第九話 再会

9-1 「熒惑守心の術でございます」

 白崎しろさきルカは、五月の陽気には暑苦しいばかりの学ランの襟を掻き合わせ、アイスグレーの瞳を素早く邸宅の窓の外に走らせる。芙蓉の式神が灯かりにとりつかれた羽虫のように硝子窓に衝突してはいるけれど、案ずることはない。ルカの風が式神の感覚を惑わせているだけで、この場所にとりたてて何かを見つけ出した訳ではないからだ。この場所はまだ敵に気付かれてはいない。


 ルカがチェロの練習をしている防音室には誰一人入ることはないから、そこを宛がうことは簡単だった。ただ、誰にも気づかれぬよう彼女を運び込まなければならぬのに少し苦労はしたけれど。連日のように通ってくる老医は、白崎家の家庭医でもあり、ルカにとっては伯父であり親友でもあった。ミーチャおじさんは、ルカの母にとっては親代わりに育ててくれた偉大な兄であり、恩人でもあったから、頻繁な訪れを怪しまれないばかりか、却って美味しいお茶とお菓子との接待を受けずには帰宅できぬほどだった。ただし、おじさんはルカが渡そうとする報酬は頑として固辞した。


 防音室のある四階の廊下から花々の咲乱れている庭を慎重に窺って、メイドの足音も聞こえぬことを確かめてから、ルカは扉を押し開けた。ひやりとした冷気がまず帽子の鍔に触れてそれから高く通ったルカの鼻先で別れて頬を包み、豊かなプラチナブロンドの髪に覆われた耳朶を冷やす。白衣のミーチャおじさんはルカが入ってくるのを見てやんわりと微笑んだ。丸い老眼用の眼鏡、理智をひらめかせている水色の瞳、唇の上にたくわえられた綺麗にかりこまれた髭と薄れつつある白い髪、針のような痩身。その妹とはさほど似ていないけれども、姪であるルカとはなんとなく通じ合うところがある。優しさに明け渡すこともできるけれども、普段は冷徹な理性に治めさせている表情や佇まいなどが。


「やあ、ルイ」


 ドミトリー・ドミトリエヴィチ・パブロフ、通称ミーシャおじさんは、椅子から立ち上がってそう挨拶した。ルカをその名前で呼ぶのは、両親とミーシャおじさんぐらいだ。ルカは白い薔薇の花束をちょっと掲げて挨拶をした。


「こんにちは、おじさん」

「ついさっきまで柏木さんが来ていたがね。入れ替わりで帰ったよ。君とは顔を合わせたくないと言ってね」

「それはよかった」


 ルカはほとんど皮肉めいた調子もなくさらりと言い退けると、部屋の中央に置かれた寝台の方へと歩み寄っていく。寝台の上に一人の少女が眠っている。否、彼女は呼吸をしていない。さりとてその体はもう朽ちゆくばかりというのでもない。それでも知らぬ人の目には、やはりいとも清らかな乙女の骸だと見えるであろうから。娘を溺愛するその父親が見れば、ひどく嘆き悲しむことであろうから。ルカは彼女をこの部屋に眠らせている――彼女が再び目覚めるその日まで。


「……玲子れいこ


 囁いて、ルカは少女の額に自らの額をあてる。冷え切った額を温めようとして。その頬に触れる度、ルカの胸に鋭い痛みが走る。心臓が凍りついてしまったかのような……自らの影に隠れてしまった美しい寝顔に、何度も問おうとしては舌が麻痺してしまう――ねぇ、玲子。君は一体何をしたの?どんな奇跡を起こそうとしたの?君が受けているその代償を、私にも分かち合わせてくれないか……


「ルイ、君を疑うわけじゃあないんだが」


 ミーチャおじさんは言いにくそうに咳を一つしてから言った。


「その少女はその……本当に目覚めるのかね。いや、これまでも何度も言ったけれども、医学的には彼女は死んでいるんだよ。心臓も呼吸も止まっている。こんな状態がかれこれ一月以上も続いて、これで蘇生したとしたら、私は論文を一つ書けるんだがね」


