「翼ちゃんを助けるッ!!!!」

 隣町に異変の起こっていることは人々が戸外で立ち騒ぐ気配で十分感じられたはずであるけれど、菅野すがの先生は地下の書斎にこもって懸命に書き物をしていたので気がつかなかった。書斎といっても昔子供部屋に使っていた部屋に本棚と机とを導入したという程度のものではあったけれど、本棚には様々な本たちが取りだすのも困難なほどぎゅうぎゅうに詰め込まれている。菅野先生は目を悪くしてから、全体的に明るい部屋よりかは光源を絞った方がいくらか文字が見やすいので、書斎の灯りはともさずに机の上のランプの光で仕事をしていた。妻の廊下を行く音が時折聞こえる他、夫婦二人だけの菅野家には滅多に物音はしない。書斎には万年筆が紙を引っ掻く心地よい音がだけが響いている。菅野先生はぐいと眼鏡を鼻先に押し当てて、大学ノートの上に文字をつづっていく。



・構想

タイトル…未定

人物

・お栄…和泉屋に給仕する飯盛り女。辰之丞がため火を付ける。惨めな境遇のなか自らを花魁・螺鈿にたとえて生きている(やりすぎか?せめて螺鈿への憧れ?)器量自慢。火事で怪我をし、水を汲もうとして火事で顔に怪我を負い、井戸に顔を移すべく井戸を覗きこまんとして辰之丞より預かりし櫛を落とし、転落死→花魁井戸

・市川辰之丞…脱藩の武士(東北か?)。憤激に駆られて義兄を殺し、追われる身。逃げ延びた先の和泉屋でお栄と出会い、母が形見の櫛を預ける。和泉屋で敵に追い詰められるも、お栄が火を放ったことより敵の手を逃れ落ち延びる(悲劇の方がよいか?)→火付けの犯人とみなされ処刑される?




 ここまで描いて、菅野先生はびりびりと大学ノートの頁を破り取り、屑籠くずかごめがけて後ろ向きに放り投げ溜息を吐く。


「駄目ですね、こんな話じゃ……」





「さっ、姫さん、今度こそ何度目の正直かわからねぇが……」


 螺鈿の影が、倒れ伏した舞の体の上を覆う。それでも舞はただ黙って涙を流し続けるだけだ。雨滴は地に落ちたところから音をたてて蒸発していく。舞は唇にかかった涙を乾いた舌で舐めてみたけれど、それでも潤いを得ることはできなかった。その塩辛さだけが舌先を焼き、ささくれた唇の皮が舌を刺す。握りしめようとする指にも力が入らない。もう起き上がれない。ここで死ぬしかないのだ。


「さよなら、だ」


 螺鈿の声が真上から降りかかってきたその時、一陣の風が吹き抜けた。舞はぎゅっと目をつぶる。何か冷たいものが、閉じた瞼にかかって睫毛を凍らせたような気がした。雪……?でもまさか。なにかきっと別なものが触れたに違いない。そう、たとえば誰かの指であるとか。ほら、舞の頬を撫でている……


 舞はゆらめく瞼をゆっくりと開いた。涙でにじんだ視界に、火柱に赤く照らし出されながら舞を見下ろす人の顔が映った。火の色にも染められぬそのアイスグレーの瞳を、どこかで見た覚えがあるような気がする。その人は、舞の脇へと腕を差し入れて抱き起こすと、一度自分の胸に引き寄せてから袴で覆った膝の上で舞の体を仰向けに返した。その人の金色の髪が不思議な風にそよいで、舞の頬をくすぐる。


「姫様……」


 耳にやわらかく溶け込む声。無意識のうちに、まるで赤子のようにその人の頬に宛がおうとした手を、その人はぎゅっと握りしめた。


「あなたは……?」

「姫、鈴を」


 掌にぎゅっと押し当てられた小さな丸いもの。舞がそれを握り締めたのを確かめると、その人は捉えた舞の手の甲に忠誠のキスを落とした。


 突如炎が襲い掛かったのを、風が薙いだ。その人は舞をマントで覆って庇い、炎がおさまるなり丁寧に、それでも素早く舞を地面におろして、螺鈿へと白銀しろがねにきらめくサーベルを向けた。舞は鈴を抱きしめて起き上がり、美しい白き騎士の肩越しに、螺鈿の右腕の袖が断ち切られているのを見た。螺鈿は忌々しそうに顔を歪めている――もう笑ってはいなかった。


