8-6 「姫様!青龍殿!やめなされ!」

「青龍っ!!」


 青龍は学院を囲っている白い壁を飛び越えていく。先ほど校舎の十数階から飛び降りたほどであるから、京姫の方も動じなかった。意地もあった。なにがあっても青龍に追いつくつもりであったから。住宅街を抜け、道路を横切って、青龍はやがて町の外れまで出た。急な斜面になった東雲川の河川敷に立って、初めて青龍は京姫の方を振り返った。二人は息を荒げながら、そうして川原の斜面の上と下から互いを睨み合っていた。


 先に動いたのは青龍だった。青龍は再び凍解を抜いて、斜面を駆けあがってくる。京姫は仗で刀を受け止める。金属と金属の触れ合う音が響いて、お互いの手に持つ武器が細やかに震える。それを掌に感じたとき、二人の目が合った。二人は高らかな金属音に同じ心地よさを見出していることを認めた。


「姫様、青龍殿!なにをしてらっしゃるのですか?!」


 左大臣の言葉にも構わずに、京姫は青龍の刀を弾きかえした。青龍は優雅に後ろに身を引くと、再び京姫に向かってきた。京姫もまた仗を掲げた。刀と仗とが宙で交差し、火花が飛び散る。京姫が刀を押し切って仗で青龍の足元を薙ぎ払おうとすると、青龍はひらりと跳びはねて交わし、屈んだ京姫の肩を蹴って、姫の背後へと回る。京姫が振り返る先に、青龍は刀を突きだしたが、京姫は後方に向かって踵を蹴り出し、その刃を逸らした。左大臣が見かねて二人の間に割り込もうとしたが、途端に左大臣の体はぬいぐるみに戻ってしまう。京姫の変身が解けていないところを見ると、どうやら姫が勝手にそうしたものとみえる。


「姫様!青龍殿!やめなされ!」


 二人は何も聞えぬかのように、草の上を転がった。斜面の中腹で二人は止まり、立ち上がって今度は同じ高さから睨み合う。青龍が先に攻勢に出た。京姫は青龍の刀を交わし、仗で受け止めながら、後ずさっていく。それでも青龍の攻撃は緩むことない。京姫は顔の真横で風を切っていった凍解を避けようとしてわずかによろけた。京姫は仗の先で地面を捉えて身を支えると、仗先をすぐに翻して、がら空きになった姫の脇腹めがけて斬りかかろうとする青龍の手首を打った。刀は青龍の手を離れて川面に落ちた。青龍が一瞬そちらに気を取られた隙に、京姫は水晶で青龍の横面を打った。咄嗟に仗を掴んだ青龍は自分も倒れかけながら、仗をぐいと引っ張って京姫の体を引き寄せ、膝蹴りを食らわせた。二人は共に転倒し、仗は斜面を滑って川面の中に姿を消した。


「あ、ああ……」


 左大臣が慄き見守るなか、二人は互いに口の端に血を滲ませながらよろよろと立ち上がった。二人の目が合ったのと、駆け出したのが同時であった。それぞれの武器を探し求めて、二人は強く地面を蹴り、川の中へと身を投じた。二つの水しぶきが高く上がって、川面は凪いだ。 


 左大臣はぬいぐるみながらに真っ青になりながら、もはや言葉も失ってよろける小さな足で川辺へと近寄っていたが、斜面の途中でひっくり返ってしまうと、立ち上がる気力もなく茫然として、ただただ、楽しげに日の光を躍らせている川を見つめるだけであった。一級河川だけあって、川幅はひろい。川底は深くはないし、水の流れもさほど早くはないけれども、それでも子供などがうっかりしていればさらわれてしまうことは確かである。それにいつまで経っても二人は浮かび上がってこない。まさか、仲間割れでお二人を亡くすだなんて……左大臣が気を失ってついに仰向けに崩れた直後、またもや二つの水柱が上がった。仗と刀とが夥しく舞う水滴の中に二つの光の線となって閃き、交差した。


『桜……っ!』


『青……っ!』


 川面から肩から上を出して、二人は叫びかけて噎せこんだ。それでも二人はそれぞれの鼻先に武器を突き付けあうのをやめなかったが、やがて、髪や額や頬に雫を垂らしている互いの顔に気付くと、咳は鈴の音のような軽やかな少女の笑いへと変化した。二人は重たくなった衣装を引きずりながら河岸へと濡れた身を引き上げて横たわった。薄雲越しの日の光を正面に据えて、川辺の草が濡れた皮膚や服にはりつくのを感じながら、二人はなおも、咳き込み、そして笑い続けていた。


 風が濡れた頬をくすぐっていく感触が心地よい。今日の涙を全て洗い流してくれるみたいで。ようやく笑いも咳もおさまって、京姫は深く息を吸う。ふと、青龍の指が京姫の手に触れた。舞は翼の手をやわらかく握り返す。冷え切った体の中で、合わせている掌だけが温かい。


「……ごめん」


 舞は呟いた。「なにが?」と視線だけで問う翼。


「昼間のこと。私、意気地なしで、無責任で、ごめんね……」

「何言ってるの。意気地なしは、あたしの方でしょ」


 舞は不思議そうに翡翠色の眼をぱちくりさせた。翼は少し気恥ずかしそうに笑って、


「二人で戦っていく勇気がなかったの、あたしには。でも、もうわかったから。たとえ二人でも、きっと戦っていけるって」

「翼ちゃん……」

「もちろん他の四神が一緒に戦ってくれるに越したことはないけどねっ。でも、あたしたち、二人でも漆なんか倒せるでしょ?大丈夫。あたしたちには、それだけの力があるはずだもん」


