10-4 「奈々さん、覚悟を決めてください」

「おい、一体何を……」


 螺鈿の後頭部になにかが投げつけられたのはまさに螺鈿が舞の隠していたものを覗きこまんとする時であった。気を逸らされた螺鈿が振り返った隙に、舞は声をあげて螺鈿に躍りかかった。その手に、朽ちかけた柄杓を掲げて。


 舞の足が螺鈿の打掛の裾を踏んだ。不意を突かれた螺鈿は、手を柄杓で手を叩かれて鈴の一つを取り落としたが、それを拾い上げる間は与えられず、ひとまず舞の続く攻撃から逃れるべく、打掛をするりと脱いで逃げ去った。


 後ずさる螺鈿に迫っていく舞は、炎の向こうからひたと眼差しを投げかけてくる翼と目を合わせた。二人が交わし合えたのは視線ばかりであったが、それでも互いの真意は十分に伝わった。


 舞と螺鈿の姿が遠のいたところで、翼は先ほど螺鈿の手から零れ落ちた鈴を睨みつけた。その傍に転がっているのは、地面の熱ですでにフレームが歪み始めている奈々の眼鏡である。翼は地面に転がっていたそれを無断で拝借して用いたのだった。あとで弁償はさせてもらおう。それよりも、今はあの鈴をどうやって手に入れるか――もう一度螺鈿に奪われる前に。


 奈々が小さく声をあげたのが聞こえた。翼は振り返り、兄の腕の中で微かに目を開けた奈々を見下ろすと、今度は遠くに蜘蛛の狼藉の跡が残る無残な消防車の姿を見遣った。車からはもうもうと黒い煙が上がり、ゴムやら金属やらの焼ける臭気が一面に広がっている。中の人々はどうなったのだろう。善良な消防隊員たちはきっと……


「奈々!」

「お兄ちゃん……?」

「しっかりしろ、奈々!」


 なんて無力なのだろう――兄妹の遣り取りを背中に聞きながら、翼は絶望感に打ちひしがれる。鈴なしではなんと無力なあたしたち……あんな小さなものの力にあたしたちは支えられていた。世界を守るだとか豪語したって、結局あの鈴がなければなにもすることができない。敵に頬を打たれたところで、屈辱に身を任せるしかないのだ。なにも出来ない。なにも。せいぜい、他人の眼鏡を投げつけるようなことばかり。舞にしたって同じである。彼女の武器は朽ちかけた柄杓だけ。炎を操る螺鈿にそれがどれほどの威力を発するというのだろう。


 炎に閉じ込められ、鈴を奪われ、もうこの体にはなにも持つものがなくなった。あるのはただ、この町を守りたいという悲痛なまでの想いだけ。それが少女たちを駆り立たせ、突き動かし、無謀ともいえる戦いに赴かせるのである。この絶望的な状況に陥っても、尚もこの想いが消えないというのなら……ここで朽ち果てるのだけは嫌だというのなら……


 やるしかないのだ。翼は唇の割れ目に滲んでいる血を舐めて、おののく体を叱り飛ばした。なにを恐れているのだ。こんなもの、炎なんて、恐れていられるか。あたしは、水を操る青龍なんだもの。


「翼ちゃん……?」


 奈々の声に、翼は振り向かぬ。翼はただ炎に向かって言うだけだ。


「奈々さん、覚悟を決めてください」

「……えっ?」


 聞き取れなかったのか、意味がとれなかったのか、奈々の聞き返す声は弱々しい。それでも翼は言葉を続けた。


「あたしも、覚悟を決めますから」


 翼は言い終わると同時に軽く身を引くだけの助走をつけ、炎の壁に向かって駆け出した。否、炎の壁ではない。翼の瞳が見据えているのは、緋色のヴェールを透かして輝くもの。炎の壁の外、希望のように光を発しているもの。眼鏡の傍らに転がっている小さな黒い鈴。


