10-3 「つかさ……?」

 京姫が変身を解いたので、青龍はそれを目の当たりにする傍らで驚愕の表情を浮かべた。京姫ならば、否、京野舞ならばそうしかねないと、ちらりと脳裏をかすめないことはなかったが、それでもまさか今この瞬間に一つの命を失わんがために、近い未来に失われるであろう多くの命を犠牲にするとは。彼女の優しさがかくも深く、かくも重いとは。それ故にかくも脆いとは。博愛を内包している彼女の論理は自重で崩れかねない危うさを、常に抱えていたのである。だが、舞は気付いていないというのか。彼女の論理が崩れる時、この世界もまた崩れるのだという、あまりにも明快な公式に。畳みかけるように、舞は青龍をあらゆる感情をも覆いかくしきっている静かな目でじっと見据えながら、落ち着き払った、威厳さえ感じさせる声で命じた。


「青龍、変身を解いて」

「えっ、でも……!」


 舞は青龍の目の前に自らの鈴を掲げることで、青龍の言葉を遮った。


「変身を解いて。鈴を螺鈿に渡すの。さあ、早く」


 青龍は窮す。舞は予断を許さぬという態度である。こうして湧水のようにみなぎる高貴さで以って命じられると、青龍としてはどうしても逆らえないような気がする。京姫は青龍を従える存在であるからだ。けれど、けれど……青龍は食い下がった。今命令しているのは京姫ではない。京野舞だ。それに、その判断が確実に間違っているときに、歯向かってなにが悪いと言うのか。弱い理性を威厳で押し隠し、誤った結論を生まれ持った高貴さで飾りたてて押し付けようとする舞に対し青龍は怒りさえこみあがってくるのを感じる。奈々を助けたい気持ちは、青龍だって決して舞には劣らない。けれども、鈴を渡せば皆が犠牲になる。それなのに、偉そうに。


 なによ、ただの友達のくせして……!


「……っ!舞っ!あんた何言ってるのかわかってるのっ?!」

「翼ちゃん、お願い……」

「お願いじゃなくて!だって、鈴を渡したら……!」

「わかってる……でも、私に賭けをさせて」

「賭け……?」


 螺鈿に聞えぬように小声でそっと言った舞は、翼に向かって目立たぬほどに頷いた。


「信じて、お願い……」


 変身を解いて螺鈿を油断させ、いざ鈴の受け渡しとなったところで螺鈿を急襲する。筋立てははっきりと浮かばなかったけれども、今、舞に考え付くのはこればかりである。あるいは、奇蹟が――銃弾となって、白い薔薇となって……いや、そんなことはあり得ない。舞を救ってくれた銃弾と不思議に結び付けられている美しい金色の髪の人の幻想を掻き消して、舞は無言の内に、青龍にただ己が胸の内を伝えようとした。通じたかどうかはわからなかった。青龍がその顔をうつむけて変身を解いたから。


「ありがとう」


 舞はそっとささやいてから、表情を一辺させて、鋭い目で螺鈿を見上げて叫ぶ。


「螺鈿!鈴は渡す!だから、奈々さんを解放しなさい!」

「フン。どうせそうするなら、さっさと決めりゃアいいものを」


 螺鈿は奈々を兄と同じ炎の円の中に投げ込むと、二人とはまだ慎重に距離を取りながら降下した。奈々は兄の胸に抱きとめられ、ぐったりとその身をもたれかけさせた。その兄は、瞬時に蒼白になると、妹の体を揺すぶった。


「奈々!奈々!!」

「うるさいねェ。気を失ってるだけさ。ちょいときつく締めあげたんでね」


 螺鈿は忌々しそうに吐き棄ててから、素足をまだ地面から浮かせたまま、打掛の褄をつと取ってその裾を翻し、舞と翼の方を向いた。その瞳に興奮と警戒心とがないまぜになって燃えているのが見える。舞は自信がぐらつくのを感じた。油断するものだと思っていたのに、螺鈿がかくも慎重な姿勢を失わないなんて。隙を見て急襲なんて出来るだろうか……?いや、きっと必ず……


「いいかい?ちょっとでも変な素振りを見せたらあの兄妹は生きたまま焼かれることになるから、それを承知しておきな。一人ずつだ。まずは、お前から。そして次は姫さんだ。うっかり変な気でも起こされると困るから、順番待ちの間、姫さんにはこの中でおとなしくしてもらうよ」


 と螺鈿が指さしたところから、舞は螺鈿の炎に囲まれた。舞は唇を噛んだ。これではいよいよ作戦が難しくなってきた。


「さて、じゃあ、お前からまず鈴を渡してもらおうか」


 螺鈿は翼との間に膝元ほどの背丈の炎で境界線をきちんと引いた上で鈴の受け渡しを行った。翼は失望のためか、それとも胸に秘めるなにものかのためか、螺鈿の顔を見上げもせずに、ただ無造作に腕を突き出して、螺鈿の掌の上に二つの鈴を落とした。すなわち、自分のと奈々のと。二つの鈴が音を零しながら螺鈿の掌に転がった時、螺鈿は快楽に唇を歪ませ、翼は螺鈿から顔を逸らしながら、口惜くやしさに小さく歯と歯の間から息を漏らした。それを聞いた螺鈿の笑いがその口の端に切れ込んだ。


