8-5 水仙女学院桜花キャンパスにて

 本当は日差しの下のスペースに座りたかったのだけれど、左大臣が本を読んでいる光景を見られる訳にはならないので、舞は書架の方のスペースの壁際に空いている席を見つけて、そこを陣取った。積み上げた本の影で左大臣が古そうな書物に読みふけっている間、舞は本に集中しようと試みながらも、つい想いは白い薔薇の花弁の上へ、それから美しかったあの人へと移っていく。キスなんて初めてされた。司とさえまだなのに――そこまで思って、舞は恥ずかしさのあまり机の上に突っ伏してしまう。勢いが過ぎて鼻をぶつける。両手で鼻を押さえて悶絶しながらも、舞は再びあの人の唇の感触を思い出す。もしかしたら、最初から舞をからかっていたのかもしれない。でも、あの人、本当にとってもきれいだったんだもの。


(司がいるじゃない……)


 舞は必死になって自分に言い聞かせる。


(私は、司にずっと好きでいるんじゃなかったの?どうして、ちょっとぶつかっただけの人になんか……!でも、私、さっきのこと思い出して、すっごくどきどきしてる。バカみたい、バカみたい。本当にバカみたいにどきどきしてるんだもの。もう一度会いたいなんて、何考えてるの、私……大体、もう一度会えたところで……)


「姫様、少しいいですかな?」


 積み上げた本の影から、左大臣が声をひそめて言った。舞は耳を寄せる。


「姫様、この本のこの部分なのですが……」


 左大臣が言いかけた時、鈴の音がして、舞は瞬時に立ち上がる。聞き間違いではないかとそのまま待ってみると、やはりもう一度音が鳴った。舞は読みかけの本もそのままに、左大臣を引っ掴むと、すさまじい勢いで図書室を飛び出ていった。受付の女性がなにごとかと目を瞬かせるほどの動きで。 エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け下りている間、舞は左大臣とようやく会話することができた。


「姫様、どちらです?!」

「わからない……!とりあえず降りたら確かめてみるけど……!」

「鈴の音はかなり大きかったようですぞ、この近くでは?!」

「そうかも……!」


 舞は突然足を止めて、降りかけていた階段を再びのぼり出した。左大臣がなにごとかと尋ねたが、舞は答えない。舞は踊場の窓を開けて身を乗り出すと息を呑んだ。甲高い悲鳴が響き渡るなか、中庭の中央に火柱が立ち、そこから螺鈿の僕しもべである巨大な蜘蛛たちがぞくぞくと群がり出ているではないか。学生たちは驚き、逃げ惑い、蜘蛛たちがその後を追っている。


「いやはや……!」


 左大臣が絶句するのを胸に抱いて、舞は見た。一匹の蜘蛛がその糸で女子大生の糸をとらえて、その上に覆いかぶさろうとする光景を。舞は再び階段を降りかけたが、どうせこのままでは間に合わないことに気がついて、くるりと再び踵を返す。それは舞の賭けであった。


「左大臣、行くよ!」

「ひ、姫様、まさか……っ?!」


 おやめなされ、おやめなされ、と左大臣が連呼している。しかし、舞は構わず窓枠に足をかけた。一体何十メートルあるのだろう。舞には高さがよくわからない。頭がくらくらする。でも、やるしかないのである。ここで舞が死ぬも、今あの襲われている女子大生が死ぬも、舞にとっては同じことなのだから。左大臣が必死になって止めるなか、舞は深く息を吸って声をあげ、窓枠を蹴った。


 景色が大きく歪んだ。鈴から放たれた光が舞を包む。桜の花弁が舞の体を纏い包んで、袖となり、背子となり、スカートとなり、靴となる。耳を切る風の音はすさまじく、長く波打つ髪が靡いている。伸ばした手にロッドを授けられて、その仗の先で地面を捉えると、京姫は柔らかな芝生の上に静かに膝をついた。すかさず京姫は立ち上がって駆け出すと、獲物を糸で巻くことに余念のない蜘蛛に鋭い一撃を食らわせる。怯んだ蜘蛛を、左大臣の太刀が切り裂いた。


 一匹の蜘蛛の糸が京姫の足に絡みついたが、京姫は仗先でそれを断ちきると、桜色の光で以って敵の目を潰した。左大臣がその蜘蛛に飛びかかるのを目の端で確かめながら、背後から襲い掛かってきていた蜘蛛の顎を突き、続いて頭を打つ。それでも尚も京姫を捉えようとする四本の前脚を払って、京姫は蜘蛛の頭の上に再び仗を振り下ろし、叫ぶ。


『桜吹雪っ!』


 蜘蛛の体は桜の花弁となって散っていく。周囲を見渡した京姫は、倒れたまま、まだ糸に包まれている先ほどの女子大生に、二匹ほどの蜘蛛が近寄りつつあることに気付いた。京姫は彼らを蹴散らし、怒って鋏を鳴らす彼らのうち、一匹の頭部を仗で突き刺し、残る一匹の巨体を仗で薙ぎ払うと、女子大生の糸を解き、毒を注入された故に蒼白になり硬直した体を呪文で清める。そんな京姫に忍び寄ってきていた蜘蛛たちを、京姫は仗を地面に突いて叫ぶことで一掃した。


桜人さくらひとっ!!』


 京姫の周囲に、花弁を巻き込んだ嵐が吹き荒れ、蜘蛛たちの体をばらばらに捥いで消滅させていく。京姫は女子大生の体を抱えると、ぱっと目についたベンチの上へと寝かせて、再び戦場に戻った。左大臣が三匹の蜘蛛を相手に奮闘している最中であった。だが、その働きぶりからみて、心配はないだろう。しかし、螺鈿はどこにいるのだ。やはり今回もその姿がない。


(まさか、今回もこっちは囮っていうんじゃないよね……?!)