「……!翼ちゃん!!!!」




 舞と螺鈿とは攻防を繰り返すうちに火柱の周囲を巡っていた。最初は不意を突かれたものの、螺鈿は次第に舞の攻撃を交わせるようになったと見えて、時折遊び半分に煙管で柄杓を弾きながら、体を軽やかに翻す。打掛を脱いで身軽になった螺鈿の体が踊るたび、黒字に金の刺繍で描かれた蜘蛛の巣の文様が炎に照らされてめらめらと妖しく光った。螺鈿の顔に戻りつつあった嘲笑が、ついに音のある哄笑へと変わった。


「大したもんじゃアねぇか。褒めてやろう。だが、ちと悪戯いたずらが過ぎたようだねェ」


 舞が螺鈿に飛びかかろうとした拍子に、炎が舞の靴の裏を焼く。飛びのいた勢いでよろけた舞の手を、螺鈿が煙管で叩く。舞の手はなおも柄杓を離さなかったけれども、一瞬、柄杓に目を遣った隙にぐいと襟を引き寄せられ、螺鈿の上に屈みかかったその腹に膝蹴りを食らわされた。煙管が舞の右頬を打って、舞は車の前輪にもたれかかり、頭をボンネットに打ち付ける。と、車が突如燃え広がり、舞は前方に倒れこむようにして炎を避けた。背中の方で髪が焼ける嫌なにおいがする。


 舞はふらふらと立ち上がり、ふわりと浮遊して舞を見下ろす螺鈿に向かって再び柄杓を掲げた。ふと、舞は背後の方でなにかが蠢く音がしたことに気付いた。炎のたてる轟音ではない、何か別の音が……と、舞の体は蜘蛛の前脚に蹴り飛ばされ、フロントグラスを突き破って放置された車の一つの運転席に突っ込んでいく。硝子の破片がおびただしく周囲に散らばるのを浴びて、舞は低く声をあげた。そっと目を開けると、蜘蛛たちが車にめがけて迫ってきている影が見える。慌てて扉から脱出をはかるけれども、運転席の扉に手をかけたとき、別の蜘蛛の目がぬっと姿を現した。舞が声をあげてぱっと身を引くと、今度は助手席側の窓からも車を小突くものがいる。ひとまず後部座席に逃げようとして、舞は硝子片で腕や腿や頬を傷つけた。さらに悪いことに、いざ後部座席におさまってみても、一向に逃げ場所は見当たらぬことがわかった。どうせ両方の扉は塞がれているのだ。慌てふためく舞に、チャイルドシートに置き去られたアニメキャラクターの笑顔が笑いかける。それは紛れもなくピエロの冷笑であった。


「舞、こっちだ……!」


 舞を突き飛ばした蜘蛛は、せっかく愚かな兄弟たちが無理に扉をこじあけようと必死になっているので、今まさに獲物を独り占めできんと期待に胸を躍らせて、割れたフロントグラスから車内へと顔を突っ込んだ。まさにその時、車が燃え上がったので、蜘蛛は抗議の声を主人に向かってあげた。鋏をやかましくたてる蜘蛛に、螺鈿は諌めるように微笑みかける。相手が車内に閉じ込められている以上、これが一番手っ取り早い。もうあまり時間は無駄にしていられない。螺鈿は空を見上げる。黒雲がいつの間にか消え去り、爪のような黄色い月がやつれた病人のようよう起き上がったという風情で、顔を見せている。畜生のなす業だとバカにしてはいたけど、あいつの雷もなかなか役に立ったじゃないか。螺鈿は胸中呟く。さて、取り落としたもう一つの鈴も連中の手に渡る前に取りに戻らねばならない。無論、連中は炎に閉じ込められているから、どうすることもできないのだけれど。


 元の場所へ赴こうとして、螺鈿は誰かが着物の裾を捉えているのに気がついた。顏だけで見返した螺鈿の眉は不機嫌そうにぴくりと吊り上げられ、白粉で塗り込めた蒼白な頬に稲妻のように痙攣が走った。まさか、この炎の中で生きていられるはずはない。それでも見下ろした先には、うつ伏せに倒れて懸命に片腕で身を起こし、もう片方の腕で螺鈿の裾を震えながら摘んでいる舞の小さな頭が見えた。螺鈿は肩をすくめてみせる。