「びゃっ……こ……?」


 なびく金色の長い髪、はためく白いマントの背中。すらりと背の高い人だった。孤高のたたずまいを誇っていた。でも、どこかその横顔はいつも寂しげで。柳眉には、学問のもたらす知性とそれを極める人ならではの峻厳さとが重たく圧し掛かり、一方でその目は報われぬ愛を、心の枯渇を訴えていた。つい懐かしさが込み上げてくる。その名を呼んだ瞬間、舞の胸ははからずもときめいた。


白虎びゃっこ!……白虎なのね?!」

「姫様、変身なさるのです!」


 舞の問いかけには応じぬまま、かの人は叫ぶ。


「さあ、姫様!」


 鈴がりん、と鳴る。




「翼ちゃん!」


 炎の壁に触れかけた奈々を、兄が慌てて引き留める。翼は痛みと己の無力さとに打たれながら、それでも鈴の方に手を伸ばすのをやめない。ほんのわずか身をずらすことさえ今の翼には苦痛を伴うことのようである。噛みしめた歯の間から喉で押しつぶそうとしてかなわなかった嗚咽が零れ出て、それは聞く人までも苦悶にすくませるような。奈々は兄に制止されながらも、炎を突き抜けん勢いであった。


「翼ちゃん!やめて!もう、もういいから……っ!だって、どうして……!」


「よくはありませんぞ、奈々殿」


 老人のしわがれた声が、奈々を諌める。と、どこからともなくぴょんと飛び出してきた小さなものがあって、それがとたとたと翼の方に駆け寄っていくのが見える。テディベア姿の左大臣が、その体でようやくここまでたどり着けたと見えて、息を切らしながらも、倒れる翼を介抱する。


「翼殿!しっかりなされ!」

「左大臣……!」

「この翁が参りましたからにはもう心配には及びませぬ。ああ、ひどいお怪我を……!しかし、ご心配されますな。玄武の癒しの力が、必ずや全て治癒してくれましょう」


 と言って、左大臣はその体に頬を寄せて涙を拭う翼の頭に手を置きながら、奈々を振り返った。奈々に突き出したその手に黒い鈴が握られている。


「奈々殿、もういいなどと言わせませぬぞ。翼殿がここまでされたのです。貴殿には戦う義務がありましょう」

「左大臣、あたしは……!」

「それとも全て押し付けるというのですか?全ての責務を、痛みを、苦しみを、姫様と翼殿に?貴殿にはそれを和らげる力があるというのに、お二人がのたうち回るのを見て見ぬふりをなされますか?翼殿の悪しき炎の傷を治せるのは玄武の力を持つ奈々殿お一人であります。さあ、覚悟を決めなされ!この鈴を受け取るか!ここで焼け死ぬか!戦わぬとおっしゃるのでしたら、この老いぼれめは奈々殿を助けませぬ!!」


 左大臣の決死の言葉の後で、一瞬の沈黙が生まれた。握りしめた奈々の拳が震えるのを、その兄は見た。兄はそれを恐怖の印と見た。だから、奈々の肩に手をあてようとしたけれども、奈々はそんな兄の動作を見透かしてそれを拒むかのように、大きく腕を後方に振った。


「翼ちゃんを助けるッ!!!!」


 奈々は怒鳴る。左大臣に負けじと声を張って。


「鈴を!!…………さあ!!」


 左大臣の投げた鈴は炎の上を通り越して奈々の掌におさまった。それをしばらく見下ろして眺めやってのち、奈々は兄の方を振り返って言った。諦めと、そして覚悟と、相反する二つの感情を、微笑みと強い眼差しのうちに宿しながら。このひと時ばかり、奈々の声は子供のように高くて鼻を抜けていく。