 二人はどちらから仕掛けるでもなく、腰元でつないでいた手を瞳と瞳の間に持ち上げる。そうだ、翼の言う通りだ。二人で戦えばきっと大丈夫――舞と翼とは今日、確かにこの町の人々を守れたのだもの。翼という仲間を得て、そのことを改めて手の中に確かめて、舞はあることを思い立つ。この秘密を明け渡してしまおう。共に戦う仲間であるのだから――私は決めたんだ。絶対にもう一度、結城司と再会するって。だから、この決意を、翼だけには知ってもらいたい。


「ねぇ、翼ちゃん。私、まだ話してないことがあるの…………」




 台所で人参を切っていた奈々は、なぜだか急にさびしくなって手を止めた。奈々の後ろでは、美々と音々とが悠太の怪獣ごっこに付き合ってやっているのだが、遊んでいるうちに段々と姉たちの方も夢中になってしまっている。楽しげな笑いは、開け放った窓の外にまで響くほど。もうすぐ父親と母親も帰ってくる。関係性としてはちょっと複雑ではあるけれど、どこまでも幸福で明るい家庭であるはずだ。自分を囲んでいるのは。それなのになぜ、さびしくなったりするのだろう。あたしの本当の居場所はここではないとでも……?


 ならばどこだというのだろう?小さく切った野菜類を、火の通らないものから鍋に放り込んで炒めながら、奈々は自問する。分かり切った答えを出すのは辛かった。だって、永遠に戻れっこない。もう失ってしまったんだもの。黒葛原つづらはら一家は、もう二度と戻ってこない。


「お兄ちゃん……」


 奈々は弟、妹たちに聞えぬように小さく兄を呼んだ。なんて我儘な自分。現状は限りなく幸せなはずなのに、ないものねだりばかりしている自分。こういう自分が、奈々は嫌いだ。蹴り飛ばしたくなるほどに。


 野菜と肉とを炒めた鍋の中に水を注ぎ終わるまで、奈々は我慢した。それから、お手洗いにでもちょっと出るというようなふりをして、寝室の扉を閉ざす。妹たちと共用の部屋だから、二段ベッドと奈々のためのシングルベッドとが、入り口からみて左右の壁に沿ってそれぞれ置かれ、勉強机が一つ、奈々のシングルベッドの奥にある。これは完全に奈々専用のものではあるけれど、自宅で勉強ということをほとんどしない奈々にとっては絵を描くためのスペースでしかない。そこには奈々の好きな画家の画集や、今まで描いた絵、雑誌の切り抜きなどがたくさん並べられたり貼りつけられたりしていたが、恰も奈々の心の内部をあらわしたかのようなその机の上にさえも、奈々が最も愛するひとの肖像はない。父に遠慮して、母に気を遣って。奈々は兄の写真を、生徒手帳の中だけに収めている。だが、今はそれを取り出す必要はない。


 奈々はベッドに身を投げ出した。枕元の小さなテーブルの上には水槽が置かれており、その中では一匹の鮮やかな黄緑色の体をしたトカゲが気ままに動き回っている。その円らな目に見つめられて、奈々は微笑んだ。


「ルーシー……あたしって、最悪だよね」


 ルーシーがなんと答えたのかは奈々には分からない。奈々は仰向けになって、頭の後ろで腕を組んだ。鍋が沸騰するまで。それまでは、一人で考えていたい。兄のこと……この世界でたった一人だけ、たった半分だけではあるけれども、血の繋がった兄弟のことを。兄に会いたい。今すぐに声を聞きたい。でも、兄は海を隔てた国にいる。奈々にとっては恐ろしく遠く感じられる、スコットランドに。



「奈々は急にお姉ちゃんになるんだね。頑張って。弟や妹たちのこと、しっかり守ってあげるんだよ。一緒に暮らす家族なんだからね」



 守ってあげる――兄が言っていたのは、きっと姉としての務めのこと。一緒に遊び、悪いことをすれば叱り、休日は一緒に公園に遊びに行き、父と母が仕事をしている間の面倒を見て食事を作ってやり、保育園に迎えにいってやる。きっとこれだけのことだ。まさか、そこに……そこに、おぞましい敵と戦って、守ってやるなどという意味など――


「あたしには、できないよ……っ!」


 不意に、意地悪な自分が頭をもたげる。もし、兄のためならば戦える?兄を守るためなら、戦えるかと、彼女は尋ねる。血の繋がっていない弟や妹のためには戦えないけれども……奈々はがばっと身を起こす。その答えは聞きたくなかった。姉として。兄にあんな風に誓ってしまった身として。



「うん、頑張る!なにがあっても、あたしが絶対に守ってあげる!」



「奈々姉ちゃん、お鍋ぐつぐつしてるよー!」


 扉の向こうから叫ぶ悠太の声に生返事をして、奈々は床に足を着ける。それでも居間の方に向かう気になれない。あたしは、最悪の姉だ……


 どこにいればいいの?どこに向かえばいいの?あたしの居場所はどこ――迷える奈々の前にいまだ答えはない。

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