 ルカは気分を害した様子もなく、冷たい額から顔を離して、白い薔薇の花束をその鮮血のように流れる髪に添えた。枕元に同じく添えてあった眼鏡を手にとって、ルカは彼女に宛がおうとしてやめる。冷え切った眼鏡のレンズが掌に沁みる。


「それじゃあ、なんだ。私は死体愛好家ネクロフィリアって訳か?」

「ルイ、私は真面目に言ってるんだよ」

「わかってるさ、すまない……ミーチャおじさん、あなたには分からないかもしれないけれど、私は彼女の霊力をわずかに感じるんだ。彼女はただ、『私の体を頼んだわ』と、それだけ言って消えていった。私にもなにがあったかはわからない。ただ、それが常識では考えられないようなことだということは漠然とわかるんだ。だから、信じてほしい。私は彼女を待たなければならないんだ」

「君が言うなら私は信じるしかないよ、ルイ」


 ミーチャおじさんはひとつため息を吐く。


「確かに君の言うとおり、この町では最近おかしなことばかりが起こっている。それがそのうるしとかいう輩のせいだというのならば、やはりそうなのだろう。最近は殊に火事が多い。冬でもないのに……これも君の戦っている敵の仕業なのかい?」

「私はまだ戦ってはいないよ」


 ルカは眼鏡を少女の枕元に返して、自嘲の響きを以って言った。


「私はまだ奴らと戦ってはいない、現世ではね。姫の元に一刻も早く馳せ参じなければならないのは分かっているけど、敵が玲子に気付いてしまっては大変だから……今の玲子は自分の身を守れない。だから玲子を庇っている私の正体にも気付かれる訳にはいかないんだ。そう、火事の件は漆のしもべの仕業だよ。花魁井戸に眠っていた女の怨念が蘇ったんだ」

「花魁井戸……ああ、火事で死んだという遊女の話か。しかし、火事で死んだ女の怨念が、火事を起こすのかね?皮肉なものだ。つい昨日も家が一軒焼けたというし、気を付けねばならんな。さて、私はそろそろお暇しよう。ソーニャに捕まることを見越して帰らないとね」


 ルカは部屋の扉までミーチャおじさんを見送って礼を言うと、重たい扉をそっと閉めて、温かい廊下の空気を締め出した。これで遂に二人きりになってしまった。ルカは息も忘れるほどに深い夢に打ち込んでしまっている少女の傍に再び寄り添うと、伯父が座っていた椅子を引き寄せて腰かけ、少女の顔を間近で見守った。まるで人形のようだ、とルカは思う。世にも美しい精緻な人形。いつまでも抱えていたいような気にすらさせる彼女の寝顔――いや、目覚めてほしい。声を聞きたい。その瞳がある種の疲れを宿して冷然と世の中を見据えるのを、ただある瞬間にだけはその奥で強く燃えるものがあるのを、見つめていたい。抱き寄せることが許されなくてもいい。彼女の傍らに並んで立って、艶やかな紅の髪を見下ろしていたい。両手で挟んで持ち上げた彼女の手は冷たく、固く、重い。その手に唇を落としてから、ルカは少し躊躇ったのち、耐え切れずに少女の唇に自らの唇を重ねた。


(私は卑怯だ……)


 ルカは己を謗る。彼女はまだルカの愛を受け入れてくれた訳ではないのに。


(王子様のキスでは彼女は目覚めないのか……それとも私では王子様にはなれないのか)


「玲子……」


 彼女の唇にその名を注ぐように。ルカはそっと呼びかけた。だが、彼女は答えない。




「翼殿、例のあれ、持ってきていただけましたかな?」

「ああ、あれね!はい」


 体育委員の美佳が、体育祭の準備だとかなんやらでいないので、久しぶりに昼休みに例の屋上に続く階段の踊り場に集まった舞たちは、翼が床にひろげた一枚の紙をのぞき込んだ。それは桜花市の全体を記した地図であり、ところどころ赤い点がマジックで打たれている。左大臣が飛び上がった。