「お兄ちゃん……あたしのこと、見守っててくれる?」

「奈々、一体なにを……」


 兄が言葉を言い終えるより先に、奈々は鈴を夜空に向かって掲げた。まだほっそりとした金色の月の光がわずかながらに鈴に差し入ると、奈々の足元の地面が鈴を透かした月光に明るく照らし出され、地面よりするりと伸びてたちまちのうちに花を咲かせる二輪の花の影が、その光の内に浮かび上がる。その影が奈々の脚を伝って伸び、蔦のように絡まって奈々の全身を包んでいく。


 影は白い花となって咲き誇ったところから零れ落ちて奈々の肩を露わにする。肘の上から手の甲にかけて残った蔦の影は黒いヴェールの生地となり、奈々の腕を包む。続いて、胸と背とを包む影は黒い背子はいしとなり、腰元から膝までは薄紫の小さな花が夥しく咲き連なったかと思うと、それがひだのあるへと姿を変えた。足を包む影は色をそのままに奈々の脚を覆うストッキングとなり、奈々の爪先から咲く花はパンプスへと姿を変えた。白い蛇が一匹、奈々の首に巻きつくと、奈々は手でその頭をそっと撫でてやる。蛇は目を瞑って頭を奈々の手に擦り付けた後で、紫色の領巾ひれへと変わり、スカーフのようにひらひらとなびいてみせた。奈々はそこで目を開けた。


 月の形をそのままに、天より落ちてきたものがあって、奈々はそれを手で受け取った。美しい金の弓である。それから奈々は肩の後ろに矢筒が吊り下げられていて、きらめく矢がそこに収められていることを認めた。奈々は玄武へと変身した。


「げん……ぶ……?」


 玄武の名を呟き、起き上がろうとする翼を、左大臣が抱き起こす。玄武が弓の本弭もとはずで地面を打つと、兄妹を囲って燃え盛る炎の壁を生い茂る蔦が這い上がって多い隠し、その青々とした体が黒く燃え尽きるとともに炎をも消滅させた。炎が消えるなり、玄武は左大臣に肩を抱かれている翼の方へと駆け寄った。翼は苦しげに息を吐きながらも、翼の傷ついた姿に瞳を揺らす玄武の顔を見上げると微笑んだ。


「翼ちゃん……!ごめんねっ……!」


 玄武の涙を拭うべく伸ばされた翼の手をとって、玄武は頬ずりする。


「よかった……奈々さん、一緒に戦ってくれて……」

「戦うよ!当たり前じゃないの。一緒に戦うから……だから、もう、休んでて……!」


 玄武は翼の手を両手に包みこみ、自らの額にあてる。玄武の涙が、翼の腕を伝って袖の内側にじわりと沁み込むのを感じてか、翼は心地よさそうに目を閉ざした。玄武が翼の傷痕の上に手をかざし、胸元から腰元にかけてゆっくりと動かしていくと、その手から霧のような光が降り注いで翼の傷を塞ぎ、元の滑らかな皮膚がその上に展ばされていく。最後に玄武は翼の額に手を当てた。翼の表情がふっと和らぎ、呼吸がなだらかになる。翼は夢のない眠りの中に引き込まれていったようである。左大臣と玄武とは顔を見合わせた。翁の姿を取り戻していた左大臣は、奈々に向かって頭を下げた。


「玄武殿、感謝いたしますぞ。いや、傷を癒してくださったことばかりではありますまい。しかし、今はあまり時間がありませぬ。わたくしがこの姿に戻れたところをみると、姫様も鈴を取り戻されたようです。姫様の助太刀をお願い申し上げますぞ」

「わかってる……左大臣、翼ちゃんをお願い。それから、お兄ちゃんのことも」

「お任せくだされい」


 駆け出す玄武を、兄が呼び止めようとする。玄武はただ、にこりと笑って手を振っただけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る