 だが、囮だとしたところで、この蜘蛛たちを倒さねば犠牲者が出る。もし、こちらが囮だとして、他に螺鈿の目的があるのだとしたら、翼が気付いてそちらに赴いてくれるだろうか――そうだ、私、喧嘩していたんだった。逃げ遅れた教授らしき初老の男性を追いかけまわしている蜘蛛の影をようやく踏んで、後ろから飛びかかりながら、京姫は思い出した――緊急事態なのだから、関係ないはずだけれど。


「大丈夫ですかっ?!」


 蜘蛛を消滅させた後で、転倒して泡を吹いている教授の体を抱き起して、京姫は言う。すると、建物の中に避難していた人々のうち、二人ほど若いスーツ姿の男性たちが寄ってきてくれて、教授を連れていってくれた。京姫はベンチに寝かせていた女子大生のことをも二人に頼んだ。二人は京姫になにか尋ねたそうにしていたが、蜘蛛が恐ろしかったのか、なにも言わず、ただ頷いて安全なところへと引っ込んでいった。


 蜘蛛は炎の中がうじゃうじゃと湧いてくるようだった。あの炎自体をどうやら消し止めねばならぬらしい。だが、尋常の水では鎮めることはできないだろう。青龍の水がなければ。京姫は桜の嵐を纏って近づく蜘蛛を跳ねのけながら、火柱の方へと近づいていく。火柱は、中庭の中央に生えていた巨大な欅の木を一瞬で焼き尽くして、その巨大な幹に代って聳えている。京姫はその前に立つと、嵐を鎮め、仗を両手で握りしめた。青龍の力がなくてもできるだろうか。目を閉じて、暗闇の中に思い描く。揺れる藤の枝――


『桜……っ!!』


「姫様!!」


 左大臣の言葉に、京姫は目を開けた。巨大な影が自分を覆っていることがわかる。けれど、もはやどうしようもない――振り仰ぐ先に、邪悪な星座のようにぎらつく八つの目があった。


 覚悟のためでなく、恐怖のために目を瞑った京姫は、バーンという何かが爆発するような音を聞いたように思った。耳がじんじんする。蜘蛛のやつらがなにか仕出かしたのだろうか。ふと、彼女に突き立てられるはずであった鋭い牙が一向に降りかかってこないことを不思議に思って、京姫が見てみると、今目があったばかりの蜘蛛がひっくり返って脚をしなびさせていた。外傷はどこにも見当たらない……否、その脇腹のあたりにごく数センチほどの傷痕があって血が流れ出ている。誰かが蜘蛛を銃撃したのだ。京姫は辺りを見渡した。一体誰が……?この怪物たちに、通常の武器は効かぬと左大臣に聞いたはずなのであるが。ならば、この銃は――


 隣にしゅたっと飛び降りてきた人があって、京姫は叫び声をあげて飛びのいた。水色のリボンで結んだ藍色の髪と、横顔に嵌め込まれた青い宝石のようなその瞳はまさしく青龍であった。「青龍!」青龍は驚く京姫に何か言うでも、見遣るでもなく、ただ、蜘蛛を吐き出しているおぞましい火柱を見つめ、凍解いてどけを鞘から抜いた。


『青海波!』


 凍解の刃が空気を裂いたところから滝を断ち切ったように白い飛沫が立ち、波となって、火柱を覆う。水に触れられたところから悪しき火は消え去り、跡にはその燻りさえも残らなかった。青龍はそれを見届けると、刀を鞘に収め、静かにふうっと息を吐いて、その場を去ろうとした。


「青龍!」


 京姫の言葉にも青龍は振り返らない。すたすたと歩いていく青龍の後を、京姫は小走りになって追った。青龍の肩に手をかけ、再びその名を呼んでも、青龍は視線でさえも反応しようとしなかった。変身も解かぬまま、青龍は足早に、京姫の手を振り払いもせずに突き進んでいく。


「青龍ってば!ねぇ!」


 いきなり青龍が駆け出したので、京姫は呆気にとられた。逃れるつもりなのだろうか。それほどまでに、青龍は怒っているのだろうか。だからといって、こんな風に無視するのはあまりにもひどいではないか。こちらは謝りたいし、礼も言いたいのだ。すると、京姫の方も腹が立ってきて、青龍を追って走り出す。


「あっ、姫様!」


 最後の蜘蛛を倒し終わって、左大臣が気付いたときにはすでに京姫の姿も青龍の姿もなく、パトカーのサイレンの音が近づきつつあった。校舎に逃げ込んだ人々が恐々と顔をのぞかせはじめている。これ以上この場に留まる意味はなかろうと判断して、左大臣もまた主君を追った。



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