「いやはや!感謝いたしますぞ、翼殿!」

「なんなのこれ?」

「実はですな、翼殿に頼んで、この町の地図上でここ最近螺鈿が現れた場所や火事の起こった場所に印をつけてもらったのです」

「ほら、あたしのお父さん、警察官でしょ?だから火事が起こった場所とか聞いたらすぐわかるの」

「でも、なんのため……」


 左大臣はくるくると地図の周りを飛びまわりながらしばらくなにごとかを吟味していたが、ある瞬間に「おおっ!」と叫んで飛び上がった。不思議そうに見遣る舞と翼に、左大臣は地図を回転させ、西側を真上にして北側が右側にくるようにして、二人に示した。左大臣はひどく興奮しているようだった。

「姫様!翼殿!この形に見覚えはありませんかな?!もしくは、この形に近いものでも!」


 二人は目を細めた。町の北側、つまり地図の右側に大きな点が三つ。それぞれが上から、奈々の家の周囲と、十字路脇にあってつい三日ほど前に全焼してしまった民家、そして水仙女学院を指している。それから町の中央部に移って花魁井戸のと、路上の車が突然発火した地点が一つ、町の南東部、つまり地図の左下には七つの点が散らばり、桜花駅のところにもう一つ。合計十二個の点が見える。不思議なことに、舞の家がある町の南西、地図上でいうと左上にあたるブロックには点がない。確かに何かの形を指しているように見えなくもないが…二人は同時に首を振った。


「よく!よく見てくだされ!ほれ!」

「そんなこと言われたって……」

 困惑する舞に、左大臣は溜息をつく。


「では、こう致しましょう。姫様、翼殿、筆かなにかをお持ちですかな?」

「えっ?ボールペンならあるけど……」


 ボールペンを渡されて、左大臣は全身を使いながら書きにくそうに点と点との間を線で結んでみせた。ただし、なぜか花魁井戸の点だけは他の点と結ばずに。尚も、舞には訳がわからなかったが、翼は「あっ」と言って、なにかを思いついた様子であった。


「もしかして、星座の形じゃない……?わかった!さそり座!蠍座に似てる!」


 「ご名答!」と叫んで、左大臣は舞の手に抱えられていた和綴じ本を受け取ると、慎重に開いて、頁を捲った。舞には、それが江戸時代末期の書物で、舞の読めない字で書いてあることだけはわかったが、内容に関してはまるで理解できず、左大臣がどうしてもと頼むので水仙女学院から借りてきたのだった。しかし、左大臣が示したところに描かれた図はわかる。白い丸がちょうど地図上の点とほとんど似た形で書かれている。その脇に書かれている字を、舞なんとか字の形だけで捉える――熒惑守心の術。


「なんとか、わく……まもるこころのじゅつ?」

熒惑守心けいわくしゅしんの術でございます」


 左大臣がもったいぶって言った。


「なにそれ?」


と舞と翼。


「ここに書かれていることをお読みになればおわかりになりますでしょうに!」

「だって、読めないもん!」


 舞はくずし字を指で突きながら抗議する。左大臣は溜息をついた。


「仕方ありませんな。では、簡単に……『いにしへよりもろこしにては、熒惑星けいわくせい心宿しんしゅくに近づくことを熒惑守心と呼びて、凶事のしるしとしたり。熒惑星これすなはち夏日星なつひぼしなり。史記始皇本紀に曰く……』えー、つまり、古くから唐国では夏日星が心宿に近づくことを熒惑守心と呼んで……」