「まったく、姫さん上出来だよ。よくもそんなみっともない姿を晒してまで、生き延びようと思えるねぇ……あちきもそろそろ笑えなくなってきたよ」

「こ、こっちだって……笑わせてるつもりは、ないんだから……!」


 すすだらけの顔を上げた舞の腕を、螺鈿は蹴りはらう。ふと、螺鈿は、身を起こそうとしている方の指先を舞が尚も柄杓のにからめているのを見た。螺鈿は舞の頭を踏んで地面に押し付けて舞の手から柄杓を奪い取った。舞がはっと頭をもたげられたのは、その勢いのためだろうか、それとも螺鈿が足を退けて空中へと浮かび上がったせいだろうか。螺鈿は舞の鈴と柄杓とを一つずつ両手に持って、舞に掲げてみせる。


「どっちを返してほしい、姫さん?」

「なにを……っ!」


 舞の声には、恐らく焦燥が滲み出すぎていた。


「この鈴と、このオンボロ柄杓と、どっちを返してほしいんだい?姫さん?」


 螺鈿は半分だけ残った柄杓の底に鈴を置くと、ひょいと勢いをつけて鈴を宙に放り投げ、また柄杓の底で受け止めた。それから再び鈴と柄杓とを別々の手で以って、舞に見せつける。


「どっちが大切だい、姫さん?」

「それは……!」

「そりゃもちろん、当然、鈴に決まってるサ。こんな柄杓、水も掬えやしない。鈴の方がよっぽど役に立つ。そうだろ、姫さん?だったらこうしよう」


 舞は息を呑んだ。大きく見開かれた舞の目に細い月に寄り添われる螺鈿の姿が映り込んでいる。その手の上で燃える小さな炎も、また。その小さな火に舞の瞳の翡翠の色は奪われた。螺鈿の手の上で柄杓は燃え尽き、灰となってその掌を滑り落ちて夜風に攫われていく。皮肉にも、その風は舞の傷ついた頬を優しく撫でていった。


(つか……さ……っ!!!!)


 司の応ずる声はない。


「アレ、どうしたんだい?もしかして柄杓の方が大事だったかねぇ?」


 螺鈿は舞の明らかな動揺に満足そうな表情を見せた。


「しかし、もうやっちまったものはしょうがねェ。サテ、この大事な大事な鈴だがねェ、残念ながらこっちも返してやる訳にはいかねぇのサ。さっ、姫さん、今度こそ何度目の正直かわからねぇが……」


 舞は地面に伏せた。体が傷だらけで痛い。服ももうぼろぼろになってしまった。顏も煤だらけだし……それに、とても暑い。暑くて、喉が渇いて、もう耐えられない。駄目だ、戦えない。鈴も、粗末な武器も、司をも失った。こんな生身の体でどうしろというのだ。京野舞は所詮、京野舞なのだ――京野舞に、なにかを守る力はない。もはや我が身さえ。


 舞は愛おしい人々に想いを馳せる。お母さん、お父さん、お姉ちゃん……美佳、東野君、結城君、クラスのみんな……翼、奈々、左大臣……みんなのところに帰りたい。今までそう思ってきたように、ごく当たり前と思って家に帰りたい。学校に行きたい。そうして、こうして思い出す分には春の海のように平和な、けれどもその中に飛び込むと怒涛と感じられる、そういう普通の日々に浸っていたい。もう戦いの日々には疲れた……



 そのころ、翼もまた地面に倒れ、全身に負った激しい火傷の痛みを、懸命に歯を食いしばって堪えながら、鈴に向かって懸命に手を伸ばしていた。あともう少しなのに。指先だけが鈴の表面につと触れて、鈴が転がっていく。今の翼にはそれを追っていくことはできない。痛みをしのごうとする声は、そのまま嗚咽へと変わった。少女たちの涙が光る。



(ごめんね、みんな……みんなのこと、守れそうもない……)

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