「翼っ!」


 螺鈿の煙管が翼の頬を打つ。翼は後ろ向きに倒れ込み、打たれた頬を抑えて起き上がるが、螺鈿は続けざまにその頬を煙管で打つと、気丈にも螺鈿の顔を睨みつけようとするその顎を蹴り上げた。翼の体は大きく跳ねて地面の上に崩れ落ちる。こうして打擲ちょうちゃくを加えられている間、翼は声をあげなかった。ただ、前髪の下に痛みも怒りも押し隠して、歯を食いしばって耐えている様子であった。舞は思わず叫ぶ。


「やめてっ!これ以上やったら鈴は渡さない!」

「人質を二人も三人もとられてるくせに何言ってるんだい」


 螺鈿は喉にひっかかった言葉を唇にのぼせるようにして言うと、翼の襟を後ろから掴んで浮かびあがり、君人と奈々の兄妹がいる炎の中へ、その体を放り込んだ。奈々の兄が介抱しようとするのを、翼は拒んだ。螺鈿は空中でくるりと身を翻して、金の前帯を揺らしながら、今度は舞の元へと向きを変えた。


「さあ、姫さん、あんただよ」


(どうしよう……!)


 舞はぎゅっとフレアスカートの裾を掴む。


(もうこうなったら、やるしかない。私の鈴を渡したら、それこそみんなが……!それに私の鈴だけじゃなくて、翼ちゃんの鈴も、奈々さんの鈴も取り返さなきゃ。隙を狙うの。とにかく隙を……!)


 舞はごくりと唾を呑みこんだ。周囲を囲む炎が空気をゆらめかせている。舞は自分がふらついているのか、それとも単に熱気のせいなのか、次第にわからなくなってきた。どうにかしなければと思うほどに、変身を解いたときの意気は萎んでいって、恐怖が勢いを増していく。それでも舞は覚悟の椅子に必死に縋りつく。


(どうすればいいの……!私に、勝ち目なんてない……!私にみんなを守るなんて、できないの……?!)


「舞……」


 そう聞こえたのは決して幻聴ではなかった――他の誰にも聞えなかったとして、それは舞には確かに真実の音であった。懐かしい声を背後に、間近に、感じて、舞は目を見開く。その人の存在を、今にも舞を焼き尽くそうとする火炎の熱とは確かに異なる優しい温もりを、舞は確かに背中に感じた。まるで誰かに悟られることを恐れるかのように、舞はかすれた声でつぶやく。


「つかさ……?」

「ごめんな、こんなことしかしてやれなくて……」


 後ろから、右手にぎゅっと握らせられるもの。優しい指先が舞の手の甲に触れて、しっとりと、それでも離れていく先から消えていきそうな、淡雪のような感触を残していく。それは降ったそばから消えていく雪のようにみえて。それでもどんな雪も新たな雪の下にしっかりと畳み込まれているように、手の中に握ったものだけは消え失せず。舞は木のささくれが、スカートの裾を引っ掻く微かな音を聞いた。鼓膜に引っかかりそうなその音が、舞の心を軽やかに弾く。肩に触れるのはかの人の額だろうか。声が舞の肩甲骨へと直に響いていく。


「ごめん、舞……守ってあげられなくて」

「違う、司……私、私こそ……っ!」

「いいんだ」


 耳元にささやかれる。そんな優しい微笑みに、どんな顔を返したらよいというのか。司の手が舞の右手を包んで、そっとその背中側へと引き連れた。


「さあ、舞。勇気を出せ。俺も傍にいるから」

「で、でも……!」

「しっかりしろ。お前は、俺を確かに守ってくれたじゃないか」


 私が、司を……?驚き自ら問う舞に答えるように、司は舞の手を包む両手に力を込めた。ちょうどその時だった。舞を囲む炎が弱まり、螺鈿が再び舞の前へと降下してきたのは。


「サア、鈴を渡してもらおうか」


 突き出した左手が震える。吸い込もうとする空気が逃れていく。鈴を他人に手渡すことがこうも辛いものだとは思わなかった。まるで自分の魂を受け渡しているようだ。でも、大丈夫だ。耐えられる。今は司がいるから。司が一緒にいてくれるから……舞は螺鈿の掌の上にそっと鈴を落とした。螺鈿は鈴を受けとめると同時に、舞が右腕を不自然に後ろに押し隠していることに気がついたようだった。螺鈿のまなじりが光る。


「おい、一体何を……」

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