「ちょっと待って!全然わからない!」

「あっ、そうだ!電子辞書!」


 翼がぱたぱたと教室まで戻って電子辞書を持ってきてくれたので、二人はそれぞれ夏日星と心宿の意味を調べた。結果、夏日星は火星のこと意味する古語で、心宿は蠍座の恒星のひとつである一等星アンタレスを指すのだとわかった。蠍座のちょうど中心部に明るく輝く星である。和名では中子星なかごぼしとも呼ばれるらしい。そして心宿とは、古い中国においては青龍の心臓を指していたらしいこともわかった。ここまで知って、二人は再び左大臣の話を聞く準備が出来た。


「えー、それでですな、つまり火星があんたれすとやらに近づくことを、古い唐の国では熒惑守心と呼んで、不吉と見なしたそうです。実際にこうしたことがあった後でどんな凶事があったかが述べてありますが、そこはともかく……肝心なのはここからでして、ここに描かれたのは、熒惑守心の図でございます。ここにありますのは、心宿を含めて天より星を、四と九をあわせた数字、すなわち十三選び取ったものだそうで、それが現代の蠍座と同じ形をとっているのですな」

「現代の星座なんて、よく左大臣知ってるね」

「私の雑誌読んでるから。占いコーナー好きだし」


 話の腰を折られて、左大臣は咳をして二人の注目を引き戻した。


「よろしいですかな?そして、ここにあります、この赤い丸印、これが心宿に近づく熒惑星でございます。こちらは日本の話ですが、千年ほど前――まあ、この本で千年ほど前ですからそれ以前の話ですが――このような星の並びがあった年、ひどい大火で京が焼き尽くされたとあります。熒惑守心の術とは、この星の並びを悪しき炎によって地上に描き、ひとつの町をまるまる焼き尽くすという恐ろしい術でございます」


「じゃあ、螺鈿は……」


 舞の言葉に、左大臣はこくりと頷いてみせた。


「恐らく、この術を行おうとしているものかと考えられます」


 ようよう真面目になって、舞と翼は顔を見合わせる。地図と、古書とを見比べて、二人は戦慄した。おぞましいほどに酷似した星の並びと、地図上の印。本の中で赤く記された火星は、ちょうど花魁井戸を示す印と同じところにあった。ふと、舞は二つを見比べて気付く。


「待って、左大臣。数があわないよ。地図の印と、この本の星の数。二つ足りない」

「一つはここ」


 と、翼は図の中の心宿を突いた。


「地図だと、ちょうど町の中心だから……桜花神社のところだ。もう一つは……」


 翼の指が、町の南西部のほとんどはずれの方を彷徨う。星の並びを当てるとしたら大体この辺りかというところに翼の指が止まると、舞ははっとした。そうだ。この辺りだ。ちょうど苧環おだまき神社があるところ。舞と司との運命が豹変してしまった場所――


「舞ちゃん、どうしたの?」


 青ざめた舞を見て、翼が尋ねる。翼には既に司とのことを話していたが、今再びその話を取り出す気力はなかった。舞は首を振る。


「ううん、なんでもない」

「螺鈿の奴が狙ってくるのは、次はこの二点のどちらかでしょう。しかし、私が推測しますに、この心宿というのは星の並びにおいても要。最初に持ってこなかったということは最後に持ってくるのではないかと思われます。ですから、恐らく」


 左大臣は苧環神社のある辺りをぬいぐるみの手で叩いた。小さな廃神社の名を地図はさすがに記していない。そこにはただ、等高線によって急斜面のあることばかりが表されている。


「こちらの方ではありますまいか」

「よーし!こうなったら、待ち伏せといこう、舞ちゃん!」


 翼が舞の肩に手を乗せて言った。舞はぼんやりしていることを悟られぬよう、翼を見返す。


「待ち伏せ?」

「今まではあっちが出てきたところに駆けつけるしかなかったけど、今度は待ち伏せして襲い掛かってやるの!もぐら叩きみたいに!あっちだって、まさかあたしたちがこのなんとかって術に気付いてるなんて思わないだろうから。もちろん四六時中張り込んでる訳にはいかないけど、できる限りはさ。きっとうまくいくと思うなっ!」

「名案ですな。では、今日の放課後から早速!」

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